8月13日

明後日、60回目の終戦記念日を迎えますが、近年、戦争の恐ろしさのリアリティが人々から失われつつあると感じます。

戦争の恐ろしさが多くの人々の“心”の中にある間は、戦争という(外交における)最終手段を避ける力が働くでしょう。

しかし、人々の感覚からそのリアリティが失われれば、安易に戦争で外交問題解決しようという勢力を抑えることができにくくなります。

人の歴史をみれば、そうして記憶が薄れた頃、同じように愚かな戦争を繰り返してきました。今はそうした傾向が増加していると感じます。

(特に日本は、戦時中と同じように「空気」に流されやすい国民気質のままに思われるので、いっそう心配です。)

 

「人間はいつになっても同じ過ちを繰り返すしかないのか」というのは、私の絵描きとしての生涯のテーマでもあります。

「これをすればよい」などという特効薬はないでしょう。

前人はどこで、なぜ足を踏み外したか。それを学んで同じことを繰り返さないようにする以外に方法はないように思えます。

 

なぜ日本の人と組織は自己反省(分析)を苦手とすることが多いのでしょうか?(或いは、なぜ重視しないでこれたのでしょうか?)

過去の失敗はすべてもみ消してきました。証拠は焼き、埋めました。そしてその張本人が記憶を冥土にもっていったら、罪は問われなくなりました。

そのため、今も事実を再検討する障害になり、奇妙な美化妄想の跋扈を許す原因になっています。

例えば、アメリカは自国に不利になる資料でも、すべて保管し、30年後には一般公開しています。

戦争中のアメリカの作戦がハーグ条約に違反しているかどうかなどということが問えるのも、アメリカ自身が資料を保管し公開しているからです。

それに比べ、例えば日本軍が731部隊に細菌兵器を開発させ中国で散布実験していたことの証拠はことごとく破棄され、

あまり資料が残っていないことをいいことに、「そんな事実はなかった」と言い張る人が絶えません。

こうした証拠隠滅の行為は、現在や未来の日本のためになっているのでしょうか?

 

日本では戦争体験を語り継ぐ、というと原爆や東京大空襲の被害を訴えることがどうしても大きくならざるを得ませんが、

では「そもそもなんで日本はアメリカと戦争を始めたのか?そこに、どのような勝算があったのか?」という問いに答えられる人はどのくらいいるのでしょうか。

最終的には被害ばかりが目立つ戦争になりましたが、そもそも仕掛けたのは日本であり、

朝鮮半島、中国本土、比島からガ島にいたる太平洋の島々において加害者でした。(軍部の無謀な計画を支えたのは無知な国民でもありました)

戦後の日本人には、加害者としての戦争体験とその反省、という反面教師としての経験の継承がなされるべきだと思います。

 

また、日本は戦争という最終手段にでる前に、交渉外交において充分な努力と工夫をしていたのでしょうか?

終戦についても、ポツダム宣言の受け入れがあと一週間早かったら、広島や長崎に原爆を投下する口実を与えることはなかったかもしれません。

物量だけでなく、心理戦や情報戦の心得がなく、コミュニケーションを苦手とする結論が、感情的な暴力発動にしかたどり着かなかった惨めさを

現代の日本人は克服しているのでしょうか。

 

人間は学ばなければ、おそらく同じ事を繰り返すだけでしょう。「今は当時と違う」という戦争肯定に使われる言葉も、

歴史的に繰り返された言葉であることくらいは知っておくべきだと思います。時代がどんなに違っても、人間の性質や欲望は変わらないのですから。

(参考:1011