〜印象に残っている文章〜

■外交なき戦争の終末■  NHK取材班 著

 

「1.対ソ外交への甘い期待」 より抜粋

佐藤大使は戦後日本に帰国してまもなく、内閣戦争調査会の求めに応じて、

ソビエト滞在中出来事を回想している。

(略)

「私自体は外務大臣を拝命しておった時代に、議会で殊に右翼から激しく叩かれた。

というのは、佐藤外交なるものは軟弱である、佐藤は軟弱の標本であるというようにいわれて参った。

その佐藤が今度は中立条約一点張りで行きたい、それ以下には下がりたくない、もしくは以上に出たくない、

出得ないという意見を持って居る。その佐藤に対して、今度はソビエトから何がしかを貰いたい。

私からいわせますならば、それは軟弱以上の軟弱でなければならない。

それを日本の軍部の一部も、また当時の右翼の連中さえも敢えて口にするようになった。

私は日本の外交というものに対して、彼等に如何に定見がなかったかということを痛切に感じたものである」

佐藤大使の憎悪は、軍部や右翼の無責任さに向けられていた。

それまで外交を軽視し力の論理で日本を戦争に突き進ませてきた軍部や右翼が、戦局が不利になったとたん、

外交の力を頼りにするという、その虫のいい態度が容赦できなかったのである。

 

***

 

 「2、参戦防止のための対ソ交渉」 より抜粋

東郷外相の秘書官だった加藤俊一氏は、終戦工作の難しさについてこう語っている。

「外交交渉というのは、国内情勢の上に立っているものなんですね。内政と外交は不可分ですよ。

金貨の両面みたいなもので、内政的にできないことは外交的にできない。

ということは、実は終戦工作というものは八割が国内の問題なんです。

どうしたら軍部、とくに陸軍に終戦を認めさせるかということです。これがいちばん難しい。

陸軍はとにかく本土決戦なんですから。

最後まで戦うと彼らが言っていれば、外交交渉にもっていくなんてことはできない。

内政的に軍部を誘導するのが、我々のいちばん大きな困難だったのです」

 

***

 

日本軍による住民犠牲は、わかっている数字だけでも数百件。

アメリカ軍によるものの四倍ともいわれている。

方言を話し、軍の作戦にもかかわってきた沖縄住民は、スパイ容疑をかけられ、

罪もないのに殺されていった。

ある日突然、日本兵がやってきて、逆さ吊り、手榴弾、日本刀など、

あらゆる残忍な方法で殺されている。中には村ごと襲われたところもある。

「なぜ、これほどまでに私たち沖縄住民を苦しめ、傷つけるのか。日本人を信頼し、

常に友軍とともに戦おうとしている沖縄人が、どうしてスパイなどするものか。

こんなにくやしいことはなかった。」「こんなことなら日本人同士が戦えばよかった」

戦後、肉親や知り合いをスパイ容疑でなくした人々はこう証言している。

また、壕の中で友軍は、食糧を略奪し、子供は泣くからうるさいとといって殺し、

そして軍優先だといって、砲弾の中、住民を壕から追い出した。

また、アメリカ軍に投降しようとするものは友軍に容赦なく殺された。

「『友軍、必ずしも民を護らず』ということが、戦争が始まってやっとわかった」と

「いちフィートの会」事務局長の中村文子さんは語る。

 

***

「5、ソビエトへの和平仲介依頼」

アメリカ海軍太平洋戦略情報部は、日本の外交電報を傍受解読することによって得られた

「マジック」情報から、日本が無条件降伏するに至る経緯を完全に把握していた。終戦後の8月29日、

それらをまとめて「日本の終戦工作」と題する報告書を作成している。

「いみじくも佐藤が言ったように、日本が火につつまれているにもかかわらず、日本の政治指導者たちは

ポツダム宣言の条件がいわゆる無条件降伏とは違うと、専門的に区別しようとこだわり続け、

これはまた別の条約の類いであるというフィクションを、頭の中でどんどんふくらませていった。

(略)

陸軍と海軍の指導者に関していえば、陸軍に多く海軍に少なかったが、疑いなく彼らは

戦争に負けたということを知っていながら、いわゆる『天皇のために生きるのではなく、

天皇のために死ぬ』ことを要求する掟に従おうとしてきかなかった。

同じように降伏に激しく抵抗したその他の人々も、ただ、職業的プライドを満足させるためにそうしていた、

といってもいいだろう。どちらの場合にせよ、

ポツダム宣言の受諾を拒否しつづけることは、戦争終結の責任を負うことから逃れることだった。

 

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