Book Review
■だまされることの責任■ / 佐高信×魚住昭 著
この本で2人が指摘する日本の問題点を直視して、何らかの形でこの問題の解決に
取り組もうと思う日本人は、今一体どのくらいいるだろう?
イラク戦争をきっかけに、世界の中の日本、そしてアメリカの在り方を深く知りたいと思うようになり、
私は、司馬遼太郎の本を始めに、日本という国家が生じる明治から太平洋戦争までの流れ、
とりわけ人々の心理面にどのような移り変わりがあったのか調べていくうちに
誰もが集団として流されていく事が重なった結果、戦争へ突き進んでいくことになった、
という一面が避けがたくある事を知った。
この本は、戦後すぐ亡くなった伊丹万作(映画監督・伊丹十三の父)のエッセイ
「戦争責任の問題」をもとに、2人が対談するものだ。
伊丹は
「〜だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも雑作なくだまされるほどに批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、
家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、
無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することが
できなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実と、
まったくその本質を等しくするものである。(以下略)」 (1946年4月28日)
これは前に読んだJ,W,ダワーの「敗北を抱きしめて」に書かれていた、マッカーサーの言葉、
「日本は12歳くらいの子供」という意見と同じ指摘といえる。
だが、古山高麗雄の一兵卒の従軍記などを読んでいると、
それでも、当時の日本人には無理もなかったと思えるところがある。
すでに明治には福沢諭吉が「福翁自伝」で指摘しているように、
やはり島国の小さな社会で農耕中心に生活していた社会においては、
個性を生かして独創的な生産活動をする需要などがなく、お上の言う事に耐え、
集団の論理に従ってて生きる習慣が、染み付いていたと考えざるを得ない。
しかし、ならば戦後に育った私達は果たして
「自分は無垢な被害者にすぎなかったとそれぞれが主張する集団」を脱皮し、
自分の意思で考え、行動し、その結果に対する責任をとる個人として生活しているだろうか、
と問うてみると、はなはだ薄ら寒いと感じる。