〜印象に残っている文章〜
■「空気」の研究■ 山本 七平 著
ではここで「空気」と「水」と「自由」の関係を振り返ってみよう。
ここまで読まれた読者は、戦後の一時期われわれが盛んに口にした「自由」とは何であったかを、
すでに推察されたことと思う。
それは「水を差す自由」のことであり、これがなかったために、日本はあの破滅を招いたという反省である。
従って、今振りかえれば、戦争直後「軍部に抵抗した人」として英雄視された多くの人は、
勇敢にも当時の「空気」に「水を差した人」だったことに気づくであろう。
従って「英雄」は必ずしも「平和主義者」だったわけではなく、
“主義”はこの行為とは無関係であって不思議でない。
「竹槍戦術」を批判した英雄は、「竹槍で醸成された空気」に「それはB29にとどかない」という
「事実」を口にしただけである。
これは最初に記した「先立つものがネェなぁ」と同じで、その「空気」を一瞬で雲散霧消してしまう「水」だから、
たとえ本人がそれを正しい意味の軍国主義の立場から口にしても、その行為は非国民とされても
不思議ではないのである。
これは舞台の女形を指して「男だ、男だ」と言うようなものだから、劇場の外へ退場させざるを得ない。
そしてこれらの言葉=水の背後にあるものは、その人も言われている人も含めての、
通常性行動を指しているわけだから、この言葉は嘘偽りではなく事実なのだが
“真実”ではないと言うことになるわけである。
この行為が日本を破滅させたということは、口にしなくても当時はすべての人に実感できたから、
「水を差す自由」こそ「自由」で、これを失ったら大変だと人々が感じたことも不思議ではなかった。
(略)
だがしかし、この「水」とはいわば「現実」であり、現実とはわれわれが生きている「通常性」であり、
この通常性がまた「空気」醸成の基であることを忘れていたわけである。
そして日本の通常性とは、実は、個人の自由を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、
従ってそれは集団内の情況倫理による私的信義絶対主義の世界になって行くわけである。