〜印象に残っている文章〜
■レイテに沈んだ大東亜共栄圏■ NHK取材班 著
「2.幻の大東亜共栄圏」 より抜粋
軍政監和知鷹二少将以下、軍政に当たった軍人や文官のほとんどにとって、
フィリピンははじめて赴く国であった。
(略)
フィリピンに関する充分な知識のないまま、実質上、軍人が異民族、異文化の
異国の統治にあたっていたわけである。
この無知無策が失政につながり、やがて日本軍は住民を敵にまわすことになる。
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フィリピン人、そして日本人元軍人による軍政に対する批判を紹介したが、
次にトップが軍政を批判した異例の文書を紹介しよう。村田省蔵の「対比施策批判」である。
(略)
村田はゲリラが跳梁し、民衆が日本軍に背いた理由を、十六か条にまとめている。そのうち三点を紹介する。
その一つは、憲兵隊や守備隊の横暴さの問題である。
職務上フィリピン人と直接接するのは曹長以下である、と述べ、
「彼らの多くは視野概して己の周辺を出でず、治安の維持に急して民衆の福祉に疎(うと)く、
自己の功を挙ぐるに専(もっぱら)にして他の迷惑を顧みるに遑(いとま)なく、
風俗を無視して習慣を重んじず、常に征服者の態度を以って民衆に臨」んでいると指摘する。
もう一つは、愚民観に関わる問題である。
フィリピンは教育が盛んで、大学も多く、アメリカ留学経験者も多い。彼らのプライドを顧みず、
未開民族に対するのと同じ態度で彼らを指導しようとしたのは失策であり、
大いに反省すべきである、と指摘する。
さらに、日本人は教育程度が高く、識字率は世界有数であるにもかかわらず、
日常の行動作法はそれにともなっていない。軍人でも民間人でも海外に出るととりわけそうで、
そのために異民族に疎んじられる、と指摘する。
(略)
村田が非難した横暴さ、傍若無人ぶりは、
途上国にビジネスや観光で行っている現在の日本人にも当てはまるのではないだろうか。
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こんなこともありました。東北地方の大豆をフィリピンで栽培して、
味噌を自活しようという計画があったんです。
「日本の大豆をフィリピンで栽培するなんて、無理だからやめなさい。それより、送られてた種豆から
味噌を作ったほうがましだ」と和知参謀長に談判にいったんです。
日本軍は農業について何も知らなかった。一国の農業は、いじるべきものじゃないんです。
変わらない。変えようがないんです。
「良い綿を持っていったら良いシャツができる。良い大豆を植えたら良い味噌が自活できる」
そうした素朴な考え方ではいかんのです。
風土も何も無視した机上の空論です。その空論の集積が「大東亜共栄圏」だったのです。
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フィリピン以外の占領地でも、日本軍は住民を蔑視し征服者として横暴に振る舞い、
自分たちの価値観をおしつけていった。
また、住民の生活、金融、産業を破壊し、資源を収奪していった。
いずれの国の民衆もやがて、日本の本音はアジアの開放ではなく資源の収奪にあり、
日本の覇権は欧米の統治とかわらない、あるいはいっそう苛酷だと気付き、抗日運動を展開していく。
「大東亜共栄圏」は、その理念と実態、理想と本音の乖離をさらけ出し、幻の構想となっていった。
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レイテ戦で死亡した日本兵は八万人。実に97パーセントが生きて帰れなかった。
日本軍はアメリカ軍とゲリラ、そして住民を敵にまわし、壊滅していった。
(略)
「当時は『大東亜共栄圏』の建設のための戦争だといわれ、我々もそう信じていました。
しかし、今になって考えてみると、あんなん無駄なことでした。
向こうに被害を与えて、こっちもあんだけ損害受けて、いいことは何もなかった。
いちばん損したのはフィリピン人です。
人間の気持ちだけは、武力で支配できんと思います。
それを日本の軍部はもっと早よう、中国大陸での戦いで気付かなかったのか。
(略)
レイテ島でもし仮に住民が協力してくれたら、最終的にはアメリカに負けたとしても、
食糧は手に入れられたでしょう。アメリカ軍も住民もみんなが敵やったから、山の中に入って、
人目につかんように生きるしかなかった。飢餓に苦しみながら、さすらうしかなかった。
レイテは世界最悪の戦場でした。日本軍は住民を敵にまわして壊滅したんです」