〜印象に残っている文章〜
■電子兵器「カミカゼ」を制す■ NHK取材班 著
「2.日本のレーダー」 より抜粋
全般的には、アメリカに比べ日本のレーダー研究は劣っていたのであるが、
中島さんたちのグループのように世界的な水準にまで達していた研究も行われていたのである。
しかし、なぜこうした研究が実際の兵器開発に結びついていかなかったのか。
中島さんは当時の用兵側に問題があったことを痛烈に批判している。
「たしかに『レーダーなくして戦はできない』という信念をもった軍人もいましたが、
それは例外的な存在でした。」
レーダーの電波を出して敵を見つけて、その敵を攻撃するなんてことは夢にも考えない、
バカげた考え方であると、ほとんどの軍人たちは考えていたと思います。
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電波探信儀は、相手の攻撃を待ち伏せして、それを迎え撃つための兵器である。
つまり艦船や陸上基地を守るための「防御兵器」と見なされた。
もちろん電波探信儀は、用途別に射撃用もあり、攻撃兵器の機能も充分に備えているのだが、
しかし、電探がみずから発砲する類いの兵器ではなく、
あくまで砲の補助装置として敵の動きを見守ることが最大の役割であり、
そうした敵の出方を待たなければならない点が「防御」のイメージを強調したと思われる。
海軍のみならず当時、日本の軍全体を支配していたのは「攻撃優先」の思想であった。
軍人たちは勇ましく攻撃することを、作戦会議などの席上で声を大にしていう習癖があり、
そこでは守りに徹したり戦局の推移を見守るといった消極意見は、卑怯者との烙印が押され
排除される傾向が強かった。
こうした日本軍の体質が支配するなかで「防御兵器」電波探信儀は軽視されていった。
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「3・日米の兵器思想」 より抜粋
「あらゆる余分なものはいらない。何度も機体の骨組みや部品の強度を計算して、
必要な部分だけを残して、あとは贅肉を削ぎ落としていきました。(略)」
この徹底した軽量化をはかることで、空戦性能において、
ゼロ戦は世界的な水準にたどり着くことができたのである。
しかし、「防御」「防弾」については、まったく考慮されることはなかった。
(略)
こうして完成され戦地に投入されたゼロ戦も、アメリカ軍が編み出した戦法によって、
その攻撃力を発揮できない状態に追い込まれていく。アメリカ海軍は、もしゼロ戦と遭遇した場合、
ゼロ戦と空戦を交えない方針をとったのである。
そして、スピードでゼロ戦に勝るF6F戦闘機の配備を完了させると、
「一撃離脱法」の戦術をとった。
これはゼロ戦のやや上空で待機し、急降下で攻撃をくわえ、すぐに逃げ去る戦法である。
さらに複数の味方機が組んでゼロ戦と戦うことを鉄則とした。
アメリカはこの戦法で、ゼロ戦が得意としていた空戦(巴戦)を封じたのであった。
(略)
こうしてF6Fヘルキャットの登場と「一撃離脱法」の戦法で、太平洋戦争の戦局は
大きくさまがわりしていく。
攻撃をくわえられたゼロ戦は、防御装置がないために簡単に燃えて落ちた。
「攻撃は最大の防御なり」という設計思想のもとに作られたゼロ戦も、
その攻撃力が押さえ込まれた結果、防御装置のない弱点が露呈してしまったのだ。
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「4、戦いを制したエレクトロ二クス技術」 より抜粋
アメリカは戦力増強のために、OSRD(科学開発局)の組織力を活かして科学者の動員を、
より国家規模で進めていくのである。(略)
アメリカの科学者たちはレーダーやVT信管などエレクトロニクス兵器を開発し、
これらの兵器は個々の戦いで、アメリカ軍に有利な戦局をもたらした。
そして科学者たちは最終的に、原子爆弾までも創り出してしまうのであった。
(略)
このブッシュ博士を頂点とするアメリカの科学者集団が、軍人に対してイニシアティブをとることで、
アメリカの兵器開発は大きな成果を上げた。科学者集団にイニシアティブを発揮させ、
その能力を最大限に引き出したアメリカの行政府と軍部の政策が功を奏したのである。
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とにかく陸軍はひどかった。私の会社の研究所の技術者を、片っ端から招集してしまうのです。
そして、この技術者に穴掘りをさせたのです。もともとアメリカにくらべて科学者、技術者の数は
10分の1以下しかいないのですから、その中からまた穴掘りのために研究者をもっていってしまうのです。
(略)
「もう少し欧米の技術というものを知っていたら、太平洋戦争に日本は突入しなかったはずです。
その点、陸軍の軍人は欧米の技術なんてものは全然知らなかったんだと、私は思います。
やはり大和魂で戦争をするという気持ちが強かった気がします」
科学に対してまったく認識がなかったわけですが、それは軍人ばかりではなく、
日本人全体の責任だと私は思います。