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このキリバンの読み方
男編女編があります。お好きな方からお読み下さい。
またこのキリバンはザッピング方式になってます。
途中、色が変わっているをクリックするとそれぞれの話に飛んで読み続ける事が出来ます。到着した最初の行からお読み下さい。

たあ坊に捧ぐ

R15〜

  祭りの後は女の姿を探していた。今想いを伝えないと、もう一生逢えないかもしれない。男の目は人混みを縫った。駐車場、プールサイド、シャワー室。探って漁ってやっと女の背中を捕らえた。女の背中は人目を避けるように控え室に入っていった。男は慌てて女を追った。
 控え室はもう閑散としていた。ただ一人女がぽつんと立っている。男は入り口に立って女の様子を覗き見た。女は男が後ろに立っている事に気付いていないらしい。誰もいない控え室を眺めて歩いている。
 女がホワイトボードの前に立った。そこには男達が書いた寄せ書きがある。女は一点を見ている。自分が書いた言葉を見ている。男はそう思った。思い過ごしかもしれない。でもそう思いたかった。ホワイトボードには女への想いが書いてあった。一生に一度しかない出会いかもしれない、悔いは残したくない。そんな自分の気持ちに一番近い四文字熟語。あの人が教えてくれた四文字熟語。
 男は腹を決めた。気付かれないように控え室の鍵をそっと閉めた。そしてベンチに腰掛けた女の背中へそっと歩み寄った。足が震える。静かに歩いても心臓の音で気付かれてしまいそうだ。
 震える手で女の目をそっと覆う。
「誰?」
 の決心を知らない女が軽く尋ねた。
 男は何も言えないでいた。女が促すように男の手に触れる。漏れそうになる声を必死で押さえる。女の手は容赦なく、探るように男の指をなぞった。男は手に神経を集中させた。衣擦れのように女の指が自分の手の甲を辿っている。気がおかしくなりそうだ。心臓が破裂してしまう。
「ねぇ。誰なの?」
 が恐れていた言葉が飛び出した。
「聞かないで」
 女の耳元で囁いた。女は軽く笑う。
「声で、誰だか分かるよ」
 女の答えに慌てた。急いで女の耳を塞いだ。
「聞いちゃ駄目。僕の声を聞かないで」
 自分が誰だか分かったらこの人は僕を拒絶するだろう。僕が本気であればある程拒絶するはずだ。だって、この人は僕の気持ちを受け入れられないから。もう他の誰かのモノだから。分かってる。分かってるんだ。だけどほんの一瞬で良い。この人を感じたい。
「やっぱり聞いて。僕の声を聞いて。僕を背中越しに感じていて」
 の手が女の耳から離れた。間髪入れず、その手で後ろから女を抱き締める。
 意外に華奢な女の体に男は焦った。このまま力を入れたら、もろく崩れてしまいそうだ。でも力を緩める事が出来なかった。この夏の苦しい想いを全て込めて抱きしめた。女の髪の毛が男の鼻先をくすぐった。
 男が思い出していたのはあの夏の日々。女が楽しそうに拍手する姿だけが支えだった。あの拍手がこの夏の全てだった。この夏を無駄にしたくない。男は決めていた。「年下の仲良しの男の子」から卒業してみせる。
 沈黙。
 長い沈黙が二人を襲っていた。女は何も喋ってくれない。怒っているのだろうか。
 男は急に不安になった。こんな風に突然想いをぶつけてしまった事を激しく後悔した。
 今なら。今なら何も無かった事に出来るかもしれない。手を離し、立ち上がり、部屋を出て行く。それだけだ。そう。それだけ。
 なのに。離れられない。金縛りに会ったみたいに。離れようとすればする程、腕がどんどん固まっていく。
 は決心の溜息を吐いた。女に伝わるように。
 だけど女は身動き一つしない。
 これは拒否の意思? それとも受諾のサイン?
 もう気が変になりそうだ。何を考えているのか分からない。もしかして、僕を試しているの? 僕が何にも出来ないとでも思っているの? 僕がまだ子供だからって安心してるの? それとも僕が良い子だから? 悪い事しないと思ってるの?
「何か言ってよ」
 は女の唇にそっと手を触れた。でも女は何も言わない。
「何で駄目って言わないの? 何で嫌って言わないの?」
 それでも女は何も言わない。男の中の小さな希望が大きな確信に変わる。
 この人も僕と同じ気持ちでいるんだ。
 は女の心臓にそっと触れた。
「すごく、ドキドキしてるよ」
 それでも女は何も言わなかった。人形のように。男は喜びを噛み締めた。もうすぐだ。もうすぐこの人は僕のモノになる。
 再び女を後ろから抱き締めた。髪に顔を埋める。女の匂いを吸い込んだ。
 勘違いしちゃいそうだ。
 こんな風に二人でくっついてると。
 温度が伝染していって。
 いつまでも一緒にいられるような。
 肌が柔らかくって。
 年の差が越えられるような。
 空気が心地よくって。
 この世界にたった二人しかいないような。
 あなたの質量を感じて。
 あなたが僕のモノになるような。
 勘違いしてもいっかな。
 このままあなたと二人っきり。何も喋らなくても何でも伝わる。洋服や皮膚だけじゃない。体の内側も繋がってる。僕の栄養があなたへ届く。あなたのシナプスから神経伝達物質が僕に放出される。同じ酸素を共有してる。
 怖い位。怖い位。
「駄目よ」
 突然女が振り絞るように言った。ずっと言い出せないでいたのだろうか。でももう後戻りは出来ない。
「もう遅いよ。僕が言ったからってそんなセリフ言わないで」
 は女の背中に頭を付けた。
 ずっとこのままでいたいんだ。あなたもそれを望んでいるんだろう?
 駄目と言ったはずなのに、女は男の手を振り解こうとはしない。男は安心した。
 やっぱり僕の思った通りだ。
「あなたは悪い人だ。あんなに可愛い子供もいるのに」
 の口から意地悪な言葉が飛び出した。男は自分のした事に動揺した。もどかしさや悔しさや歯がゆさを愛しい人にぶつけてしまった。どうにもならない事なのに。自分の愚かさと未熟さを痛感した。こんなセリフ吐いたら、この人は僕の知らない奴の所に帰ってしまう。
「そうよ、子供だけじゃない」
 女の言葉に心臓が圧縮された。息が出来ない。不安になった。水の中にずっといるみたいだ。息苦しくても潜ってなきゃいけなくって、空気が吸えなくて、酸素不足で何も考えられない。僕には色んなモノが足りないんだ。空気の代わりにあの人の匂いを吸い込んだ。むせる程。僕を。助けて。
「止めて。それ以上言わないで」
 は女の口にそっと手を宛がった。女の唇を指でなぞる。柔らかく吸い付いてくるような唇。美味しいフルーツみたいだ。熟れた禁断の甘いフルーツ。食べてみたい。男は思った。気が急いた。何でもいいから女を繋ぎとめておきたい。
「ごめん、ね。変な事言って。もう言わないから。もう言わないから許して」
 の口から薄っぺらな言葉が飛び出した。違う、違う。本当に言いたかったのはこんな言葉じゃない。どれだけ好きだったか、どれだけ苦しかったか、どれだけあなたを必要としているか、昨日の晩、ずっと寝られずにそればかり考えていたはずなのに。
 言葉の代わりに想いを込めて抱き締めた。だって、ちょっとでも緩めたら、きっとするりと逃げていく。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。この人は僕のモノだ。僕のモノなんだ。誰にも渡さない。
 頂点まで上りつめた時、気持ちが急降下していくのに気付いた。まるで子供だ。人の玩具を欲しがる子供。愛しい人に相応しいような大人の男になると決めたはずなのに、この様は何だ。男は奥歯をぎりりと噛みしめた。こんな自分のままじゃ、繋ぎとめておくことは出来ない。もうこれ以上。
「さようなら」
 女の小さな声がの耳に飛び込んだ。
「今、何て言ったの? 聞こえなかったよ。もっと大きな声で言って」
 女は何も言わなかった。代わりに涙が一粒、頬を伝わった。男は首筋を伝う水滴にそっと唇を触れた。
 このまま息を大きく吸い込んで、僕の痕跡をここに残したら、この人はどんな顔するだろう。哀しむかな。怒るかな。諦めるかな。許してくれるかな。
 なんて。
 こんなこと考える内はまだまだ子供だな、俺。
 女がぽんぽんと優しくの腕を叩いた。それが合図になって男の腕の力が抜けた。
 がらがらと自分を縛り付けていた鎖が壊れ落ちていくのを感じた。
 何か。何か言わなきゃ。
 でも何も思い浮かばなかった。男は心の中で大きな溜息を吐いた。
「……ありがとう、ございました……」
 それはいつもと同じ挨拶。いつもと同じ終演の挨拶。
 それしかもう言えなかった。お決まりの文句が口を伝って出てくるだけ。
「もっと元気よく!」
 女が正面を見たまま叫んだ。男の背筋が伸びた。冷たい水を浴びさせられたようだった。
 男は思った。今度会った時はもっと成長した僕を見て。
「…………したっ!」
 男は叫んで深々と頭を下げた。そして顔を上げると、女の背中に精一杯の笑顔を捧げた。
 そして男は走って部屋を飛び出した。そう、祭りの時と同じように。