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このキリバンの読み方
男編女編があります。お好きな方からお読み下さい。
またこのキリバンはザッピング方式になってます。
途中、色が変わっているをクリックするとそれぞれの話に飛んで読み続ける事が出来ます。到着した最初の行からお読み下さい。

たあ坊に捧ぐ

R15〜

  祭りの後は人混みを離れて一人控え室に向かった。湿った塩素の匂いがする控え室。女は軽く深呼吸した。この匂いを、この空気を忘れないように。
 主を失った控え室はがらんと静まり返っていた。女はそっと壊れ物を扱うようにいろいろな物に触れた。ロッカー、ベンチ、ホワイトボード、誰かの忘れ物のタオル、ゴーグル。
 ホワイトボードには色々な字で別れの挨拶が書かれている。あの子の言葉もあった。女が好きな言葉だった。いつだったか言葉の説明をしてあげた。覚えていてくれてたんだ。胸が熱くなった。女はマーカーを取る。
 お疲れ様――たあこ
 書き終わった後、急いで自分の名前だけ消した。
 いいんだ、私は。最初っから最後までただの応援団で。
 ホワイトボードを見ながらベンチに腰掛けた。
 不意にひんやりとした手が女の目をそっと隠した。
「誰?」
 が少し怯えて聞いた。
 返事はない。そっと確かめるように覆われた手に触れた。冷たい関節をなぞる。ガラスみたいなハリのある手。もろくて壊れちゃいそうな、まだ少年っぽさが残る指。
「ねぇ。誰なの?」
 が降参して聞いた。
「聞かないで」
 耳に囁かれた。女はくすぐったくて身をよじる。そして聞き覚えのある声に安心した。
「声で、誰だか分かるよ」
 いつもの笑顔が浮かんだ。照れたような、誇らしいような、イタズラっ子な笑顔。
「聞いちゃ駄目。僕の声を聞かないで」
 予想とは反対の切羽詰った声だった。今度は耳を塞がれた。暗闇から開放された目が霞む。外界から遮断された耳がもそもそとする空気の音を聞き始めた。
 男の手はひんやりしている。自分の耳たぶよりも。静か過ぎて、心の隅にひっかかていたデキモノが少しずつ晒されていくような気がした。
「やっぱり聞いて。僕の声を聞いて。僕を背中越しに感じていて」
 男の手がの耳から離れた。安心した直後、その手で後ろから抱き締められた。
 意外に頑丈な腕に急に強く抱き締められ、女は窒息しそうになった。クラクラする。支えてくれないと倒れそうだ。このまま身を委ねていたい。一瞬そう思った自分に驚いた。熱くなった耳たぶが男の頬を感じていた。
 女は抱き締められながら思った。この子は今どんな顔で私を抱き締めているのだろう。男のあどけない笑顔が浮かんだ。心安らぐあの笑顔。突然、心臓が激しく音を立て始めた。何でこんなにドキドキするんだろう。
 冗談でやってるんだよね?
 明るく聞けばいいのに、声が出ない。怖い。本気なのが怖いの? 違う。きっと冗談だよって笑われるのが怖い。
 私はどうしたいんだろう。この子とどうなりたいんだろう。こんな年がうんと離れてる子とどうなりたいんだろう。
 胸板が。背中に密着している胸板が意外に厚くって。熱くって。このままでいると、色んなモノが崩れてしまいそう。
 女の中で男の存在が膨れ上がる。溢れ出す位。痛い。どんどんどんどん大きくなっていく。
 男の耳元で溜息を吐いた。
 女はギュッと目を閉じた。
 もうどうなっちゃってもいっか。このままこの子の水の中。沈むとこまで沈んじゃって、どうにでもなっちゃっていっか。
 罪は麻薬。蜜は媚薬。
 このまま……。
 自分の気持ちを言ってしまおうか。言ったらきっと楽になる。
「何か言ってよ」
 男はの唇にそっと手を触れた。でも女は何も言えない。
「何で駄目って言わないの? 何で嫌って言わないの?」
 言ったら楽になる。言ったら楽に。でも。何も言えない。
 の心臓に男の手がそっと触れられた。
「すごく、ドキドキしてるよ」
 この子は何て意地悪な事を言うんだろう。女の中で何かが崩れていった。もう後戻り出来ない。この子にきっと自分の気持ちを悟られてしまった。
 涙が溢れた。いろんな想いが水になって溢れた。
 勘違いしちゃいそう。
 こんな風に二人でくっついてると。
 温度が伝染していって。
 いつまでも一緒にいられるような。
 肌が柔らかくって。
 年の差が越えられるような。
 空気が心地よくって。
 この世界にたった二人しかいないような。
 君の質量を感じて。
 君が私のモノになるような。
 勘違いしてもいっかな。
 このまま君と二人っきり。何も喋らなくても何でも伝わる。洋服や皮膚だけじゃない。体の内側も繋がってる。私の栄養が君へ届く。君のシナプスから神経伝達物質が私に放出される。同じ酸素を共有してる。
 怖い位。怖い位。
「駄目よ」
 女が言葉を懸命に搾り出した。やっと出たその言葉は真実から掛け離れていた。
「もう遅いよ。僕が言ったからってそんなセリフ言っちゃ嫌だ」
 男が甘えたようにの背中に額を付ける。
 私は意地悪だ。止めて欲しくないくせに「駄目」なんてセリフ吐いて。この子をもっと困らせたいなんて思ってる。
「あなたは悪い人だ。あんなに可愛い子供もいるのに」
 の胸が高鳴った。
 もしかして、嫉妬してくれてるの?
 男の口から飛び出した言葉は魅惑的だった。まるで禁止されている美味しい果物。熟していて瑞々しい美味しい美味しい果物。指を触れると果肉が弾け出すような。女は愕然とした。私はこの果物を欲しているのだ。
「そうよ、子供だけじゃない」
 本心とは別の言葉を口にした。聞かないで。私の言葉を信じないで。
「止めて。それ以上言わないで」
 の唇に男の手が宛がわれた。壊れ物を扱うように優しく触れてくる男の指先。指先をもっと感じていたい。もっと知りたい。爪の色。渦の形まで。自分の唇に神経を集中させる。
「ごめん、ね。変な事言って。もう言わないから。もう言わないから許して」
 男が言った。その言葉は不思議との切なさを冷めさせた。
 自分の子供が悪戯をした時に必死で振り絞るような謝罪の言葉と同じだ。 現実に引き戻された。悟ってしまったのだ。ふと。突然。蒸した暑い部屋、扉を開けると冷たい風が吹く――そんな風に突然悟ってしまったのだ。
 やっぱり私にはこの子は似合わない。私が汚しちゃいけない。私には荷が重過ぎる。この子にはまだ未来がある。これから色んな出会いを重ね、もっと気の利いたセリフを言えるようになるだろう。自分にはその手伝いは出来ないのだ。もうこれ以上。
「さようなら」
 は小さな声で言った。そう言うのが精一杯だった。
「今、何て言ったの? 聞こえなかったよ。もっと大きな声で言って」
 女は何も言わなかった。代わりに涙が一粒、頬を伝わった。男は首筋を伝う水滴にそっと唇を触れた。
 そんな事されるとさよならを言った唇を後悔してしまう。振り切った気持ちがまたブランコみたいに戻ってきてしまう。もろい私の決心。ごめんね。やっぱりこんな私じゃ君の気持ちには応えられないよ。
 はぽんぽんと優しく男の腕を叩いた。それが合図のように男の腕の力が抜けた。
 がらがらと自分を縛り付けていた鎖が壊れ落ちていくのを感じた。
 ゆっくりと立ち上がる男の気配を感じた。何か言いたそうにしている。そんな事も分かってしまう。たった数分密着していただけなのに。
「……ありがとう、ございました……」
 男から発せられた言葉。それはいつもと同じ挨拶だった。いつもと同じ終演の挨拶。
 そう、また戻ればいい。いつもと同じ二人の関係に。
「もっと元気よく!」
 振り返る事なく女が言った。平静な顔に戻るにはまだ距離が近すぎる。
「…………したっ!」
 男が震える程大きな声で叫んだ。
 きっと深々と頭を下げているのだろう。
 女は心の中で惜しみない拍手を捧げた。
 そして男は走って部屋を飛び出した。女は振り返りたくなる気持ちをぐっと抑えていた。