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そうマンマに捧ぐ

痛みA

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 女がゆっくりと目を開けると最初に感じたのは薬品の匂いだった。どこかで見た事ある場所だった。女はハッとする。いつも見るあの悪夢の中の場所だ。
 またきっとこれも夢なんだろう。そう思った。そう思い込もうとした。でも。いつも以上に何だかリアルだ。夢では感じない黴臭い匂い、湿った空気……それに何だろう、この息苦しい感じは。
「気付いたようだな、おまえのパートナーが」
 声のする方に顔を向けようとする。が、動かない。体の自由が利かない。どうやら寝かされて縛り付けられているらしい。首が何かにキツク締めつけられていて声も出せない。
「これが最後という言葉を信じているぞ。今までわしが選んだ検体をことごとく蹴りよって。自分で選びたいだのと生意気な事を言いよって」
 物凄い嗄れ声だ。まるで何十年も人と会話してないような。誰と話しているんだろう。相手が見えない。
「わしはもっと若い検体が良かったのじゃがな」
 女の目の前に急に顔が現れた。青白い顔。深い皺。ボサボサの白髪頭。声の主だ。すぐ分かった。ゾッとした。検体?
 その時冷たく尖ったモノが女の首筋に当てられる。
「何をする」
 老人が叫ぶ。
 次の瞬間。苦しかった首元が急に楽になった。大きく息を吸い込む。
「何をするんじゃ、おまえは」
 老人が誰かを突き飛ばした。自由になった頭をゆっくりと向ける。片山だった。壁にぶち当たり、うな垂れてしゃがみ込んでいる。
 老人がゆっくりと女に歩み寄る。新しい拘束帯を取り出す。
「止めろ」
 片山が立ち上がり老人を止めた。老人が片山を睨みつける。
「……いや、止めてくれ。俺が見張ってるから大丈夫だ」
 片山の声は弱々しかった。女は何も言えなかった。何も考えられなかった。ただ傍観しているだけ。老人がフンと鼻先で笑った。
「何でこの女にしたんだ」
 片山が女を見た。哀しげな瞳。
「共鳴した。だから連れてきた」
「共鳴?」
「夢に出てきたんだ」
 老人が大きな声を立てて笑った。天井に老人の笑い声が反響する。女は老人を見た。深い皺を刻ませながら口元を捻り上げて笑っている。木彫りのような笑顔。
 この人の方が片山先生の疵よりよっぽど醜く痛々しい。
「そんな甘っちょろい考えを持つなんて。おまえはやっぱり失敗作だ」
 片山の顔が曇る。
「失敗作?」
 女が思わず声に出す。恐い顔で片山が振り向く。哀しい瞳と目が合う。逸らす事が出来ない。
 女の鼻先にまた老人の顔が現れる。
「そうとも。こいつは失敗作なのさ。それと比べて……見よ、この美しい昆虫達を」
 老人が指し示した方向を見る。沢山の昆虫の標本が並べられている。数え切れない程の。
「美しい。何て美しいんだ。この世で一番美しい生き物は昆虫だ」
 老人は標本に頬摺りした。愛しそうに。女はゾッとした。
「せっかくおまえも美しくしてやろうと思ったのに……」
 老人が片山の顔を撫でた。そして再び突き飛ばした。
「適合しなかったのはおまえのせいだぞ。この失敗作めっ」
 片山は何も言わず、うな垂れている。
 何でこの人は黙っているんだろう。何でこんな奴の言う事を聞いているんだろう。
「まあいい。もう過ぎた事だからな」
 老人がニヤニヤと薄気味悪い笑顔を浮かべた。
「さて、この女に相応しい昆虫を探さねばな。……逃がすんじゃないぞ」
 老人はそう言うと部屋から出ていった。片山は黙って扉を見つめている。女は何も言えない。長い時間が経ったような気がした。
 やがて片山がゆっくりと立ち上がる。うな垂れたまま。ライダージャケットの内ポケットから折り畳みナイフを取り出した。女に近付き、手と腰を縛り付けていた拘束帯を取り去る。
 片山は女が寝かされているベッドに腰掛けた。女は自由になった上半身をゆっくり起こす。軽い目眩が女を襲う。片山は動かない。
「逃がしてくれる訳じゃないんだ」
 女がまだ縛られている足を摩りながら言った。
 片山が顔を上げた。酷く疲れた顔をしている。
「どういう事なの?」
 沈黙の後、片山は静かに笑った。
「聞いたろ? そのままさ」
 女は黙り込む。言葉は出てこない。頭の中だけいろんな言葉が巡る。
「私はどうなっちゃうのかな」
 凄く冷めている自分に驚いた。恐怖心は無かった。それよりもぶっきらぼうだったが、夢の中と同じような片山の柔らかい声に安心した。
「あなたは……多分蝶人間になるよ」
「蝶人間?!」
 思わず吹き出した。
「あ……ごめんなさい、つい。なんか夢の続きみたいで……」
 片山も笑ってくれると思った。でも片山の表情は益々冷たくなった。
「俺のこの疵……」
 片山が小さな声で言う。
「え?」
「俺のこの疵、産まれた時には無かったんだ」
 片山と目が合う。痛々しい疵。
「俺は甲虫と掛け合わされた。遺伝子操作されてね。……でも失敗したんだ。人間の部分が多く出てしまった。だから俺は失敗作なんだよ」
 片山の哀しい瞳から目が逸らせない。心臓が圧縮される。これは夢じゃないんだ。
 自分にとっては夢の世界の出来事だった。昨日まで。でも片山にとっては現実の世界で起きていた事だったんだ。ずっと。
「そんな事……そんな事上手く行く訳ないじゃない」
 片山を取り戻したかった。自分の現実の世界に呼び込みたかった。
「俺の弟はちゃんと昆虫人間になったんだ」
 片山の冷たい言葉にハッとする。
「まさか……それって……」
「そう、例の怪人は俺の弟さ。ニュースにならないように目撃した人の記憶を俺が消してきたけど」
 脳の奥が悲鳴を上げる。忘れかけていた記憶が蘇りそうになる。
「怪人は……あなたの弟さんは何をしたの?」
 片山はその問いには答えなかった。代わりにこう言った。
「大丈夫。被害に遭った家族の人達の記憶もちゃんと消しておいたから」
 大丈夫じゃないよ。そんなの全然大丈夫じゃないよ。あなたは人間の心まで失ってしまったの。
「あなたは蝶人間になった後、僕の家族になるんだ。博士は純粋な血統を欲しがっている」
 淡々と語る片山に愕然とした。
「本気で……本気で言ってるの?」
 片山は答えない。やっぱり夢は夢でしかないんだ。夢と同じ片山はここにはいない。
「何であんな人の言う事聞いてるの」
 答えてくれないと思った。でも片山はあっさりと口を開いた。
「俺の父親だから」
「父親?」
 女の声が大きくなる。
「そう」
 女は驚いたが、片山は平然としていた。
「父親が実の息子にこんな事する訳ないじゃない」
 女が片山の腕を掴んだ。
「それでも俺にとってはたった一人の家族なんだ」
 女に腕を掴まれたまま片山が言った。
「そんなの家族じゃないわ」
「あなたには分からないよ。毎日幸せそうに暮らしてるじゃないか。僕は父さんしかいないんだ。もう。」
 女は手を離した。言いたいセリフがあった。でも言えなかった。夢の中でだったら言えるのに。
「本当は夢で。何もかもが夢で。また目が覚めたら長ぁーい長い夢で。自分の部屋で。顔洗って、歯磨いて、ご飯食べて、学校送り出して、仕事行って……。だったらいいのに」
「俺も夢の中だけの存在が良かった?」
 片山の瞳が女の目を覗き込む。
 やだ。夢だけのあなたじゃやだ。
 泣きそうになるのを我慢した。唇を噛んで堪えた。このまま片山が消えちゃいそうで怖かった。今のうち、言いたい事言わないと。
「私は? 私がいるじゃない?」
「え?」
 片山がぼんやりと返事をする。
「あなたは一人じゃない。私がいる」
 女は片山の手に自分の手を重ねた。
「ねぇ。私の目を見て。夢で言った事は本当に私が思った事よ」
 女は少し笑った。
「安心した。あなたが何に怯えているのかが分かって。……私、もう怖くないよ」
 女の声は自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
「だから……。……あなたの痛みを分けて」
 女は片山の疵にそっと手を触れた。暖かな時間が流れた。片山の目から涙が溢れた。
 でも。
「俺には出来ない。父さんを捨てるなんて。……分かってる? 父から逃れるには殺すしかないんだよ。出来ないよ、父を殺すなんて」
 女は絶望の淵に立たされた。片山の気持ちが痛い程分かった。私だって、そうたにはずっと味方でいて欲しい。
「俺と一緒に改造されてくれないか?」
「え?」
「そしたらずっと一緒にいられる」
 心が揺らいだ。何で揺れてるんだろ。はっきりNOと言えばいいのに。
 この人を捨てて自分の家に帰る事なんて出来ない。守ってあげたい、この人を。哀しみから、不安から、畏れから、圧力から、この人を取り巻く暗い世界から。
 でも。でも私には守るべきもう一つの命がある。
 一体どうすればいいの?
「こんな僕の為に本気で悩んでくれてるんだね。あなたには帰るべき場所がある。そこへ戻った方がいい。大丈夫。あなたとそうた君に手出しはさせないから」
 片山が優しく微笑んだ。自分の頬に触れられている女の手をそっと握った。そしてそのまま女の膝へ戻す。
 その時、轟音と激しい地響きがした。目の前の壁がガラガラと崩れ落ちる。砂埃の中、現れたのは人の形をした化け物だった。
 ごつごつとした皮膚。不自然な程の頑丈な体。異様に伸びた唇。炎のように赤い目。頭からは触覚のような物が何本も突き出ている。
「か、怪人……?」
 衝撃が走った。怪人の姿を見たからだけではない。
 私、怪人を見るのは初めてじゃない。
 忘れかけていた記憶が蘇る。自分は確かに怪人に遭った事がある。仕事帰りの夜の街角で。襲われそうになって、誰かに助けてもらった。それは――
「危ないっ」
 声とともに後ろから抱き締められた。片山の息が耳元に掛かる。足を縛っていた帯を片山が素早く切る。体をひょいと持ち上げられ、ベッドの陰に座らせられた。顔を上げると片山の目が見ている。
「大丈夫。あなたの事は僕が守るから」
 片山はベルトのバックルに手をかざした。目映い光が現れて片山を包み込む。女は眩しさに目を細めた。
 ゆっくり目を開けるとそこにはいつもと違う片山の姿があった。クロムの頑丈なボディスーツ。黒いプロテクター。鋼のような体。俊敏な動き。
 女は消されていた全ての記憶を思い出した。
「あの時、私を助けてくれたのは……」
 変身した片山は怪人を崩れた壁の向こうに追いやった。女の耳に激しい打ち合いの音だけが聞こえて来る。怪人の叫び声と片山の呻き声が交互に聞こえた。女はただ祈る事しか出来なかった。無事で自分の元に再び帰って来てくれる事を。
 長い戦いの末、訪れたのは静寂だった。女は耳を済ませた。小石の転がる音一つしない。不安の霧が女に降って来る。女はゆっくり立ち上がった。そして崩れた壁の向こうへ歩み寄る。
 その時、フラフラと黒い影が現れた。片山だった。
 倒れかけた片山を女が急いで支えた。
「あんなに頑丈に見えたプロテクターだったのに」
女は思わず呟き、疵だらけの片山を抱き締めた。
「僕の疵に触れて。とても癒されるんだ」
女は片山の疵に触れた。太腿、腕、肩、額――――。
 きっとこんな事しても気休めにしかならない。私はあなたの役に立たない。
 涙が流れた。
 片山が女の頬にそっと手を置く。
「大丈夫。君がここにいてくれるだけで俺は安心するんだ」
 女の想いを見通したような言葉だった。女はそのまま頬を片山の手に委ねた。
「温かいよ。すごく温かいよ。……大丈夫、あなたはちゃんとした人間だから。私と一緒」
 女は片山の頬に触れようとした。片山の痛みに。
 安らぎの時をぶち壊す音がした。忘れていた扉が開いた。扉から老人が顔を出す。疑心の深い皺が醜く刻み込まれている。
「何があったんじゃ……」
 片山の顔が変わる。また深く暗示をかけられたような顔になる。女は片山の裾を握り締めた。
「行っちゃ駄目。行っちゃ駄目」
 小声で呟く。しかし片山の目はどんどんぼんやりと濁っていく。まるで催眠術を施されたように。
「あ」
 女は閃いた。片山の顔をしっかりと自分に向ける。片山の目が一瞬正気に戻る。
「記憶を消すのよ。あの人の記憶を。お父さんの記憶を」
 片山の目が虚ろに動く。女は頬を支える手に力を入れた。
「あなたならまだやり直せる」
 片山がハッと我に返った。女の目をしっかりと捉える。そして女にしか分からないように微かに頷いた。
 傷ついた片山がフラフラと立ち上がり、父親の元へ向かう。
「もうこっちは準備万端じゃ。すぐに実験にとりかかれるぞ」
 博士が壊れた壁を見つめて言う。
「あれは……2号がやったのか?」
 片山の足が止まった。
 女は不安になった。思い出しては駄目。片山の優しい心が弟殺しの罪に耐えられるとは思わなかった。
「弟は……俺が殺した」
 虚ろな表情で片山が答えた。博士の顔が曇る。けれどそれはほんの一瞬の事だった。すぐにニヤニヤと薄気味悪い笑顔になった。
「まあいい。これから最高傑作を作れば良いんだからな」
 不気味な笑顔を女に向ける。ゾッとした。
「あなたの息子でしょっ。死んでも哀しくないの?」
 つい声を荒げてしまった。片山の足が固まる。
「生意気な口叩くな」
 博士が女に近付こうとする。女は体を強張らせた。片山が博士の腕を掴んで阻止した。ゆっくりと博士の耳元に口を寄せる。
「な、何を……。よせ。止めるんだ」
 博士の声が小さくなっていく。片山は小声で何かを囁き続けている。博士の力が段々抜けていく。そしてゆっくりと崩れ落ちた。博士の眉間の皺が少しずつ消えていった。安らかな顔になっていく。幸せそうな、子供みたいな顔に。
 片山はそれを見届けると再び床に倒れこんだ。女が急いで駆け寄る。抱き締め、肩で息をしている片山の重みを受け止める。自分の元に戻ってきた実感をゆっくりと噛み締めた。片山は目を閉じている。女はゆっくりと髪を撫でた。
「あ……」
 女が声を上げる。片山がゆっくり目を開けて女を見た。
「疵が……消えてる」
「え?」
 片山が慌てて頬に触れる。
「本当だ」

 街は夕暮れ。見慣れたはずの湾岸道路を走る。
 彼のオートバイの後ろに乗って。
 風はまだ冷たい。
 ちぎれちゃいそな冷たい耳たぶを彼の背中で温めた。
 少しずつ。かわりばんこに。
 ライダージャケットの彼の背中も冷たかったけど、
 なんだかとても温かかったんだ。
 夢と同じだ。夢とおんなじだ。

 最後のシーンも夢と同じだった。女と片山は学校の放送室にいた。
「皆の記憶を消したら、あなたはこれからどうするの」
 片山は首を傾げた。
「私の記憶も消すの?」
 片山はゆっくりと頷く。
「お願い。私の記憶は消さないで。……別れが辛くなってもいい。あなたの事ずっと覚えていたいの」
 見つめ合った。視線だけじゃない、目に見えない何かも繋がってるような気がした。
 片山が女の手を取った。優しく女の耳を塞ぐ。そして後ろ向きに座らせた。女は手に力を入れた。片山の最後の言葉を聞かない為に。
「スクールカウンセラーの片山です。今日は皆さんに大事な話があります。少しだけ静かによーく聞いていてください」
 片山がマイクに向かってゆっくりと低い声で語り出した。
 どの位時間が経っただろう。女は耳を塞いだまま恐る恐る振り返った。片山はもういなかった。
 放送室の扉を開けるとそうたの担任がいた。
「あ、そうた君のお母さん、お迎えに来てくださったんですね。……あれ? 何でお迎えが必要なんでしたっけ?」
 女は微笑みながら通り過ぎた。

「ママー。タンポポがあるよー」
 学校からの帰り道、そうたがタンポポを見つけた。女は少しだけ幸せな気分になった。
 大丈夫。私はタンポポを見れば、いつだってあの人の事を思い出せるから。