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そうマンマに捧ぐ

痛み@

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 蝶…人体模型…ケロイド…試験管…スイッチ…煙…フラスコ…闇…ベッド…ランプ…薬品…コード…ガラスケース…標本……
 寝汗の夜。リアル過ぎる夢。いつもと同じ。でも目覚めると覚えていない。いつもいつも見る夢。まるで自分がもう一つの世界の住人のような。まるで夢の世界の自分の方が真実のような。もしかしてこれは私が過去に見た場面なのだろうか。それとも……。
 女は重苦しく頭を振った。いつまでも夢の世界に囚われていてはいけない。もうすぐ朝が始まる。

「もー、本当にすみませんっ」
 女は頭を深く下げた。
「いいんですよ、お母さん」
「だって、毎度の事で……」
 女は深い溜息を吐いた。そうたが忘れていった体操服袋を担任の教師に渡す。教師は苦笑している。愛想笑いかもしれないが、後ろめたさのせいか女にはそう感じた。
「本当にすみません」
 心苦しくなってもう一度頭を下げた。
「本当に大丈夫ですよ、お母さん」
 顔を上げると笑顔の教師がいた。大学を出たばかりのいかにもお嬢さんという感じの担任は本当の気持ちを伝えているのかもしれなかった。女も釣られて笑顔になった。
「それよりお母さん」
 教師の声が急に小さくなる。昇降口には誰もいないと言うのに。
「今日、お迎えに来て頂きたいんですけどぉ」
「あ……はい。今日の仕事は夕方からだから大丈夫です。……何かあったんですか?」
 小学生になったのにお迎えだなんて。女は担任の言葉に困惑した。
「ええ。実は変な噂があって」
「噂?」
 急に空気が淀む。最近嫌なニュースが多かったが、この街にもとうとう変な輩が現れたのだろうか。
「……実は……怪人が出るって」
 担任の真面目な顔に思わず吹き出す。
「やだぁ、先生ったら。そんな真面目な顔で冗談なんか言ったりして」
「ええ。私も最初は冗談だと思ったんですけど、子供たちがあんまり真剣な顔して言うもんだから」
 担任が心配そうに言った。
 若い先生だからちょっとの事でも不安なのかな。ま、問題が起こってるのに何も対処しない先生よりはマシか。こんな事でも心配してくれる方が。
「先生、うちの子もいっつも言ってますよ。怪獣なんたらかんたらが夢に出ただの、ライダーが助けに来てくれただの」
 女がそう言っても担任の表情は沈んだままだった。
「そうなんですけどぉ。そうた君の家は学校からちょっと離れてるから心配で……」
 女はニコッと笑った。
「心配してくれてありがとうございます。分かりました。これからは出来るだけ迎えに来るようにします」
 担任の顔がぱあっと明るくなる。
「本当ですかぁ。良かった」
 入学したばかりで心配だったけど、この先生なら大丈夫かな。と、女は思った。
 廊下を誰かが通り過ぎる。白衣姿の長身の男。
「あ、片山先生、こんにちは」
 担任が軽く頭を下げる。
「そうた君のお母さん、こちらスクールカウンセラーの片山先生です。怪人騒ぎがあってから来て頂いてるんです」
 スクールカウンセラーまで? そんな有り得ない話、学校単位で信じているの?
 女は呆れたように溜息を吐いた。
「こんにちは」
 立ち止まって挨拶したスクールカウンセラーを見て女はギョッとした。男の顔半分が大きなケロイドで覆われている。何か事故でもしたのだろうか。それとも生まれつきの疵なのだろうか? かなり痛々しい。
「こんにちは」
 挨拶を返す。平気なフリを装ってみたが、内面はかなり動揺していた。
 この人には悪いけど、こんな顔でスクールカウンセラーなんて勤まるのかしら。きっと子供達は怖がるわ。
「ちょっと怖そうな先生ですけど、子供達には人気があるんですよ」
 片山が通り過ぎた後、女の心情を察したかのように担任がそう言った。

「うん、分かった。んじゃウチも迎えに行こうっかな」
 受話器から聞こえてくる智子の声は女の予想と反していた。
「え? 本当に?」
「自分が迎えに行った方が良いって言ったんじゃないのー」
 智子の声が呆れてる。
「そりゃそうなんだけど……」
 智子が迎えに行くなんて絶対に言わないと思ってた。私と一緒に大丈夫よねぇって言ってくれると思ったのに。
「ま、私にとっては好都合だからいいけど。学校に行く口実が見つかったし」
「口実? あ、そっか。愛ちゃんの事が気になるのね」
 智子の子供の愛も小学校に上がったばかりだった。
「愛ぃ〜?! ま、それもあるけど……って言っておくけどぉ。違うわよ、あのスクールカウセラーよ。」
「え? 片山先生?」
「何で名前知ってるのよぉ〜」
「今日挨拶されたから……」
「挨拶ぅ〜?!」
 智子の大きな声が受話器越しに響いた。
「……会釈位よ。そうたの忘れ物持って行ったらね……まあいいや。何で片山先生に会いたいの?」
「だってぇ、かっこ良いじゃない。背も高いし」
 智子があっけらかんと言った。
「え、だって……」
「……もしかしてあの疵の事言ってんの? あの疵が良いんじゃな〜い。物憂げでさぁ。秘密めいたっていうの? 不幸を背負ってる感じぃ? 」
 きっと、うっとりとした表情で智子は語っているのだろう。見なくても声で分かる。
「でもやっぱあの顔だからいいのよねー。ぶさいくな顔に疵があったら、ただの可愛そうな人だもんね。そう思うでしょ?」
「顔なんて見てないから分かんないよ。疵にばっか目が行っちゃって。
……あ、違うな。疵を見ないようにしようと思って、顔もちゃんと見てないんだ」
 女は独り言のように言う。
「あの疵、どうしたんだろう?」
「さあ? 知ぃらない」
 智子にとって疵はどうでも良いらしい。女は溜息を吐いた。

「俺が怖くないのか? この疵が恐ろしくないのか?」
「怖いわ。だけどその疵のせいじゃない。あなたの後ろの……何だろう。何て言ったらいいんだろう。あなたが何かに怯えている、それが何か分からないの。分からないのが怖いの。不安なの」
 頬に手を伸ばす。
「あなたの痛みを私に分けて」
 目を覚ますと昼ドラがやっていた。いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。目覚めても覚えている夢を久々に見た。夢の相手は片山だった。
「変な夢。智子が変な事言うから」
 女は呟いてソファーからゆっくり起き上がった。
「さてと、うちの王子様をお迎えに行きますか」

「あ、タンポポぉー」
 声を弾ませながら、そうたが走り出した。
「本当だ」
 女が小さい王子に歩み寄る。
 怪人騒ぎも悪くなかったかも。こうやって学校からそうたと一緒に寄り道しながら帰るのは楽しい。
「これは……」
  そうたがしゃがみ込んでタンポポの茎を触る。女も隣に座り込む。
「これはね、くきがうえにのびてるから、セイヨウタンポポっていうんだよ。かざぐるまがつくれるんだよ」
「へぇー、凄い。そうた、良く知ってるね。学校で習ったの? 理科?」
「りかってなあに?」
 女に衝撃が走った。
「……そうだよね、今は理科って言わないんだよね。生活って言うんだっけ?」
「せいかつだったらしってるよ」
 ジェネレーションギャップに軽いめまいを覚える。息子だから仕方ない事なのだが。
「このタンポポ、かたやませんせいに、にてるね」
 女は息子が差し出したタンポポを見つめた。
「ほんとだ。先生、背ぇ高いし、こんな髪型してるもんね」
 女の言葉に息子が嬉しそうに微笑む。
 そうたがこんな顔するんだもん。きっと悪い先生じゃないんだわ。つまらない固定観念は捨てた方が良いのかも。女は思った。でも……。

 夜の街は霧で煙っていた。仕事帰りで疲れきった体を引き摺る様に女は歩く。無防備な自分を感じる。
「怪人が出るとしたら、きっとこんな夜ね」
 呟いて苦笑いしてみた。辺りはいつも以上にしんと静まり返っていた。女は少し不安になった。
 遠くで微かに悲鳴のような音が聞こえた。
「まさか、ね」
 女の帰り道の方だ。遠回りをしようと右に曲がる。
「なんてね。まさか、まさか。遠回りする必要なんてないよ」
 女は方向転換をして、いつもの道を通る。霧のせいだろうか。街灯がいつもより暗く感じる。
「痛っ」
 女は何かにつまづく。人が倒れている。
「だ、大丈夫ですか?」
 揺すってみても返事が無い。辺りを見回す。誰もいない。視界がどんどん狭くなっていく気がする。鞄の中のケイタイを取り出す。圏外。
 女は立ち上がり、家々のベルを鳴らす。誰も出ない。
「誰か、誰かいませんか」
 弱々しい自分の声。おぼつかない足元。震える体。
 その時、道の真ん中に何か蠢く影を見つけた。恐る恐る近付く。人がしゃがみこんでいる。肩で息をしている。
「大丈夫ですか?」
 その影は声を掛けるとゆっくりと振り向いた。振り向いた相手は……人じゃなかった。黒いごつごつとした甲羅のようなモノに包まれている顔。女の頭に何故か片山の顔が浮かんだ。意識が遠くなる――。

「皆の記憶を消したら、あなたはこれからどうするの」
 男は首を傾げた。
「私の記憶も消すの?」
 男はゆっくりと頷いた。
「お願い。私の記憶は消さないで。……別れが辛くなってもいい。あなたの事ずっと覚えていたいの」
 また今日も夢を見た。男の正体は誰か分かっていた。でも認めたくなかった。
 別れの場面を先に見てしまった。まだ始まってもいないのに。心の中でぼんやり呟いた。
 始まっていない? 今考えた事を急いで否定する。寝起きだから頭がまだちゃんと動いてないんだ。夢でも現実でも片山と何かが始まるなんて事絶対に無い。
 この前にもう一個違う夢を見ていたような気がするんだけど……思い出せない。最近の夢は全部覚えていたのに。またあのいつもの悪夢に戻ってしまいそうで怖い。
「ママぁ。きのう、いつかえってきたの?」
 パジャマ姿のそうたが女の上に乗っかってきた。
「え?」
「ぼくがねようとしたら、いつのまにかママねてたよ」
「え?」
 そういえば、昨日仕事が終わってからの記憶が無い。電車を降りて、改札を通って……そこから先が思い出せない。どうやって帰って来たんだっけ? なんか、もう少しで思い出せそうなんだけど。
 女は記憶を巡らせた。何かを掴みそうになる度に大きな黒い闇のようなモノに邪魔されてしまう。
「ママー、みて、みてぇ。テントウムシぃ」
 ベランダからそうたの声がする。
「いつの間にあんな所に……そうたぁ、ちゃんと朝ごはん食べなきゃダメよぉ」
 女はベランダを覗き込んだ。そうたがテントウムシを摘んだ指を目の前に差し出す。物凄く嬉しそうな顔で。
 女は怒れなくなって優しく微笑む。テントウムシはそうたの指の中でもがいている。
「可哀想だから逃がしてあげれば?」
「え〜、ぼく、かいたかったのにぃ」
「ムリよ、飼えないわ。テントウムシは自分のお家で暮らすのが一番いいのよ。お家で家族が待ってるかもしれないでしょ」
 そうたは不満そうに指の中のテントウムシを見つめている。
「そうただってお家に帰れなくなったり、ママがいなくなったりしたら悲しいでしょ?」
「うん」
 そうたが急いでテントウムシを葉っぱの上に置いた。テントウムシが小さな翅を出して飛んでいく。
「ママ、ぼく、ちゃんと、にがしてあげたよ」
 見るとそうたの目はウルウルしていた。
 ちょっと例えがリアルすぎたかな。
 女は我が子の頭を優しくポンポンと叩いた。
「偉かったね。ママ嬉しい。ママ、そうたには誰にでも優しく出来る子になって欲しいんだ。皆と仲良しになってもらいたいの」
「うん! わかった」
 そうたの元気な声が朝の町に響いた。素直に育ってくれて良かった。女は安心した。とても幸せだった。

 街は夕暮れ。見慣れたはずの湾岸道路を走る。
 彼のオートバイの後ろに乗って。
 風はまだ冷たい。
 ちぎれちゃいそな冷たい耳たぶを彼の背中で温めた。
 少しずつ。かわりばんこに。
 ライダージャケットの彼の背中も冷たかったけど、
 なんだかとても温かかったんだ。
 それだけを覚えてる。ただそれだけを。
 また夢だ。眠りの世界に一度入るとなかなか抜け出せない。目覚めそうになっても誰かに足を掴まれているようにずぶずぶとまた引っ張られる。楽しい夢を見た時は尚更だ。
 女はハッとした。今見たのは楽しい夢だったって事? ドーンドーンドーンドーン。心臓がどくどく激しく動き出す。銅鑼を打ち鳴らすように。あんまり早く心臓が鳴るから目が回りそう。
 夢に彼が出てくるのが普通になってる。彼とは挨拶を交わしただけのはずなのに、声、癖、仕草、何でも知ってる。現実の彼を嫌悪しながらも、また早く夢の世界に戻りたいと思ってる。現実の世界に満足しているはずなのに、夢の世界に取り込まれる事を願っている自分がいる。
 女はぼんやりと宙を見つめた。
 夢と現実の狭間で暮らしてるみたい。どっちかハッキリして欲しい。
 自分の考えに哀しくなった。
 どっちかハッキリするのが正解じゃない。変な夢を見なくなるのが一番良い事なんだ。

「おはようございまーす」
 実際に事件が起こっている訳ではないのに、怪人騒ぎは益々大きくなっていった。とうとう朝も保護者が生徒を送る事になっていた。
「あ、片山先生よ」
 智子が女の肩を突付く。
「おはようございまーす」
 智子が1オクターブ高い声で片山に挨拶をした。
「おはようございます」
 女も片山に挨拶する。心臓がちくりと痛んだ。
「おはようございます」
 小さな声で言うと、片山は顔を赤らめて足早に去っていった。
「……何かあったの?」
 不服そうに智子が言う。
「え? 何が?」
「片山先生、何かあなた見て、顔赤くしてたわよ」
「え、そんな……気のせいよ」
 心臓がきゅっと締め付けられた。
「本当? 抜け駆けは許さないからね」
「抜け駆け?」
「皆、片山先生の事狙ってるんだから」
「え? だって皆ダンナさんいるじゃない」
「それはそれ。これはこれ」
 それはそれって……。私の顔見て赤くなる訳ないじゃない。そりゃ、やけに不自然に目逸らされたよーな気はしたけど。まさか……まさか私が見た夢を片山先生も見てるとか? ……ま、まさかねぇ。
「どうしたの?」
「何が?」
「顔、赤いけど……」

「そうた君のお母さん」
 校門から出ようとした時、誰かに呼び止められた。振り向くと、そこには片山が立っていた。
「ちょっといいですか?」
 女は素直に頷いた。
 学校の廊下を歩く。白衣の背中を追いながら。リコーダーの笛の音が聞こえる。なんだか凄く緊張する。借り物のスリッパが居心地悪い。
 ガラガラガラと片山が扉を開けた。静かな廊下に響き渡る。何故だか悪い事をしているような気分になった。
 勧められて大人しく座るパイプ椅子。
 とりあえずで作られたような片山の居場所には難しそうな本が沢山並んでいる。机の上には昆虫の標本。何か大事な事を思い出しそうになる。でも思い出せない。
 背中を向けていた片山がゆっくりと振り返る。疵が目に入る。痛々しい疵。だけど何故か今日は異形な感じがしなかった。夢で毎日見ているせいかもしれない。
 あなたは何も知らないだろうけど。心の中でそっと呟いてみた。
「実は……そうた君の事が心配になったものですから」
「そうたが……?」
 呼ばれたのはそうたの事だった。拍子抜けした。片山の余所余所しい冷たい言い方が気になった。夢の中での優しく柔らかい片山の声を想像していた女は顔をしかめた。
「少し不安に思っているようです。ここのところの……」
「怪人騒ぎ?」
「ええ、そうです」
 片山まで怪人を信じているの?
「私には……いつも通りのそうたに見えますけど」
「お母さんにはそう見えますか……」
 片山の何か含んだ言い方が気になった。母親としての自分を否定されたようで悔しい。
 女の中で抑えられていた不信感が露になっていく。自分を恨んだ。夢の中とはいえ片山に心を奪われてしまった自分に腹が立った。
「先生はどうやってそうたの不安を取り除くつもりですか? どうやって子供の傷を癒しているんですか?」
 片山は椅子に深く腰掛けている。膝を組み、その上に手を重ねている。
「それはとても難しい話になりますね」
 女はイライラしていた。予想していた会話と違うからだろうか。それとも夢の中の片山と違うから?
「説明出来ないという事ですか?」
 片山は苦笑いする。
「どうやら僕はあなたに信用されていないらしい。まるであなたは僕が子供達の頭の中に入って操作するとでも言いたいみたいだ」
「そんな事出来るんですか?」
 片山は軽く笑った。
「出来るとすれば、それはあなたの頭の中でです。妄想の世界では何でも出来る」
「何だかはぐらかされてる気がする」
 女は呟いた。急に不安になった。
「もっと建設的な話をしましょう」
「建設的?」
「そうです。例えば……」
 片山が窓の外を見る。
「これからの僕とあなたの未来とか」
 女はうろたえた。
「それはどういう意味ですか」
「せっかくこうしてゆっくり話せるのですから」
 女は眉をひそめた。片山は何を言い出そうとしているのだろう。
「こうして……現実でゆっくり話すのは初めてですね」
「え?!」
 片山の顔がどんどん近付いてくる。瞼が重くなる。狭まりゆく景色の中で、片山の口がゆっくりと開くのを見た。そこからは薄紫色の煙が。
 あ、吸っちゃダメ。
 理性が制止する。それを知りたがり屋の本能が邪魔する。ジンの匂い。女はそのまま気を失った。