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あきあきに捧ぐ

処方箋U

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 3Dの入道雲が作り物みたいに空に浮かんでる。
 夏の工作みたい。
 まるでピアノ線で吊った脱脂綿。
 ほわほふわりんと浮かんでる。
 私はそんな大空見ながら……
 ……うっ。や、やっぱり気持ち悪い。誰? 酔った時には遠くを見ればいいって言ったのは。
 あれ? それは目がよくなる方法だったっけ?
 うー。やっぱり梅干貼ってくれば良かったかも。
 もしくは煎りゴマをおちょこ一杯飲むとか。
 サングラスすると酔わないって言ったっけ?
 それとも奥の手で、手の甲噛んで酔いを紛らわせちゃう?
 うー、私がこんなに苦しんでるって言うのにぃー、何で、皆楽しそうにしてるのー!
 あ。駄目だ。周り見てる余裕も無くなってきちゃった。目が回るぅぅぅ。
「大丈夫、ですか?」
 大丈夫な訳ないでしょー。私が今どんな状況に置かれているか、分かってるのー?! ……って、か、かっこいー。もろタイプーですぅ。
「だ、大丈夫です。……いや、あんまり大丈夫じゃないけど」
「そ、それは大変だ。吐きそうですか? もどしそうですか?」
 い、今の状況でそんな事聞かないで〜、かっこよい人ぉー。
「あ、あ、あ、ごめんなさい。酔ってる人にそんな事聞いちゃ駄目ですよね。この前も先輩に注意されたばかりだったんだ。本当にごめんなさい」
「い、いいんですぅ。気にしないで」
 お願いだから、これ以上、私に喋らせないでぇ。
「ど、ど、どうしよう。こういう時は……えっと、まず落ち着いてっと。そうだ。水飲もう、水」
 アセアセしてるその男の子は、お尻のポケットからペットボトルを取り出し、美味しそうにゴクゴク飲んだ。
 こ、この男の子は一体何者? かっこいいけど。どうして見ず知らずの私に親切にしてくれるの? いや、実際何かしてもらった訳ではないけど。今だって自分だけ水飲んじゃってるし。
「水……そうだっ!」
 耳元で叫ばないで下さい。耳が、痛いです。
「水飲みません?」
 その男の子は私の目の前に、飲みかけのペットボトルを差し出した。
 え? これをですか? あのぉー、私一応人妻なんですが……、娘も隣に座っていますし、はしゃいでいて私に目もくれてませんが……。あのぉー、それでも良ければ遠慮なく飲ませて頂きます。きゃっ。なんちゃって。
「ああっ! すみません! 僕の飲みかけなんて嫌ですよね。すぐ、ちゃんとしたのを持って来ますから!」
 男の子はよろめきながら、バスの先頭に向かって歩いて行った。
「チェッ」
「ままー、なにが『チェッ』なのー?」
 隣に座っていた娘は、こういう時に限って興味を示す。
「な、何でもないよー」
 ううー、気持ち悪〜。何でこの子は私の娘のくせして、乗り物酔いとは無縁なのー?
 その時、バスの振動とはまた別の揺れがドタバタと、前方からやってきた。さっきの男の子だ。あの、出来たら、なるべくゆっくり歩いて下さい。ゆ、揺れが辛いんです。
「あ、あの、ポカリとコーラがあったんです。コーラは……飲めないですよね。やっぱ、ポカリがいいですか? こういう時って、甘い飲み物はどうなんだろう? 僕、酔った事が無いから分かんないんですよねー。お酒飲むとすぐ酔っちゃうんですけど。あはは」
 あははなんて笑ってる場合じゃないと思うんですけどぉ。でも可愛いからゆるしますがぁ。
「どっちがいいですか?」
 そ、そんなに顔を近付けられたら、熱まで上がっちゃいますぅ。
「み、水……さっきの……」
 きゃ、きゃー。私ってば何言っちゃってんのー。
「そうですよね。やっぱり水が良いですよね。僕の飲みかけで良かったら……」
 え? え? え? マジですか? って何期待しちゃってんのよ、私ぃ!
「あ。そうだっ。ちょっと待ってて下さい」
 またどっか行っちゃうしー。あのぉ、本当にお願いですから、もう少しゆっくり歩いて下さい。でないと、私、本当に、危険な、状態にぃぃぃ〜。
「お待たせいたしましたぁっ!」
 耳が痛いですぅー。
「紙コップ持って来ましたっ!こっちの方がいいですよねっ」
 『ねっ』だなんて、笑顔が可愛すぎますぅ。ペットボトルの方が良かった、なんて言ったらヒキますか?
 男の子は私の返事も聞かずに紙コップに水を入れ始めた。なんだか私、ドキドキしてまいりました。間接キッス(きゃ)ではないにしろ、この目の前の男の子がついさっきまで飲んでいたペットボトルから、私が飲むであろう紙コップに水が注がれている訳です。きゃっ。きゃっ。
 真剣な眼差しが素敵です。ちょっぴり大きめのお鼻も私好みです。紙コップを持つ指が白くて細くて素敵です。緊張してるのかな、震えてるけど。……って!!
「ご、ごめんなさいっっ!」
 ……見事にこぼされてしまいました。隣で娘がきゃっきゃっ、きゃっきゃっと楽しそうに笑っています。
「ご、ご、ご、ご、ごめんなさい、ごめんなさい、本当にごめんなさい」
 男の子は壊れたレコード……もとい、DJのスクラッチみたいに謝った。
「い、今、拭きます」
 男の子はポケットを探るが、目当ての物は出て来ない。小銭、ガム、くしゃくしゃになったティッシュ、鍵……。目当てじゃない物は次々と私の膝の上に乗せられていく。
「はい」
 見かねた娘がおしゃれキャットのピンクのハンカチを彼に差し出した。
「あ、ありがとうっ!」
 彼の顔はみるみる明るくなり、そのハンカチでびしょ濡れの私の胸元を……
「わーっ!! ごめんなさーい!!」
 ……触られてしまいました。
 オロオロな彼はピンクのハンカチを握り締め、泣きそうな顔で私を見つめてます。
「ぷっ」
 つい吹き出してしまいました。オドオド君が不思議そうな顔で私を見てます。ああ、駄目だ、我慢出来ない。
「ぷ、ぷふふふ、くくくくく、ぷふふふふ、きゃはははは、はははははは」
 キョドキョド君がぽかーんと私を見てます。
「あははは、あは、おか、おかしい」
 駄目だ。呼吸困難になりそう。
「あ、あは、あは、あは……」
 あ、あれ?
「……な、なんか、笑ったら、大分具合良くなったみたい」
 男の子の顔がぱぁーっと明るくなった。
「それは良かったぁ。僕のドジも役に立つ事があるんですね!」
 屈託の無い笑顔。天使の微笑み。つられちゃう笑顔。癒し系。爽やか。上品。健全な……
 嗚呼、この笑顔を的確に表現出来る言葉が見つからない。誰か私に新明解国語辞典を貸して下さい。誰かこの笑顔を私の物にする方法を伝授して下さい。
「あ、もうそろそろ到着の時間だ」
 男の子はバスの先頭へ跳ねるように去って行った。
「ままー、だいじょうぶぅ?」
 娘が頭を撫ぜてくれる。
 ごめん、君のなでなでより、見ず知らずの男の子の笑顔の方が効いちゃった。でも、一体誰なんだろう、あの男の子……。
「おまちかね! もうすぐ、なかよし牧場に到着しますよ〜」
 ハウリング起こしそうな位の元気な声がマイクから響いてきた。
 耳痛っ。遠足だからって、元気良すぎっ。誰? 人騒がせなのは。
 再び酔ってしまわないように、そーっと顔を通路に出した。
 あ。あの子だ。そか。あの子、添乗員さんだったんだ。そっか、だから優しくしてくれたんだね。謎が解けた。
 ……あ。謎が解けた喜びより、淋しさが勝っちゃった。

 なかよし牧場で、牛の乳搾り、芝のスライダー、ジンギスカン、色々やった気がする。でも何も覚えてない。ずっとあの子の事考えてた。あの笑顔が頭から離れなくって……困った。
 帰りのバスはいつも、楽しい思い出と、疲れた体と、淋しいような名残惜しいような気持ちを乗せて走る。
 今日は何だか淋しい思いがいつもより強いみたい。
 窓の外見た。風景が大分変わってる。
 3Dの雲は引き伸ばされてオーガンジーみたいになってる。オーガンジーは夕暮れのオレンジをまといながら、すっかり冷えてしまった空気にさらされてる。
 嗚呼、なんかちょっぴりおセンチ気分。
 ……ちょっとー、だーれ? せっかく私がおセンチ気分になっているのに背中つつく人はー。私は今、家に着いちゃったら、もうあの子に会えない、っていう想いで心の中でむせび泣いてるんだからねー。……って。
「大丈夫ですか?」
 わ、わー、あの子だー。添乗員さんだー。
「帰りは多めに休憩取るようにしますね」
「は、はい……」
 返事をするのが精一杯だった。添乗員の田中君は、また指定席へと戻って行ってしまった。
「あ」
 行きでの事、お礼言うの忘れた。ま、いっか。帰りは沢山休憩取るって言ってたから、その時にゆっくりお礼を言おう。ちゃんと「ありがとう」って。乗り物酔いが治ったのなんて初めてですよ、って言ったら、あの子、どんな顔するかな。またあの笑顔見せてくれるかな。そんな事言ってくれるの、お客さんが初めてですよ、なんて言うかもしれない。そしたら、お客さんなんて呼び方やめて、名前で呼んで、ちゃんと、あきって呼んで、なーんて言っちゃったりしてー。
「おしっこー」
 そうそう、おしっこって……ちがーう!
 隣を見ると、娘が切実な顔をして私を見てる。もしか、して?
「ままー、おしっこー」
 ええー!
「何でさっき行きたいって言わなかったの? ママ、ちゃんと聞いたよね?」
 ……あ、そうだ。添乗員さんの事で頭が一杯で確認するの忘れてた。
「……ごめんね、ママ、言わなかったね」
 もじもじしている娘を置いて、私は急いでバスの先頭へと進んだ。
「すみません、うちの子がおしっこに行きたくなったって……」
 わー、添乗員さんの前で『おしっこ』何て言っちゃったー。わーん、ばかばかー、私のばかー。
「えええっ!! それは大変だっ!」
 添乗員さんが物凄い勢いで座席から飛び降りると、バスの運転手さんの隣に着地した。
「運転手さん、今すぐバスを止めて下さいっ。一大事なんですっ」
 え、ええ〜? そんな、おしっこごときで大袈裟なぁ〜。
「一大事って、子供がおしっこしたいだけだろ?」
 冷静な運転手さん。そりゃ、ごもっともです。
「あーあ、出発前に行っておいてくれればなー」
 は、はい。おっしゃる通りでございます。私が声掛けなかったのが悪いんです。 謝ろうとしたその瞬間、
「何言ってるんです! 言ったに決まってるじゃないですか! 子供なんですよ? トイレに急に行きたくなる事だってありますよ!」
 あわわわわわ。謝れなくなっちゃった。
「田中くーん、気持ちは分かるけどさー。……あと少しでパーキング着くからさあ。それまで間に合わない? お母さん?」
「え? あ、はい。大丈夫だと……思いますが……聞いてきます」
 私が後ろに向かうよりも早く、添乗員さんが娘の元に駆けつけていた。なんか……凄い……かっこいい……正義のヒーローみたい……。
「だいじょうぶ?」
「だめ……もれちゃ……ううん、だいじょうぶっ! がまんできるっ!」
 ……娘は私と好みが似てるみたい。目がハートになってるぅ。うー、こらー、添乗員さんはママのものだぞ、なんちゃって。
 どうにかこうにか、娘の限界が来る前にバスはパーキングに止まった。もう既に我慢のK点越えてると思うけど。
 バスの扉が開くのと同時に添乗員さんは娘を抱えて飛び出した。
 あ。待ってぇ。っていうか、羨ましい〜。私も抱っこして連れ去ってぇ〜。っていうか、あんなに強く抱えられて、もれちゃわないか心配。代わりに私を小脇に抱えて連れ去ってぇ〜。
 っていうか、っていうか……。
「添乗員さーん、トイレはこっちでーす」
 もう。添乗員さんてば、あわてん坊なんだから。私が面倒見てあげないと駄目ね。きゃっ。なんちゃって。
 わ。そんな事思ってる場合じゃないです。どうしましょう。トイレに着いたのはいいけれど、黒山の人だかりです。
「ままー、ままー」
 娘はとっくに限界越えて、「まま」しか言えない体になってます。
 添乗員さんは娘を抱きかかえたまま、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ……。
 しょうがない、どっか物陰で……。
 私が娘から添乗員さんを取り戻そうと……もとい、私が娘を添乗員さんから引き離そうと……もとい、私が添乗員さんに抱っこされてる娘に手を伸ばすと、添乗員さんがすぅーっと大きく息を吸った。
「すみませーんっ! 先にさせて下さーい! この子、もう我慢の限界なんですーっ!」
 黒山が一斉に振り返る。
 きゃっ。恥ずかしぃ。
「お願いしまっすっ」
 添乗員さんが深々と頭を下げる。慌てて私も頭を下げる。
 端から見たら、なんておバカな家族って思われるかな。家族って事は私と添乗員さんは夫婦? きゃっ。きゃっ。……あーん、娘が一大事って時なのになんて不謹慎なの、私ってば。
 赤らめた顔を上げると、黒山がモーゼの十戒みたいにさーっと分かれた。
「ほれ、早く済ませちゃいな」
 一番前にいたおばあちゃんが手招きをしてくれた。
「あ、ありがとうございます!!」
 添乗員さんの目がウルウルしてる。か、かわいい……。
 添乗員さんは、黒山さん達にお礼を言いながら、進んで行く。
 あ、あのー。
「ありがとうございます。ありがとうございます。この御恩は一生忘れません」
 添乗員さんはスペシャル笑顔を振り撒きながら、進んで行く。
「あ、あのー」
 添乗員さんは、開きそうなドアを目ざとく見つけ、娘を連れて駆け寄る。
「あ、あのー」
 トイレから出てきた女の人の目がまんまるくなってる。わー、見ず知らずの女の人ぉー、驚かせてごめんなさーい。うちの(きゃっ)添乗員さん、きっと女子トイレにいる事に気付いてないんですぅ。
 添乗員さんは娘を連れて個室の中へ……。これにはさすがの娘も体を堅くしてます。
「あ、あの! ありがとうございました。……ここからはもう大丈夫ですから」
 勇気を振り絞って言った。一瞬ぽか〜んとなった添乗員さんの顔がみるみるうちに真っ赤っかになる。
「あ、あ、はい。分かりました。間に合って良かったです。じゃ、僕、先行ってます」
 ペコリ、ペコリといろんな人に頭を下げ、隠し切れない動揺を抱えながら添乗員さんがトイレを後にした。
 くふふふ。おっかしな人。扉を閉めながら思った。あの人と一緒だと、なんだか、温かいような、満タンなような、幸せな気分になるな。
 いけない。ニヤけた顔を娘に見られないよにしなきゃ。
「お客様〜、お客様〜」
 トイレの壁の向こうから、添乗員さんの大きな声が聞こえてきた。
 この『お客様』って、やっぱ、私の事だよね。何か問題発生? いや、もう十分問題発生してるんだろうけど、ど、ど。
「お客様〜、出発は5時20分ですから〜。青地に白いストライプのバスですよ〜。間違えないで下さいねー」
 添乗員さん、わざわざご丁寧にありがとうございました。なんだか泣けてきました。
「お客様〜、お客様〜? 聞こえましたかー。聞こえたら大きな声で返事をして下さーい」
 なんだかもっと泣けてきました。
「ねー、ねー、添乗員さんに返事してあげて」
 娘をせっついてみました。
「やーだー、はずかしいもん。まま、へんじしてあげれば?」
 即答されてしまいました。
「お客様〜?」
 添乗員さんの声がトイレ中に響き渡ってます。も、もう勘弁して下さい……。

 バスがゆっくりと発車する。
 頭の中は添乗員さんで一杯だった。
 あ、あそこでペットボトルを大量に買い込んでる人、添乗員さんに雰囲気似てるな。あ、あそこで楽しそうにニコニコ笑ってる5歳位の男の子も。
 やだ、私ってば、何でも添乗員さんに見えちゃう。あの赤い車の中でおとなしく待ってる子犬でさえも。
 高速道路走る、走る。景色流れる、流れる。溢れ出す私の想い、止まらない、止まらない、止まらない。
 着いたら言おう。
 あなたのおかげで酔わないで済みました、ありがとうって。
 またお願いしたいので、なーんて言って連絡先聞いちゃ駄目かな。
 娘は隣でスヤスヤ眠ってる。
 ごめんね、悪いママで。ママ、いけない事しちゃってもいっかな。
 ドキドキした。知らなかった。ワルイ事ってなんだかちょっと楽しい。
 バスの前の方が何だかざわざわしてる。どうしたんだろう。もしかして、私のあの子がまた何か、しでかしちゃったのかな。
 バスがすーっと路肩に寄った。
 運転手さんが立ち上がり、マイクを持つ。
「え〜、添乗員の田中が乗り遅れました。ま、もう帰りですし、問題はないかと思います。私が添乗員を兼任したいと思います。よろしくお願いします。多分、田中よりは仕事出来ます」
 バスの中がどっと沸いた。
 し、しどい……。皆ウケるなんて、しどい。
 えーん、私の悪い子宣言はどうすればいいのー。
 ……とりあえず、酔わないように寝よ。ふて寝しよ。