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ナチュに捧ぐ

処方箋
 雨が降っていて良かった。傘で顔が隠れるから。ナツミは傘を出来るだけ傾けた。ずぶ濡れの町を待ち合わせ場所の公園へと急ぐ。誰にも悟られてはいけない。禁じられた恋心も、火照った耳たぶも、怒濤のような心音も。
「何で、こんな家の近くなんかで」
 不満がこぼれた。だけど言葉とは裏腹に顔はほころんでいた。
 もしかしたら。もしかしたら自分はこの状況を楽しんでいるのかもしれない。綱渡りのようなハラハラの恋を。
 公園の入り口が見えてきた。ナツミは中を覗き込んだ。
「……何で……何でそんな所に立ってるの」
 Kは公園の真ん中に突っ立っていた。傘も差さず。ずぶ濡れで。
 ナツミは急いでKに近付き傘を差しかけた。
 ナツミはKの言葉を待った。しかしKはずぶ濡れのまま、何も言わない。
 Kの白い息がナツミの鼻先に掛かる。濡れた髪からは雨滴がナツミの前髪に滴り落ちた。
 こんな所……誰かに見られたら……。
 ナツミは何も言わないKを心配しながらも、素早く周りの気配をうかがった。夜の闇と雨のもやが救いだった。二人の姿をゴシップ好きな町からこっそりと隠してくれている。
 でも。
 それでもナツミは不安だった。無言のKが一層ナツミを不安にさせた。ナツミは物言わぬKの袖口を引っ張って、用具倉庫の物陰に連れて行った。
 小さな庇が頼りなくびしょ濡れのKから雨を遮る。ナツミはポケットからハンカチを取り出した。手を伸ばし、濡れたKの肩を拭く。ハンカチ越しのトレーナーにドキドキする。細いのに意外とがっしりしている肩幅。拭く事はほとんど無意味だった。それ程Kの肩は濡れていた。ナツミは分かっていた。こんなのただの口実だ。この子に触れる為の口実。
 肩を撫でるナツミの手に雫がぽたりぽたりと落ちる。Kの髪から次々に水滴が落ちてくる。ナツミは口をギュッと結んだ。ゆっくりと爪先立ち、Kの髪へと手を伸ばす。Kの顔が近付いて、心臓が止まりそうになる。表情はうつむいていて読み取れない。
 ナツミはKの柔らかな髪をハンカチで拭った。ハンカチはもう飽和状態でこれ以上水分を吸収する事が出来ない。ナツミはそれでも髪を拭き続ける。
 Kの髪から雨の雫がナツミの手の甲を辿っていった。ナツミは不自然に肘を持ち上げる。雨粒はナツミの袖口に入っていった。ナツミは悟られないように息を呑み込んだ。服と皮膚の隙間をKの雫が滑っていく。首筋まで熱くなる。
 ナツミはしばらく気付かなかった。自分の遊戯に夢中で。 Kは何故か震えていた。
「寒いの?」
 ナツミは精一杯優しく声を掛けた。Kが首を横に振る。ナツミは意を決してKの肩を掴む。
「どうしたの」
 Kの振るえは止まらない。まるで脱水中の洗濯機を支えているようだ。ナツミは不安に押し潰されそうになった。慌ててKの顔を覗き込む。
「な……何?」
 Kは泣いていた。顔をくしゃくしゃにして。子供が泣くようなやり方でしゃっくり上げている。睫毛に水滴が付いている。頬を伝って、ぼたぼたと地面に落ちる。ナツミは手を差し出してKの水をそっと受け止めた。
 ナツミは手の平をじっと見つめた。この水を保存するには一体どうしたらいいんだろう。不思議と目の前の一大事よりそんな事を考えてしまった。
 きっと二人でいる時より、一人で考え込んでる時間が長いせいだよ。
 ナツミはギュッと手を握り締めた。水は粉々になってナツミに染み込んでいった。
 あーあ。水、壊れちゃった。
 ナツミは新しい水を求めた。貪欲な自分が怖い。
 ナツミは手を伸ばし、Kの頬の水を拭った。Kの頬はひんやりと冷たく柔らかかった。Kの若さを妬ましいと思う。
 自分はきっと堕落してる。ダンナを家に置き去りにして、年下の男の子と、人目を避けて、こんな所で、濡れている。
 目の前にいるこの子の事、愛しいと思っているはずなのに、時々憎らしくなる。いっその事、壊れる位きつく抱き締められたらいいのに。
「何で泣いてるの」
 少しぞんざいな物の言い方をした。でも気持ちは晴れなかった。
 Kの目からはどんどん水が溢れてくる。ナツミは傘を下ろした。
 冷たい雨が心地よい。
 やっぱり私はこの子が好きだ。ナツミの脳裏に初めて会った時の風景が浮かんだ。
 あの日は晴れていた。
 クロッキーブックを持ってた。
 デッサンするって言ってた。
 これから動物園に行くんだって言ってた。
 本当は人間のモデルを探してるって言ってた。
 唇が、可愛いなって思った。
 Kの唇は震えていた。上唇に小さなほくろがある。目が離せない。見過ぎて吸い込まれていきそうだ。
 ほくろが少しずつ大きくなっていく。いや、違う。距離が近付いてきているんだ。
 ナツミは涙を拭うフリをして唇にそっと触れた。
 もういいよね。私、もう。我慢出来ないんだ……。
「ぷっ」
 ぷっ?
「あははははは」
 あははははは?
「本気にした?」
「本気に、した?」
「お芝居だよ。お芝居。演技の練習。僕、上手いでしょ? 画家もいいけど、役者も目指そうかなー、なんて思って」
 ナツミは唖然としたままKの笑顔を見つめた。
「どういう事?」
 目の前のKはニコニコ笑っている。これでもかという位の笑顔。
 ナツミは混乱して視線を下ろした。Kの右脇には見覚えのあるクロッキーブックが抱えられている。
「あ……絵……それ、私の絵?」
 ナツミが雨でぐちゃぐちゃになったクロッキーブックを指差した。
「ああっ! 本当だぁっ!! 大変だぁっ!! 絵が!! 絵が! ぐちゃぐちゃにぃ〜」
 さっきの涙の演技とは対照的なわざとらしい言い方だった。
「……どういう事?」
 低い声で言いながら、ナツミがKに詰め寄る。Kの目が泳ぐ。
「えっと……実は……演技の勉強っていうのも嘘なんだ」
「嘘?」
「絵、失敗しちゃったから、雨で濡らしてぐちゃぐちゃにしちゃえー、みたいな」
「みたいな?」
「てへへへへ」
 てへへへへって……。
 目の前のKは宇宙的に可愛らしい笑顔で微笑んでいる。ナツミは何か言い返そうと口をパクパク動かしたが何も出てこない。文句の泡が次から次へと消えていってしまう。
「そんな顔されたら怒る気にもなれないわよ」
 ナツミは精一杯大人な所を見せた。顔は引き攣っていたかもしれないが。
 まあいいか。嘘の涙でも。この子が本当に悲しんでいる訳じゃなくって。まあいいか。まあいいか。まあいいか。
 心の中で呪文のように何度も何度も唱えた。でも気分は晴れなかった。釈然としない思いを抱えたまま、ナツミは何事も無かったように、落とした傘を拾った。