交換経済
商品経済が未発達の社会では、人々は自給自足の生活を送っていました。しかし、全ての物品が自給自足できたわけではありません。たとえば、塩はどこででも手に入るものではありません。そこで、必要最小限の交易が行われるようになりました。
石器時代、鏃(やじり)は狩猟に不可欠な道具でした。鏃に最も適した素材は黒曜石でした。黒曜石は固いガラスのような性質を持った黒色の石です。この黒曜石の産地は限定されていました。ところが、日本中で黒曜石の石器が発掘されています。交易を通して黒曜石は広範囲に広まったものと考えられます。
この時代、黒曜石商人がいたのでしょうか。いえ、いませんでした。
ある日フー族のぐうたら5人組が猟に出かけました。今日もなかなか獲物が捕れません。5人は「猟は昼寝をしてからにしよう」と。気持ちよく昼寝をしていた5人組は、けたたましいイノシシの鳴き声で目を覚ましました。見ると、ウー族の男3人が2頭のイノシシを見事にしとめたところでした。3人で2頭のイノシシを持ち帰ることはできません。3人はじゃんけんをして1人が応援を呼びにムラに戻ることにしました。その様子を見ていたフー族の男が声をかけました。「自分たちは魔法の鏃を持っている。これとイノシシ1頭を交換しませんか」フー族の男が持っていたのは、黒色に輝く鏃でした。ウー族の3人は相談しました。「魔法の鏃というのはウソ臭いな。でも鋭いいい鏃であることは間違いない。1頭は余分だし、交換に応じることにしようか」と。ここで、交渉成立。このようにして、黒曜石の鏃は長い時間をかけて広まっていきました。
交換経済において、売り手は同時に買い手であり、買い手は同時に売り手です。この点で、フリマとよく似ています。しかし、交換の場(マーケット)といえるものは成立していません。
フリマの誕生
交換経済の中から、マーケットが成立してくることになります。その時期は意外と早かったのではないかと思います。遅くとも7世紀ころまでには市場が成立していました。軽市・餌香(えか)市・海柘榴(へば)市・阿斗桑(あとくわ)市などの市があったことが知られています。
市は大きな木の下で開かれることが多かったようです。大きな木の下に売りたい物を持ち寄り、交換したのです。今のフリマとそっくりですね。大宝令では関市令が定められ、都には常設市も作られます。全国的に見れば定期市の方がずっと盛んだったようです。鎌倉時代には月3度の定期市が全国的に普及し、月6度の定期市も見られるようになります。四日市などの地名は四の日に市が開かれたことに由来しています。
規制経済
市が成立すると専門の商人が現れてきます。方々の市を回る人たちは、高荷とか連雀とか呼ばれました。彼らにとって素人さんが勝手に商売するのは、目障りでした。そこで同業者組合を作って、商売を独占しようと企てます。そのようにしてできてくるのが座です。座は権力や権威の保護を受け独占権を獲得する一方、その見返りを支払いました。
フリーマーケットが自由でなくなるのは、業者と支配者の利害が一致したからです。しかし、他の要因も見落としてはなりません。品質のよくない品物を高く売ったりする人も当然出てきます。フリーマーケットには、よからぬ売り手もいたのです。それを規制していこうとすると、フリーマーケットはフリーでなくなります。現代にも通じる難しい問題です。
楽市楽座
中世の間にフリーマーケットは、すっかり様相を変えて、座が流通を支配するようになりました。座の特権を否定するには、革命が必要でした。織豊政権は、中世的秩序に対する革命政権でした。この政権下で楽市楽座政策が採用されました。楽市楽座政策は、座の特権を否定し、規制緩和を行うことで新規参入を招き、産業の活性化を図るものでした。
しかし、この政策はフリーマーケットの振興を図ったものではありません。企業間競争を導入したのであって、個人的な売買であるフリマとはあまり関係がありません。
マスプロ経済
楽市楽座政策の理念は、荒っぽいいい方をすると近代に継承されていきます。自由競争が経済の基本原理となりました。自由競争の結果、巨大企業が生み出されてきました。品質がよくて価格の安いものがシェアを拡大していくのは、当然のことでした。
交通の発達が、マスプロ経済を加速させました。私の生まれた町には、スヤノ坂というのがあります。これは酢屋の坂ということで、お酢を作って売る店があったからだということです。お友達の家は昔造り酒屋だったとかで、煉瓦造りの煙突が残っていました。町々には町々の需要を賄う商売が成立していたのです。ところが、船、鉄道、そして車と輸送手段が発達するにつれ、町々のお店は消えていきました。
子どもの頃、祖母から「○○(店の名前は忘れてしまった)さんとこのお味噌はおいしかったけどね」という話を聞きました。昭和30年代までは、町にお味噌やさんがあったのです。私にとっての幻のお味噌は、ずっと気になってきました。
多数派マーケット
幻のお味噌が今も作られていたとします。このお味噌はメーカー品と較べて当然高くなります。問題は味です。この味噌を私が食べて、メーカー品よりおいしいと思うでしょうか。低い確率ですが、その可能性もあります。しかし残念ながら、その確率は極めて低いといわねばなりません。
仮に千人の町があったとします。千人の味噌味の好みは同じではありませんから、多数派と少数派に別れます。メーカーは多数派に照準を合わせて製品開発を行います。900人が旨いと感じるものを作れたら、大成功です。900人はこのメーカーの製品を買います。残りの100人も仕方なく、この製品を買います。そのうち、100人もこの製品を旨いと感じるようになります。少なくとも、その子どもの世代にはそうなります。こうしてほとんどの人が旨いと感じ、しかも安い製品がシェアを広げていきます。
多数派の好みが少数派に強制されるといえば言い過ぎかもしれません。しかし、少なくとも多数派と同じ好みが作り出されてきました。私たちが、自分の個性的な好みだと考えているものも、知らず知らず作られた好みかもしれません。
1000人中990人がメーカー品を旨いと感じるようになると、いくら10人が他の製品を旨いといっても商売としては成り立たなくなりました。ところが、1000人に10人の比率で町の味噌やさんの味噌を旨いと感じる人がいるとすれば、日本には120万人そういう人がいるということになります。少数派をターゲットにしたビジネスの可能性はなくはありません。インターネットをはじめとする通信手段の発達は、少数派嗜好の復権につながる可能性を秘めています。
さらに、品質はメーカー品よりも優れていても価格競争で敗れていった商品もあるはずです。このような商品については、敗者復活の可能性はもっと高くなります。
作り手・売り手・買い手の分化
多数派マーケットが形成される中で、作り手・売り手・買い手の分化が進行しました。数十年前まで、町には自分で作ったものを売る味噌屋さんも豆腐屋さんもパン屋さんもありました。海でとった魚や畑で作った野菜を自分で売る人の姿もありました。作り手と売り手は、それほど分化していませんでした。ところが、高度経済成長期には、お土産物など地域ブランドのお店や飲食店などを除き、作り手=売り手の関係はほとんど消滅してしまいました。
この時期に生まれてきたのが、「賢い消費者」です。「賢い消費者」は、品質と価格に敏感でした。その商品に対する態度は合理的ではありましたが、趣味や個性については顧慮しない傾向がありました。「賢い消費者」は多数派マーケットの形成に一役買ったと見ることもできます。
作り手の顔の見えない商品が市場にあふれ、顔のない消費者がそれを買い求めることになりました。
フリマの再生
大衆市場がほぼ飽和状態にさしかかった20年くらい前から、手作り志向の動きが顕著になってきました。ブランド品志向が強まったのもこのころです。服飾品はもちろんのこと、魚のブランド品(関アジ・関鯖など)までが脚光を浴びました。ブランド品は生産者を明示し差別化を図った商品です。手作り志向とブランド品志向に共通するキーワードは、大量生産品とは違い作り手の顔が見えるということです。個性的商品は、商品開発のコンセプトになりました。大手のメーカーも手作り風をうたった商品を売り出しました。「○○さんの作ったリンゴ」なども人気を集めました。お店で焼いたパンを売る店も復活しました。
作り手・売り手・買い手のそれぞれが、それぞれの顔を持つ。そのような流通が見直される中で、フリマが盛んになってきました。
現在、企業の合併が盛んに行われています。厳しい経済状況がこのような動きを促進しているのですが、長いスパンで見れば起きるべき現象が集中的に現れているに過ぎません。寡占化の進行は、多数派嗜好への統合を意味します。寡占化が進めば進ほど、切り捨てられる嗜好が増えていくのです。その隙間を埋めるものとして、フリマ的流通がいよいよ重要になっていきます。
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