満ちゃんはどうせ猫なんて詳しくないんだろ?」
マスターが突然言った。
何を急に言い出すんだ? それに、決め付けるのは止めてよね。あたしの事なんて、なぁんにも知らないくせに。
「うちに猫いますけど。」
「何? 飼ってんの?」
「いや、飼ってるっていうか・・・、ただいるっていうか・・・。」
まひろが拾って来たというか・・・。
「何がいるの?」
「え? 猫ですよ。」
「そうじゃなくって、あるだろ? 三毛とか、シャムとか、アメショーとか。」
「は? ジャム? ショート・・・ケーキ?」
「満ちゃん、それウケ狙い? 種類だよ、猫の種類。シャム猫とか、アメリカンショート何とかっていうのがいるんだろ? ・・・やっぱり詳しくないんじゃないか。」
マスターがため息をついた
むっ、何だその言い方。だから勝手に決め付けるなっつーの。
「うちにいるのは雑種だと思いますけど、多分。・・・どうかしたんですか?」
一応聞いてやろう。あたし優しいから。
「いや、常連の溜池さんいるだろ? 息子さんが猫欲しいって言ってるらしいんだ。それでどんな猫がいいのか聞かれたんだけどさ。」
ふぅ〜ん、あのサッカーおたくの溜池さんか。興味ないや。
「やっぱり真広君に聞いてみるか。猫飼い始めたって言ってたしな。なんてったって、恐竜博物館の学芸員やってる位だから、動物に詳しいかもしれないしな。」
ギクッ。急に出てきたまひろの名前にアセる。
「何だよ、満ちゃん、突然変な顔して・・・。・・・あ、分かったぞ。」
ギクッギクッ。しまった。さっきうちに猫いるって言っちゃったぁ。もしかしてまひろと一緒に住んでるって事バレたぁっ? だってぇ、まひろが猫飼ってるってマスター知らないと思ったんだもーん。ど、どどどど、どうしよーっ。
「満ちゃん、真広君の事好きなんだろ?」
はあ?
「真広君が同じように猫飼ってるって知ってドキドキしてんだろ? 分かりやすいなぁ。」
ああ、何だ、それが分かったって事か。ほっ。・・・いや、ほっじゃないよ。まひろを好きだって事もバレたくないっ。
「そんな事ないですよっ!」
思いっきり否定しちゃった。ごめんね、まひろ、本当は大好きよ。
「いいじゃん、隠さなくっても。」
マスターがニヤつきまくってあたしを見てる。
うー、もうっ嫌っ、誰か助けてぇっ。あたしの事は放っておいてよぉ。あたしが誰を好きになってもいいじゃない。関係ないじゃない。何で知りたがるのよぉ。ヒマだからって他人の心にズカズカ入って来ないでっ。もぉっ。
その電話はいつも突然かかってくる。そう、こんな風に。
「もしもし。」
うっ、この声は・・・・・・。
思わずケイタイを耳から離した。
「たまには連絡しなさいって言ってるのに、全然しないんだから、この子は。」
あーっ、また文句からだよ。
「ちょっと聞いてるの?」
「ん。聞いてる。」
「この間、家の電話に掛けたら『現在使われておりません』になってたけど、どういう事? 」
あ、やばっ。
「・・・んっと、引越したから。」
「引っ越したぁ? 何でそんな大事な事言わないのよっ。」
うわっ、大きい声。耳痛いよ。
「・・・言うの忘れてた。」
「今どこに住んでるの? 新しい住所教えなさい。何で引っ越したのよ。保証人とかどうしたの、必要だったでしょ? 母さん何も聞いてないわよ。」
よくもまあ、次から次へと質問が思いつくもんだ。聞いてない? 言ってないもん。・・・えっとぉ、まず何から答えればいいんだ?
「だってさぁ、あんなボロアパートなのに、家賃5千円も上げるって言うんだよ? この不景気に。他のアパートは値下げしてるとこだって、たくさんあるっていうのにさ。喫茶店のバイト代だけじゃキツイし。」
「だから帰って来なさいって言ってるのよ。」
しまった、そう来たか。
「ええ〜、そういう訳には・・・。だってさ、うちの店、あたしで持ってるようなもんだからさ。いつもマスターから『満ちゃんに辞められると困る』って言われてるんだよ。」
うっそぉ〜ん。
「あんたの代わり位いくらでもいるでしょっ。」
ぐさっ。
「それより今どこにいるのよ。」
「えっ、とぉ。友達んとこ。」
「えっ、友達の家に住んでるのっ?」
だから声が大きいって。
「そ、うだよ。」
「何て友達? 家賃はどうしてるの? 食費は? あんたちゃんと家事手伝ってるんでしょうねぇ。」
また質問だらけ。家事手伝ってるだって。女の子の家って決め付けてる。それって、信用されてるのかなぁ。モテナイと思われてるのかなぁ。
「た、橘さんていう人だよ。家賃はね、賃貸じゃないからいいんだって。お父さんが買ったマンションなんだってぇ。」
嘘はついてない。
「食事は? ちゃんとあんたも作ってるの?」
「ほとんどあたしが作ってるよぉ。」
えっへん。
「嘘ぉーっ!」
「ほ、本当だってば。昨日なんてすごかったんだから。ミネストローネでしょう?(味が薄かったけど)シーザーサラダでしょう?(ってドレッシングに書いてあった)んで、ムニエルよ、ムニエル。舌平目のムニエルよ。(コゲコゲのボロボロだったけど)」
「本当?」
「本当だってば。」
「あら、そう。」
何で「あら、そう」なの? 少しは誉めてよ。
「今、お友達いるの?」
「え? いるけど・・・・・・」
部屋を見渡す。
「・・・お風呂入ってるみたい。」
ほっ。良かったぁ。
「あ、そうなの? よろしく言っておいてね。今度、挨拶に行かなきゃいけないわねぇ、お世話になってるんだったら。どんな子か知りたいし、部屋もみたいし。」
ええっ、それは困るぅっ。
「忙しい子だから無理だと思うよ。じゃあ、またね。」
「ちょ、ちょっと、まだ話が・・・・・・」
プチッ。急いで切った。
だって、まひろがお風呂から出たんだもん。
あたしはケイタイをローテーブルの上に乱暴に置いて、クッションを抱きかかえた。
「もしかしてお母さんからですか。」
まひろがタオルで頭を拭きながらバスルームから出て来た。バスローブ姿で。 恥ずかしくて(本当はまじまじと見たいんだけど)違う方を見ながら「そう。」と答えた。
まひろがあたしの斜め前のソファーに腰掛けて微笑みながら言う。
「また挨拶出来ませんでしたねぇ。」
えっ。
「止めてよ。何て挨拶するつもり?」
あ、ドキドキする。何て答えてくれるの?
「えっと・・・、こんにちは。橘真広と申します。いつもお世話になっております。」
むきぃーっ。そうじゃないでしょ、あたしとの関係をどう説明するのか聞きたいのぉっ。
「・・・男の人が出たら、お母さん腰抜かしちゃうよ。女の子と住んでるって思ってるみたいだったから。」
まひろが真剣な顔になって「そうですか。」と言った。
「・・・私と一緒に暮らしてるって知ったら、お母さん心配なさるでしょうねぇ。こんな、どこの馬の骨かも分からないような男の家にいて・・・。」
馬の骨? そんな、時代劇で使うような言葉・・・。
「まひろはちゃんとしてるよ。ちゃんと働いて、ちゃんとお給料もらって、ちゃんと暮らしてるじゃない。」
あたしみたいなバイトじゃなくって。しかも好きな仕事をやってる。・・・比べると落ち込んじゃう位。
まひろが立ち上がり、あたしの隣に座った。そしてあたしの頭を引き寄せる。あたしの頬がまひろの肩に触れた。
あ、石鹸のいい香り。どきどき。
「でも、いずれきちんと挨拶しないといけないですね。」
「えっ。いいよっ。」
びっくりしてまひろの肩から離れちゃった。しまった。もったいない。
「どうしてですか。」
「どうしてって・・・別に理由は無いけど。ただなんとなく。」
ソファーに寄っかかりながら言った。
だってさ、絶対聞かれるもん。どんな関係? 結婚するの? とかさ。そうなったら・・・まひろは何て答えるつもりなんだろう。
「満のお母さんに会いたいんですけどねぇ。」
まひろが笑顔で言った。あたしの心臓がひゃっくりする。
それってどういう事? あたしにそんな事言ったら・・・勘違いしちゃうよ?
「何で、何でそんな事言うの?」
鼓動がもっと早くなる。顔が、熱い。
「満を産んで育てた人って、どんな方なんだろうと思って。」
嫌な予感。
「それってどういう意味?」
「ん? 満みたいに面白いのかなぁ、と。」
アホらし。ちょっとでも期待したあたしが馬鹿だった。ああ馬鹿だ、馬鹿だ。顔の熱もいっぺんに冷めた。そうだった、まひろってこーゆー奴だったんだ。ああ、ほんと、あたしってまひろにとって一体何なんだろう。なんだか悲しくなるよ。
「どうしました?」
落ち込んでると、まひろが声を掛けてきた。
まひろには、何であたしがブルーになってるかなんて、分からないんだろうな。
「別に。何でもないよ。」
「そうですか。でもなるべく早くお母さんに言った方がいいですよ。」
にっこりと微笑んで、まひろが猫を探しに行った。
「あぁ〜あああ〜。」
今世紀最大のため息。
夜、ベッドに潜って天井を眺めていると、小さい頃を思い出す。それはリビングから漏れてくる明かりのせいかもしれない。
「まひろ、眠れないの。」
寝室の扉を開け、まひろに声を掛けた。読書中のまひろが優しく微笑み、本を手にあたしのところに来てくれる。
「猫はもう寝ましたか?」
「熟睡。こいつ寝るのすっごい早いの。スースーうるさくってさ、気になっちゃって。」
寝られないのを隣りで寝ている猫のせいにした。
「じゃ、今日は何の話をしましょうか。」
まひろがベッドサイドのベンチチェストに腰掛ける。
あたしはよく、眠れないと駄々をこねて、まひろを独り占めする。まひろは優しいから、そんなあたしにいつも付き合ってくれる。あたしはベッドに潜り込んだまま、まひろはこのチェストに腰掛けて、いろんな話をする。まひろの話はいつもどんどん難しくなっていって、付いて行けなくなったあたしは、いつの間にか寝てしまう。それがあたしの幸せな眠りの儀式。
「今日は歌を歌ってよ。」
「歌?」
「そう、子守歌。」
「ええっ。」
まひろが驚いて、少し照れたようにうつむく。
可〜愛いぃっ。
「はい、分かりました。」
まひろが決心したように顔を上げて、大きな深呼吸を一つした。あたしを見て一瞬微笑む。まひろがゆっくりと息を吸い込む。--歌声が、流れ出す。
えっ、何これ。すごい。
低くてよく通る声。部屋中に広がってあたしの元へ降りてくる。まるで天使が舞い降りたみたい。柔らかくて、深くて、軽くて、強くて、届く声。こんな歌声聞いた事無い。本当にまひろが歌ってるの?
まひろを見た。まひろは目を閉じてそっと歌っている。ガウンの胸元が少し開いていて、ちょっと目が行ってしまう。まひろの喉仏が上下に動く。
うわぁ、色っぽい。喉仏がセクシーに見えるなんて、初めて。
舞い降りたまひろの歌声が、あたしの耳から体全体に入り込んでいく。耳たぶがしびれる。鼓膜が震える。あたしの中の何かが揺さぶられる。ああ駄目だ、ドキドキする。涙が出そう。
「ちょっと、たんま、たんま。」
まひろが歌うのを止める。そして、そっと目を開けた。
「駄目だよ、全然眠れないよ。」
まひろが苦笑する。
「酷かったですか。」
あたしは思いっ切り首を横に振った。
「違うよ。なんか夢中で聞いちゃって、全然眠れないよ。すごぉい。ドキドキしちゃった。何、何? 何でそんなに上手いの。」
まひろが静かに笑う。
「そうですか、それは良かった。上手いですか? ・・・・・・小さい頃、教会の聖歌隊に入ってたせい、でしょうか。」
「えぇーっ、そうなの? それでなんだ。本格的なんだね。」
「本格的かどうかは分からないですけど。」
まひろが照れたようにくしゃっと笑う。見とれちゃう。
「じゃ、歌は止めましょうか。」
「うん、また今度、絶対歌って。」
あたしも出来るだけスペシャルな笑顔を作る。まひろにはかなわないけど。
あたしはまひろの前だと素直になれる、子供みたいに。あたしが子供だった頃以上に子供になれる。だからまひろといる時間が好き。大切にしたい。ずっとこのまま時が止まってしまえばいいのに。
「じゃ、何かお喋りしましょうか。」とまひろが静かに言った。
「今日、何か面白い事あった? ・・・あっ、思い出したっ。今日ね、マスターにバレたかと思っちゃった。」
「何がですか?」
まひろがキョトンとした。
「・・・あたしと、まひろが、こうして、・・・一緒に住んでる事。」
「そうか、マスターにはまだ言っていませんでしたね。」
えーっ、まひろは言ってもいいと思ってるのーっ。・・・それって、オープンな付き合いがしたいって事?
「まひろは話した方がいいと思うの?」
まひろが腕組みをする。考え込むまひろもまた素敵。
「どうでしょう? 何も考えていませんでした。」
ぶーっ。これだもんなぁ。まひろったら、恐竜の事ばかりで、他はなぁーんも考えてないんじゃないのぉ?
「あたしはねぇ、秘密がいいと思う。」
秘密--、なんて甘い響きなんでしょう。
「そうですね。じゃ、2人だけの秘密にしておきましょうか。」
きゃーっ、2人だけの秘密だってぇ。何かいいーっ! 凄くいいーっ!
「うん、そうしよう、そうしよう。」
嬉しくてまひろの腕をつかんだ。顔を上げると、まひろの顔がすぐ目の前にあって、息が止まる。慌てて手を離す。
はっ。びっくりした。
キンチョーしない距離でまひろを見る。でも、照れてきちんと見れない。ちょっとうつむく。
あれ?
「何、それ、どうしたの?」
あたしはまひろのひざに乗っかってる本を指差した。革表紙の端がボロボロ。
「ああ、これですか。こいつにやられちゃって。」
まひろが頬杖をつきながら、くーくー寝ている小猫を顎で指した。
「ええっ、こいつ、そんな事したのぉ。それ、大事な本じゃないのぉ?」
あたしは、またまた猫を悪者にするために大袈裟に言った。
「ああ、いいんですよ、自分の物ですし。図書館の本だったら困りますけどね。」
まひろが微笑む。
「何で、何でいいの? 猫だから? まひろはちょっと猫に甘いよ。」
怒ってみる。
「別に猫だからじゃないですよ。誰でも許します。悪気が無ければ特にね。」
まひろが微笑んだまま答える。あたしはますます分からない。
「何で? 大事な本じゃないの?」
まひろがそっと微笑んでから言う。
「あまり物に執着しないようにしてるんです。この世の中の物は全ていつかは消えて無くなってしまいます。無くなった時に悲しむのは辛いですから。それに、誰かに壊されたり無くされたりした時に、執着していると、ついその人の事を悪く思ったり、怒ったりしてしまうかもしれない。・・・あまり怒りって感情が好きじゃないんです。他人が怒ってる姿もそうですけど、自分が怒ってる姿が特にね。」
何故だかまひろが少し悲しげに見えた。
まひろが時計を見る。時計の針は1時。
「もう遅いから、そろそろ寝ましょうか。」
電気が消えた後、あたしは一人で考えていた。
まひろはきっと、あたしが居なくなっても、悲しんでくれないんだろう。だってまひろはきっとあたしにもシュウチャクしてない。あたしに対する態度を見てれば分かる。悲しくなった。あたしの心の中はまひろに対するシュウチャクで一杯なのに。あたしの心、一生空回りなのかなぁ。
何でまひろはシュウチャクしないようにしてるんだろう。昔、何か無くしちゃったのかな。何か、大切な物。もう悲しまなくてもいいようにシュウチャクしないようにしてるのかな。それとも悲しみ過ぎて悲しみのエネルギー使い終わっちゃったのかな。
あたしはいつの間にか眠ってしまった。そして、この時考えていた事をしばらく忘れてしまっていた。