当店お薦めマスターオリジナルブレンドコーヒーA

 あたしの中の海の底。沈んでしまって取れない物がある。それが何だったか、今はもう思い出せない。
 でもそれは、確かに昔あたしの手元にあって、小さいけど光り輝いてた。その時のあたしを元気付けてくれて、やる気にさせてくれて、あたしの生活を生き生きとさせてくれた。
 潜って取りに行こうか。でもあたしの海は、深くて、濁っていて、底が見えない。
 新しい何かを見つけようか。でもどうやって-----。

 日曜日の夕暮れ時、まだ明かりがついてない一人ぼっちの部屋、ケイタイの着メロが響く。
 「はい。・・・あ、どうも、お久し振りです。え? あ、はい、分かりました。いつ行けば・・・・・・あ、じゃ、今から行きます。」
 正直言って気が重かった。顔を合わすのが辛かった。今さら何を話すというのだろう。
 あたしは重い気持ちを引きずって、サンクチュアリに向かった。
 「こんにちは。」
 がらんとした空間にマスターの奥さんは立っていた。ノーメイク、まとめただけの髪が疲れたように見えた。
 奥さんはあたしと目が合うと軽く笑いかけてきた。あたしはちょっと戸惑いながらも笑顔を返した。
 「座ってって言いたいところなんだけど、もう椅子も運び出しちゃってて・・・。ごめんなさいね、立ち話で。」
 奥さんの言葉を聞いて、あたしはゆっくりと首を横に振った。
 「実は渡したい物があって・・・。」
 「渡したい物、ですか。」
 奥さんがバックの中から封筒を取り出した。
 「主人の物を整理してたら出てきたの。」
 あたしは差し出されたその封筒を受け取った。封筒には「満ちゃんへ」と書いてある。すごいクセ字。懐かしい字。マスターの字だ。
 馬鹿マスター。ったく、最後まで馬鹿なんだから。あたしに手紙書くんだったら、その分奥さんや子供達に一杯書いてあげなよ。
 あたしは申し訳ない気持ちでその封筒を開けた。中には便箋が一枚。
 『やりたい事をやるべきだ。答えは自分の中にある。』
 「それとね、これを受け取って欲しいの。」
 奥さんがあたしに額縁と3つの箱を渡してくれた。額縁は店に飾ってあった「ムーラン・ルージュ」が入っていた。箱にはあたしとまひろとオカケンそれぞれの専用カップが入っていた。
 「他の物は全て売ってしまったんだけど、この3つのカップは押し入れの奥の方にしまってあって・・・。そこに私宛ての手紙もあって『渡してくれ』って書いてあったの。奥にあったから、なかなか気付かなくて・・・・・・渡すのが遅くなってごめんなさいね。」
 あたしは下を向いて首をゆっくり横に振った。
 「奥さんの手紙には何て書いてあったんですか。あの・・・マスターは何で・・・・・・。」
 奥さんが静かに首を振った。
 「分からないわ。」
 それから何故か奥さんは軽く笑った。
 「あの人、かっこつけたがりだから・・・・・・。」
 奥さんの目は遠くを見てる。あたしには奥さんが言った言葉の意味が分からない。
 「最後までかっこつけたかったのかもね。」
 奥さんがカウンターを手でなぞりながら言った。マスターの癖だ。マスターもよくカウンターの縁をなぞってた、かっこつけた事を言う時に。奥さん知ってるんだ、そんな小さな癖も。
 マスター馬鹿だな。こんなにマスターの事知っててくれる人置いて逝っちゃうなんて。あたしだってマスターと話す事が楽しくなってきた時なのにさ、いなくなっちゃってさ。
 あたしの考えてる事が分かったのか、奥さんがゆっくりと話し出した。
 「恨んだ方がいいのかなって思った事もあった。嫌な事は全部忘れて、いい思い出だけ抱いて生きていった方がいいのかなって思った事もあった。だけどね、あの人はあの人だから。いいとこも悪いとこも全部ひっくるめてあの人だから。死んじゃっても、あの人はあの人のままなのよね、きっと。だから全部受け止めようと思って。死ぬって、何か特別な事のような気がしてたけど、本当はこうやって息をしたり、ただ立っていたり、髪の毛を直してみたり、・・・そんな事とそんなに変わらないのかな、と思って。だから私は、あの人を時々思い出したり、どっかにいるあの人とおしゃべりしたり、たまにはちょっと恨んでみたり、・・・その時その時の私の感情で自分勝手にあの人と付き合って行こうと思う、これからも。・・・・・・最近なんだけどね、やっとそんな風に思えてきたのは。」
 奥さんはくすっと笑った。
 「満ちゃんの前だといろんな事話しちゃうわね。ふふっ。不思議ね、あんまり会った事もないのにね。」
 ノーメイクの白い肌とまとめ髪の奥さんがすごく強く見えた。奥さんは奥さんのやり方で、マスターの死を自分の物に出来るようになったんだと思う。強く見えたのはそのせいだ。あたしは奥さんに強く見えてるかな。
 奥さんにお礼を言って店を出た。
 外に出ると強い、強い風。しっかりと握り締めていたはずの額縁が手から落ちる。
 「あ。」
 額縁から外れる絵---。
 「ごめん、マスター。」
 つぶやいて急いで元に戻す---。
 「何だろ、これ。」
 額の裏から小さな紙切れが出てきた。
 『豆→ブラジル・グアテマラ・モカマタリ』
 これは・・・当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒーのブレンド方法だ。マスターってば、こんなとこに隠しちゃって・・・。
 ・・・・・・あたしにこの絵をくれたって事は、これもくれるって事なのかな。
 あんなに強く吹いていた風が嘘みたいに消えていた。

 最後の講習の日が来た。京乃さんは明日からはもう来ない。文大に戻って、まひろが発掘した恐竜のDNAを調べるんだ。何故か悲しくはなかった。今度は友達として会えるっていう絶対の自信があったから。だからこのお抹茶も最後じゃない。
 「・・・美味し。」
 「結局最後までお抹茶で通しちゃったわね。本当は紅茶とかも考えてたんだけど・・・。」
 「お抹茶でも・・・」と言いかけて、「お抹茶がいいです。」と言い直した。
 昔のあたしだったら紅茶にケーキの方が良かったけど、今は京乃さんが点ててくれるお抹茶が好き。
 「京乃さんってコーヒーは飲まないんですか。」
 あたしの質問に京乃さんが茶器の縁を指で拭きながら答えてくれた。
 「飲むけど、美味しいコーヒーじゃないと嫌なの。」
 「あたしの煎れるコーヒー、美味しいって評判なんですよ。バイト先の喫茶店・・・・・・もう無くなっちゃったけど、・・・で鍛えてたから。」
 「へぇー、本当。」
 あたしは飲み終えた茶器を正面に戻して机の上に置いた。大分お茶を頂くのも上手になったと思う。・・・ゲノムの方はあんまりだけど。
 「コーヒー、ポットに入れて持ってくれば良かったですね。本当は煎れたてが美味しいんですけど。」
 「自分でブレンドしたりとかするの?」
 「いやぁ、そこまでは。当店自慢のマスターオリジナルブレンドは美味しかったですけどね。さすが当店自慢のっていうだけのことはあって。」
 「へぇー。ブレンド方法とか知らないの?」
 「実はこの前知って、試しに煎れてみたんですけど・・・どうもあの味にならなくって。一応分量も書いてあったんですけどね。もっとちゃんと研究しないと駄目みたいです。」
 京乃さんがほんのり笑う。
 「あーあ、マスターの煎れたコーヒー、京乃さんにも飲ませてあげたかったなぁ。」
 「飲みたかったなー。」
 頭を傾けながら京乃さんがお茶目に言った。
 「マスターも馬鹿ですね。生きてりゃ、こんな綺麗な人がお店に来てたかもしれないのにー。常連になってたかもしれないのにー。」
 「なってた、なってた。」
 「京乃さん見たら、きっと京乃さんのファンになってただろーなー、マスター。」
 「そう?」
 「そうそう。なってた、なってた。」
 京乃さんがお茶の道具を片づけに席を立った後、声に出して言ってみた。
 「マスター馬鹿だなぁ。」
 他人の言葉みたいに部屋に響いた。そんで、煙草の煙みたいに空に消えてった。
 もう、涙は出ない。慣れちゃったみたい。あたしの中で、マスター、思い出になっちゃったのかもしれない。やだ、思い出になんかならないで。
 マスターなんて大嫌い。最初っから嫌いだった。話したくない位嫌いだった。ちょっと好きになりそうだったけど・・・死んじゃったから嫌い。いろんな人の想い持ってっちゃったから嫌い。勝手にあたしの思い出になろうとしてるから嫌い。許さない。ずーっと許さない。ずーっと許さないから、ずーっと忘れない。忘れてあげない。ざまーみろ。


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