雨が降っていた。誰の雨だろう。誰が降らせたんだろう。白いテントの屋根に雨の粒がパシャパシャと弾かれていく
あたしは室内の祭壇をぼんやりと眺めた。泣いている人々、うなだれている奥さん、黒いリボンで飾られた写真をじっと見つめている子供達・・・・・・。
マスターは死んでしまったそうだ。第一発見者は奥さんだったらしい。
みんな泣いている。写真のマスターは笑っている。あたしはまだ起きたての頭のまま。この状況がよく分かってない。
奥さんと子供達があんなに悲しそうな顔をしているのに、何でマスターはここにいないんだろう。慰めてあげないと可哀相だよ。マスター、どこ行っちゃったの。何ふざけてるの。エイプリルフールはとっくに終わっちゃったよ。
「ご愁傷様です。」
みんなあたしにそう声を掛けていく。
あたしに言われてもな。あたし、ただの受付だし。
マスターの悪ふざけに、こんなに沢山の人が集まっちゃった。どうするの? 今更「嘘でしたぁ」なんて出てきてもカッコつかないよ。ねぇ、マスター。
受付の列に知ってる顔が並んだ。その人はすぐにあたしを見つけてくれた。あたしは何故だか安心する。少しだけ頭が目覚めた気がした。
その人の番が来て、芳名帳に名前を書く。達筆。
「まひろ。」
じっとしていられなくなって声を掛けた。まひろは優しい表情をして、あたしの頭をくしゃくしゃっと撫ぜた。
疲れた体を引きずって家に帰ると、オカケンが待っていてくれた。
「ほら、塩かけるんだよ。」
お母さんみたいに足元に塩をかけてくれる。
「ありがと。」
あたしがお礼を言うとゆっくり微笑んで、「疲れたでしょ。お茶煎れるよ。」 と言いながら、リビングへあたしを連れていってくれた。
用意されたのは、あったかい蜂蜜入りのオレンジ・ペコ。ふぅっと息を吹きかけると、白い湯気が揺れながら消えた。
「まひろは?」
「帰ってからずっと書斎に篭ってる。」
書斎の方を見ながらオカケンが言った。
「そう。」
書斎から音楽が聞こえてきた。いつもは音楽なんて聞かないのに・・・。
「あ、この曲・・・。」
オカケンが何か知っているようにつぶやいた。
「何?」と聞くと、何でもないというように小さく首を横に振った。
「あたしね、あたし、何だかまだ夢を見てるみたいなの。」
マグカップを両手で包み込みながら言った。
「お風呂に入って、ベッドへ潜って、明日の朝になったら、元通りになってる気がするの。ああ、何だ、夢だったんだ、変な夢、って笑っちゃえる気がするの。」
オカケンは黙って聞いてくれてる。
「夢じゃないのかな。現実なのかな。明日になっても何も変わらないのかな。」
我慢してた物が出てきそうになる。
「あたしね、奥さんに言われたの。『何で死んだのか知りませんか。何か、心当たりはありませんか。おかしな所はありませんでしたか』って。あたしね、何にも答えられなかったの。」
頬を伝う。
「マスター、昨日も『幸せ者だ』って言ってたばかりだったのに。『願いは全部叶った』って言ってたのに。分かんないよ、何で死んじゃったのか。ううん。マスター、もしかしたらあたしに何かサイン出してたかもしれない。あたし、自分の言いたいことばっか喋ってて全然気付かなかった。あたしが悪いんだ。マスターはあたしに何かして欲しかったのかもしれないのに。あたしが、あたしが一番マスターと長い時間一緒にいたのに。何もしてあげられなかった。何も気付いてあげられなかった。あたしが、あたしが・・・。」
押さえられない。オカケンがあたしの肩を抱く。
「そんなね、残された者の事考えないで自分勝手に死んじゃった奴の為に泣かないのっ。あんたのせいじゃないんだからね。」
あたしの手、びしょ濡れになってる。
「あたしの、あたしのせいかもしれない。」
「あんたのせいな訳無いじゃない。自分を責めないの。何で死んじゃったかなんて死んだ本人にしか分らないんだから。」
オカケンがあたしの事を引き寄せた。
「オカケン、服、濡れちゃうよ。」
「いいんだよ。こーゆーどうしようもない思いは何かにぶつけないと収まらないんだから。」
オカケンが優しすぎて、オカケンに沈んでいっちゃいそうだ。あたしはオカケンに甘えながらも、まひろの事を考えた。まひろはどうやって収めるんだろう。
でも。あたしは弱い人間だ。自分の悲しみや問題を自分で解決出来ない。あたしのイライラはまひろへと向かった。
「何でまひろは悲しくないのっ。ああ、そうなんだ。マスターがいなくなっても平気なんだ。」
月曜日の朝。ダイニングテーブルでパンを食べてるまひろに向かって大声を出した。
「よく食べられるね。悲しくないんだ、まひろは。どうでもいいんだ。昨日だって、大人の顔しちゃって、数珠なんか持っちゃって。もう人が死ぬのなんて慣れっこなんだ。」
まひろが顔を上げる。びっくりする程、青白い。言葉が、詰まる。
「私も満も、もっと早くに覚悟しておかなければいけなかったんです、こういう日が来る事を。」
「覚悟って・・・・・・まひろ、何か知ってたの?」
まひろが首を横に振る。あたしは訳が分からない。
「人はいつか死んでしまうものです。私達は、自分や自分の周りにいる人の生を当たり前に思い過ぎています。突然いなくなった時に平静を保てるよう、前もってシミュレーションしておかなければならなかったんです。」
「そんな事言ったって・・・あたしには出来ないよ、覚悟しておくなんて。そんな、知ってる人が死ぬのなんて想像したくないよ。例え覚悟出来たとしたって、人が死んじゃうのなんて、知ってる人が死んじゃうのなんて、どうしていいのか分かんないよ。あたしは、まひろみたいに大人じゃないんだもん。人が死ぬのなんて、慣れてないんだもん。」
あたしの大声に驚いて、オカケンが慌てて寝室から出てきた。
「ちょ、ちょっと、何言ってんの、ミチル。」
まひろがゆっくりと立ち上がる。
「じゃ、いってきます。」と、あたし達に背中を向け、出かけて行った。
「ミチル。」
玄関の扉が閉まる音を聞いた後、オカケンがあたしの肩に手を置いた。
「ほら、あたしがあんなヒドい事言っても、大人だから何にも感じないんだよ、まひろは。」
「感じてない訳無いでしょ。」
オカケンがあたしの肩をつかんで揺すった。
「悲しくない訳無いでしょ。」
「だって・・・。」
自分が嫌になる。あたしまだ変だ。嫌な子だ。自分を消したい。
オカケンがゆっくりと口を開いた。
「昨日のあの曲ね、マヒロのお母さんがよく歌ってた曲なんだよ。」
「まひろのお母さんが?」
オカケンがあたしをソファーに座らせた。
「マヒロのお母さん、オペラ歌手だったんだよ。それでよくあの曲を歌ってたの。マヒロは子守り歌代わりにいつも聞いていたみたい。」
昨日のあの曲。そう言えば、いつかまひろが歌ってくれた曲は・・・・・・。
「それが・・・何の関係があるの。」
オカケンは少し黙っていたが、話を続けた。
「マヒロのお母さんも自殺したんだよ。マヒロが高校生の時に。」
鼓動が、止まる。
「事故の可能性もあったんだけど、警察は自殺という事で処理したらしいの。お父さんの女性問題とかもあったみたいでね。・・・もちろん、マヒロは事故だと思ってるけど。」
頭の中がぐるぐると回った。そして心臓も。足がガクガクと震えた。
「・・・まひろ、歌が上手いのは、小さい頃、聖歌隊に入ってたからって・・・。」
オカケンが遠くを見つめる。
「その話は多分嘘だね。歌が上手いのはお母さんゆずりだと思うよ。マヒロ、お母さんが死んでからは、あまりお母さんの事話したがらないから・・・嘘を付いたんじゃないかな。」
あたしはいつかまひろが言った言葉を思い出した。
(あまり物に執着しないようにしてるんです。この世の中の物は、全ていつかは消えて無くなってしまいます。無くなった時に悲しむのは辛いですから。)
あたしの中身が座っていられなくなる位ぐらぐら揺れた。
「あたし・・・あたし、まひろを責めるつもりで言ったんじゃ・・・。ただ、何か、意地悪な気持ちになってて。」
オカケンが優しく微笑む。
「大丈夫。マヒロは分かってるよ。」
あたしは大きく首を横に振った。
「分かってても、分かってても謝らなきゃ。」
オカケンがあたしの頭をポンポンと軽く叩く。
「だからって死んで謝る、なぁんて言わないでよ。あんたの死水取るのはまっぴらゴメンだからね。」
オカケンがイタズラっ子みたいに笑った。
「・・・笑えない冗談。」
でも少し救われた気がした。その時は。