優しいオレンジペコ@

 「満ちゃん、コーヒー飲む?」
 「はーい、いただきまーす。」
 マスターが冷蔵庫からネルフィルターを取り出した。
 「あ、あれ? マスターそれもしかして、当店自慢のマスターオリジナルブレンドコーヒー略してO・B・Cじゃないですかー。」
 ネルフィルターを出したって事は、手間のかかるネルドリップ、ブレンド方法は企業秘密、使うカップは高級品--の当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒーでしょっ?
 「そだよ。何だよO・B・Cって。勝手に略さないでくれよぉ。」
 マスターがふくれる。
 「だって当店自慢のマスターオリジナルブレンドコーヒーって、いちいち言うの大変だから・・・。」
 「そこらへんは、こだわりなんだからちゃんと言ってよ。長いっつったってジュゲム程じゃないんだからさー。」
 なんだい? ジュゲムって。ああ、京乃さんが研究してるやつか。マスター、それはジュゲムじゃなくって、ゲノムよ。エッヘン。
 「それにしても、どうしたんですかー。あたし、今日誕生日でも何でもないですよー。あ、それ、この前のセットじゃないですかぁ!」
 マスターは、マスター用のごつごつカップと、この前あたしが飲んだカメオみたいなターコイズブルーのカップを手にしていた。
 「あのねー、僕だってたまには満ちゃんに、当店自慢のマスターオリジナルブレンド略してO・B・C、飲んでもらいたい時だってあるよ。」
 あ、文句言ってたくせに真似してるぅ。しかも余計名前が長くなってるしぃ。
 「コーヒーはねぇ、煎れてあげたい時に作ったのと、飲みたい時に煎れてもらった奴が一番美味いんだよ。何でこの店の名前がサンクチュアリ--聖域って言うか分かるかい。俺の煎れたコーヒーが飲みたいと思ったお客さんが店に来る、俺が心をこめてコーヒーを煎れる、美味いコーヒーが出来る、これぞ喫茶店の醍醐味っ。ここはね、お客さんとコーヒーを煎れる我々の心の社交場、つまりサンクチュアリなんだな。」
 うっ。クサっ。
 「満ちゃん、今、臭いって思っただろ。」
 ギクぅっ!
 「てへへへへ、バレました?」
 マスターがふくれながら、「バレるよ。満ちゃん、すぐに顔に出るんだもん。」と言う。
 えっ、本当?
 顔をペタペタ触って確かめてみる。・・・そんな事しても分かんないんだけど。
 「そう言えば、まひろさんと最初に会った時も、3人で当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒー飲みましたよね。」
 今日は何だか思い出話がしたい気分なんです。現在進行形のまひろとあんまり喋ってないから。
 「そうだっけ?」
 「そうですよ。忘れちゃったんですか。凄い雪の日だったじゃないですかぁ。お客さんがまひろさんしかいなくって。」
 「ああ、そうだった。あの日は凄い雪だったな。もう店じまいしようと思ってたら真広君が来てさ。」
 「まひろさん傘持ってなくて、肩に雪が一杯積もっちゃって、すごいブルブル震えてて・・・。早く暖かい物を出さなきゃって思ってんのに、マスターったら震えてるまひろさんにぜーんぜん気付かないで店閉める準備しちゃってたんですよぉ?」
 「そうだっけ? 違うだろ? 満ちゃんが真広君に見とれてメニュー出すの忘れてたんだろ。」
 えっ、そだっけ?
 「そ、そんな事ないでーす! いい加減な事言わないで下さいっ。」
 危ない危ない、騙されるとこだったよ。
 「それに『コーヒー下さい』って言ってるのに、『うちね、コーヒーつっても色々あるんだ。エスプレッソとか、カプチーノとか、ブレンドも・・・・』とか言っちゃって。」
 「だって一杯あるんだもん。」
 かわいこぶるなっ。
 「一番時間のかかる当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒーを薦めるしぃ」
 「だって、真広君が『何がお薦めですか』って聞くからさぁ。真広君が悪いんだよ、自分でちゃんと決めないから。」
 「まひろさんのせいにしないで下さいっ。」
 なんか、漫才みたいな会話。
 マスターが煎ったばかりのコーヒー豆をミルで挽くと、香ばしい香りが店中に広がる。慣れてるはずなのに、今日はまた違った香りに感じる。あたしのための当店お薦めマスターオリジナルブレンドコーヒーだから、かな?
 「最初、まひろさんとマスター2人で難しそうな話しちゃって、全然ついていけなかったんだよなぁ。」
 「そだっけ?」
 「そうですよ。仕事の話になって、まひろさんが『学芸員してます』って言ったら、マスター、『ああ、学芸員ね』なぁんて、知ったかしちゃって。」
 「知ったかじゃないよ。知ってたんだよ。」
 ぶー、そうなの?
 「・・・あたし一人で、『何、学芸員って? 何ぃ〜っ? 話についていけないよぉ』って、心の中で叫んでましたよ。」
 「あはは、そうだったんだ。気が付かなかった。俺はてっきり真広君があまりにもかっこいいから、満ちゃん、話せないんだと思ってた。」
 んぐっ。確かにそのせいもあるけどぉ。
 「それから真広君よく来るようになったんだっけ?」
 「そうですよ。その時にタオルを貸して・・・。『商店街の酒屋さんでもらった奴だから返さなくってもいいですよ』って言ったら、マスターが『いや、返してくれ』って言ったんですよぉ。覚えてないんですかぁ〜。」
 「へ? 俺そんな事言ったっけ? 言ってないよぉ。そんなにケチじゃないぞぉ。」
 「ははは。違いますよ。『返しに来てくれるって事は、また店に来るって事だろ』って言ったんですよ。」
 「俺そんな事言ったぁ? かっこいいじゃん〜。」
 いや、かっこいいかどうかは分からないけど。ま、そのセリフのおかげでまひろが常連になったんだから、今日は特別に勘違いさせておいてやるか。
 「ほい。どうぞ。」
 あたしの目の前に、夜みたいな深い色が入ったカップが置かれた。
 「いっただきまーす。」
 ・・・ん? あ、あれ? 当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒー略してO・B・Cってこんなに美味しかったっけ?
 「何か今日は特に、当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒー略してO・B・C・・・はぁ、はぁ、はぁ・・・が美味しく感じますよ。」
 名前長すぎて息切れしちゃった。
 「え〜? いつもと同じだよ。」
 マスターも飲んでみる。
 「・・・一緒だよ。満ちゃんのコーヒーを飲む心構えが変わったからじゃない? あと、俺達の関係が良くなったきたから。だからそう感じるんだよ。」
 まぁたぁー、かっこいい事言っちゃってぇ。関係が良くなったってどういう事? 店長と店員の関係は変わりませんよっ。
 あたしはあたしの手に包まれてるカップを見た。
 このターコイズとうす桃色のカップを見てると、水色の空を夕日に照らされたサンゴ色の雲がゆっくり流れる--そんないつか見た景色を思い出す。
 「このカップ、すごい可愛いですよねぇ。」
 「満ちゃん専用にしていいよ。」
 ほえ? 本当?
 「ええっ? いいんですかぁっ?」
 「満ちゃん専用のカップなかっただろ?」
 マスターはサラっと言うけど、いいのかなぁ。2年近くバイトしてて初めてだ、自分専用カップ。
 「専用カップはお客さんだけだと思ってました。」
 「心が通じた人だけね。」
 マスターがカウンターの縁を手でさすりながら言った。
 「俺のコーヒーを美味しいって思ってくれる人にはね、俺の選んだカップで飲んで欲しいんだ。」
 そっか、今日初めてマスターの煎れたコーヒーが美味しく感じたから、あたしにも専用のカップが出来たんだ。
 マスターが遠くを見ながら言う。
 「満ちゃんといると飽きないよ。」
 あたしはマスターを軽く睨んだ。
 「どーゆー意味です? それ。」
 マスターが静かに微笑みながら答える。
 「実は欲しかったんだ、個性的なウェイトレス。仕事急に休んだり、上の空だったりするけど、満ちゃんで良かったと思ってるよ。飽きないもん、全然。」
 なんだ、そりゃ。
 「満ちゃんといろんな話が出来るようになって良かったな。満ちゃん最初心開いてなかったもんね、全然。真広君のお陰だな。あとオカケン君の。」
 何でオカケンの名前が出てくるぅ。
 「これで必要な物は全て揃ったな。テーブルも椅子も、絵も額縁も、コーヒーミルも食器も焙煎機も、大きな窓も、ウェイトレスに負けないくらい個性的な常連のお客さんも、みんな揃った。」
 満足そうなマスター。
 「何言ってるんですか、急に。」
 マスターが顎鬚をさする。
 「俺も幸せ者だと思ってね。」
 何言ってんだか。
 「マスターは大幸せモンですよ。こーんな可愛いウェイトレスと毎日一緒に仕事してるんですからね。」
 なんてな、ははは。
 「満ちゃん、それは言い過ぎでしょう。」
 あたしはてへっと笑ってみせた。
 「今日は久しぶりに酒でも飲むかなぁ。」
 「いつもは飲まないんですか。」
 あたしが尋ねるとマスターは嬉しそうに答える。
 「酒断ちして願懸けしてたんだ。でももう願いが全部叶っちゃったから今日は飲もうかなぁ。とことんっ。」
 あたしは肩をすくめた。
 「はいはい、浴びる程飲んじゃって下さい。明日はどーせ、日曜日ですからね。」

 その連絡を受けた時、あたしには何が何だかよく分からなかった。日曜日の朝早くだったせいかもしれないし、電話の内容がとても突然だったせいかもしれない。
 何故この電話の声はとても弱く、暗く、沈んでいるんだろう。最初は誰の声か分からなかった。それ程、その声は悲しんでいた。あたしは寝ボケて働かない頭のままその声を聞いていた。
 電話を切った後、あたしはなかなか動いてくれない頭を一生懸命整理しようとした。
 何を着て行こう。最初に考えたのはその事だった。あたしはそれ用のきちんとした服を持っていない。クローゼットを見回し、半袖の黒のワンピースを出した。まず一つ目の問題はクリア出来た。
 次は二つ目の問題。これから支度をして、どの位でその場所に着けるか。顔を洗って、髪の毛を梳かし、着替えて・・・。何かお腹に入れて行った方がいいのかな。パンをつまんで・・・30分弱。少しは化粧もした方がいいか。口紅は赤じゃない方がいいのかな・・・5分。家を出て、駅まで15分。電車に乗って・・・乗り換えを入れて30分位で着くかな。それから徒歩で10分。・・・1時間半位あれば着くかな。
 日曜日の朝にドタバタと走り回るあたしを、ティーレが片目だけを開けてメーワクそうに見た。
 「ごめんね。」
 小声で言ったのに、静かな部屋にやけに響いて、ちょっとドキリとした。
 予定より少し早い時間に家を出る事が出来た。エレベーターホールまで行って気が付く。そか、知らせないと。急いで部屋へ戻り、書き置きをする。朝早く散歩に出かけたまひろに。


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