硝子のコップに太陽の光が当たって、飲み残しのアイスコーヒーに浮かぶ氷の影がテーブルに映る。梅雨はいつのまにかどこかに行っちゃった。もうすっかり夏。
「満ちゃん、どうした? 最近、落ち着いてるぞ。」
そのマスターの声にテーブルを拭く手を休め振り向く。
「何ですか、それ。」
マスターが読んでいたスポーツ新聞を折り畳む。
「だってまだ真広君帰って来てないのにぃ。」
「え? な、何っ、何でまひろ・・・さんが出てくるんですか。」
突然出てきたまひろの名前に焦る。
「だってさ、真広君が行っちゃってすぐは、すんごい暗い顔してたじゃん。店までどんよりして売り上げ落ちちゃったんだぞ。」
マスターの冗談、いつも以上に笑えない。落ちる程売り上げ無い。
「最近は落ち着いてるなと思ってさ。ふさぎ込んでないし、不機嫌でもないし、お客さんへの応対もちゃんとしてるし。」
「・・・それは、いつもはちゃんとしてないって言いたいんですか。」
マスターをちょっと睨む。うんうんうなずくマスター。
「ヒドイ・・・。・・・別にまひろさんは関係ないですよ。」
マスターが髭をさする。
「じゃ、他に何か理由があるの?」
「ないですぅ。何もなぁいですぅ。・・・マスターが勝手にそう思ってるだけですよ。」
お盆に空いたコップと布巾を乗せてカウンターへ戻る。マスターはまたスポーツ新聞を広げた。
落ち着いてる、か。
マスターが勝手に思ってるだけって言ったけど、本当はマスターの言うとおり。最近落ち着いてきてる。何でだろ。前のあたしは、もっとあたふたしてた。まひろのちょっとした態度や表情に、笑ったり怒ったりして。浮いたり沈んだり、まるで地上のクラゲ。今は・・・・・・まひろがいないから。だから、落ち着いてるのかな。・・・嫌いになった訳じゃないよね。ただ、側にいないから、だよね。・・・ふう。そんな事も分かんなくなっちゃった。まひろの事、好きなのか、嫌いなのか、も。気持ちが離れちゃった訳じゃないよね。忘れちゃった訳でもないよね。やだ、 逢えない空間を埋めるために、余計な事ばかり考えちゃうよ。
気分を変えるために、有線のボリュームを上げた。爽やかな夏らしい歌が聞こえて来る。男の子二人のかけっこみたいな歌があたしを元気付けてくれる。
この歌、最近よく掛かるな。なんて曲だろ。あ〜あ、あたしもまひろと自転車二人乗りしたいな。
もう夏だっていうのに梅雨が遅れてきたようなどしゃ降りの雨。なんだかつられて、あたしまで泣きたくなる。弱ってんなー。
あたし、ジャージャー垂れ流し。スポンジ人生続行中。あなぼこだらけ。また、カラカラに、なる。
このままずうっとまひろが帰って来なかったら、あたしはどうなっちゃうんだろう。ひからびて死んじゃうのかな。それとも他の誰か探すのかな。他の誰か・・・見つけられるんだ、あたし、きっと、その時が来たら。
ねぇ、あたし、本当にまひろの事好きなのかな。どこが好きなの? ちゃんとまひろの事知ってて好きなの? ・・・・・・あたしって、どれ位まひろの事を知ってるの?
年はあたしより六つ上の二十八歳。誕生日は12月25日、キリストと同じ。O型。生まれた場所・・・・・・分かんない。家族構成、お父さんと・・・よく分からない。仕事は恐竜博物館の学芸員。和食が好き。読書も好き。恐竜も好き・・・あ、大好きの間違い。好きな人はいるのか。・・・・・・よく・・・分からない。パソコンが出来る。すぐに動物を拾って来る(人間も)。シュウチャクしないように生きてる。ワレ物が苦手。日曜日の朝にはお弁当を持って公園に行く。都心のお父さん名義のマンションに、同居人二人と猫一匹と暮らしてる。今は、福井県に恐竜の化石を堀りに行ってる。あたしを残して。
あたしはまひろのどこを好きになったんだろ。・・・・・・分からない。あたしはまひろの事が本当に好きなの? ・・・・・・分からない。
明日は日曜日。何もする事が無い日曜日。サンクチュアリの定休日が日曜日なのを恨む。土曜日の夜は長い。ツライ。だから、今日もまた出掛ける----。
「誰かを好きになると、あたしはあなたの事がこれだけ知りたい。いっぱい知りたいと思うでしょ。」
オカケンの目の前に両手を広げて見せた。
「あたしの中の空間がぐーんと増えるの。これだけ好きな人の事を考えられますよぉって。で、その人の情報とか、その人との思い出なんかを入れていくんだけど、その空間が大き過ぎてすきまが空いちゃうの。そうすっと、すごく淋しい気持ちになるの、すきま風が吹いちゃって。空間が広がる時は凄く楽しかったのに、段々淋しくなったり、辛くなったりするの。そうすっと、恋=ツライっていうふうになってきちゃって、んで、あたしは本当にその人の事が好きなのかなって思っちゃうの。すきま風が吹くんだったら空間減らしちゃおうかなぁ、好きじゃないって思うようにしようかなぁ、とか、どんどん変な事考え始めて、訳分かんなくなるの。」
オカケンが呆れた顔してあたしの事を見てる。
だってそうなんだもん。仕方ないじゃん。正直に言ったのに、そんな顔しないでよ。
あたしはグラスの縁を指でなぞった。まだ注文してないのにアキラ君が出してくれたあたしのカシスソーダ。
「飲んじゃおっかな〜。」
上目遣いでオカケンを見た。
「自分から話がしたいって言ったんだから、話終わってからにしな。」
ごもっともなオカケンのご意見。あたしは決心のため息を一つ吐いた。
「あたし、まひろに好かれてないんじゃないか、なぁ、と思って・・・。」
あーあ、言っちゃった。知らないぞぉ、何言われても。
オカケンが煙を吐く。あたしは天井にゆっくりと昇るその白い煙を見つめた。
「・・・そう。」
あ、あれ? 怒らないの?
「何で、ミチルが・・・そう思ったのかは知らないけど、好かれてない事はない、と思うよ。」
オカケンが言葉を選びながら言った。
「ええ〜、だってぇ・・・。」
キョヒされちゃったしぃ。
「ああ、この前拒否されたって言ってた事?」
えっ。
「何で知ってるのっ。」
もしかして・・・まひろが言ったの?
「忘れちゃったの? あんたがこの前酔っ払った時に自分で言ってたんじゃない。」
「え・・・本当・・・?」
やーっ! あたし、そんな事言ってたのぉっ! どうしよ。恥ずかしいよぉっ。もうオカケンと顔合わせられないよ。
顔を両手で隠してうつむく。
「マヒロもさ、変わってるからね。」
おいおい、変わってるで済ませるなよ。
「でも、嫌いな奴とは一緒に暮らさないでしょ?」
それはオカケンなりのフォロー?
あたしはうつむいたままで答えた。
「嫌われてはないかもしれないけど・・・まひろにとってあたしって何なんだろうって。オカケンがいつも言ってるように・・・」
「ペット?」
「うん。とか、妹みたいにしか思ってないんじゃないかって。前まひろが、あたし達は家族だって言ってたし。」
「家族?」
「うん、まひろとあたしとオカケンとティーレと。」
オカケン呆れる。
「何、僕も家族の一員なの。ティーレも?」
「うん。そう言ってた。」
オカケン、一つ息を吐く。
「ま、マヒロが言いそうな事だけどね。」
顔を隠してる指の間からアキラ君を見た。あたし達の話を聞いているのか、いないのか、黙ってグラスを拭いている。マスターだったら絶対に聞き耳立ててるな。
いつまでも顔を隠してる訳にはいかないので、まだ少し熱いほっぺだけを両手で押さえながら言った。
「あたしがしてほしい事は言えばきっとしてくれる。話もしてくれるし、見つめてもくれる。甘えさせてもくれるし、あたしの作った御飯を食べてもくれる。受け入れてはくれてる。けど、必要としてはないと思う。」
ちくしょー。辛ぇな。
「恋愛なんてそんなものだよ。どっちかの想いの方が重いの。同じだったらつまんないじゃない。」
頬杖をついたオカケンが言った。
「分かってるよ。まひろにあたしと同じ位好きでいてほしいなんて思ってない。ただ、あたしがいなくなっても、まひろは悲しくないんだろうなと思うと、ちと淋し。」
オカケンが軽く微笑みながら言う。
「そう? あんたが突然いなくなったらマヒロは悲しむと思うけどね、マヒロなりに。」
「そーかなー。」
そう言われると悪い気がしない。でも、まひろなりにっていうのが引っ掛かる。
「まひろはさぁ、人を好きになった事があるのかなぁ。何がなんでもその人を奪いたいとかさ、寝てても起きててもその人の事を考えるとかさ、考え過ぎて御飯が食べられなくなるとかさ、その位好きになった事があるのかなぁ。」
あたしがそう言うと、オカケンが肩をすくめる。
「どーかねー。そんなふうに弱っちゃってるマヒロを見た事がないけど。」
あ、やっぱし、ないんだ。
ほっぺをおさえていた手は、いつの間にか頬杖に変わっていた。
オカケンの事、やな奴っていっつも思ってたけど、こうやってちゃんと話を聞いてくれるのは嬉しいな。何だか女同士の友情って感じ。・・・オカケン女じゃないけど。
「あーあ、面倒な人を好きになっちったなぁ。・・・オカケンはまひろのどこが好きなの?」
伸びをしながらオカケンを見る。
「僕? そーねー、カラダかな。」
・・・・・・。
聞いたあたしが馬鹿だった。