ホットミルクがうらやましい時@

 つまんない。何であたしはここにいるんだろ。早く帰りたい。
 「満ちゃん、ネルは乱暴に扱わないでくれよ。洗う時はこうやって、お湯で丁寧に、優しく・・・・ね、そんなに難しくないだろ。」
 「はあ。」
 うるさい。マスターのくせに、ちゃん付けで呼ぶな。馴れ馴れしい。
 あ〜あ、こんな小言オヤジじゃなくて、まひろを見てたいよお。あの深い黒い瞳、あの薄い頬の皮膚、あの桜色の唇・・・ああっ、そうだ、昨日チューしちゃったんだった。うっく。思い出しただけで、ぶっ倒れそう。
 「何? 具合悪いの?」
 ふらふらっとしたあたしの顔をマスターが覗き込む。
 違うっ! 顔近づけるなっ。・・・そうだ、ネルを雑に洗ったの、具合悪いからって事にしちゃおっ。
 「ちょっと貧血気味で・・・。ネル、ちゃんと洗えなくてすいません。」
 「大丈夫? 今日忙しくないから、帰ってもいいよ。」
 それは困るっ。少ないバイト代がもっと減るじゃないかぁ。
 「だ、大丈夫です。」
 「そう? じゃあ、ちょっと奥で休んでくれば? 今、お客さんいないし。」
 ラッキーっ。
 「そ、そうですか? すいません。すぐ良くなると思うんで。・・・お客さんが来るまで休ませてください。」
 あたしってエライなぁ、お客さん来たら、ちゃんと仕事する気でいるじゃん。  ふわぁあああぁ。大アクビ。昨日コーフンしてあんまり眠れなかったから、ちょーどいいや。
 奥のパイプ椅子に腰掛け、机にドダっと倒れ込む。ねずみ色の鉄の机が冷たくて気持ちいい。
では、おやすみなさ〜い。
 「いらっしゃい。」と、すぐにマスターの声。
 げっ、客かよ。せっかく寝られると思ってたのにぃ。気付かないフリして、マスターに接客させよっと。
 「あ、まひろ君、久しぶり。」
 えっ、ま、まひろ?
 あたしは慌てて飛び起きた。
 「い、いらっしゃい。」
 急いで出て行き、まひろに声を掛ける。
 は、目が合っちゃった。固まっちゃう。まひろが来ると思ってなかったから心の準備が出来てなかった〜。どんな顔すればいいんだろ。恥ずかしいよぉ。顔が赤くなるのが自分でも分かるよぉ。普通にしなくちゃ、普通に。頑張れ、満っ。
 「こんにちはぁぁ。」
 あ、やば、声が震えた。
 「こんにちは。」
 笑顔のまひろが答えた。
 ステキ、やっぱりステキ。ふふふふ。あたしの物なのよ、この笑顔も。いつも通りのステキな笑顔。・・・ん? いつも通り? あたしはこんなにドギマギしてるのにぃ? な、何でよ、何で普通に出来るのぉ? 大人だから? 経験豊富だから? キスなんて慣れっこだからぁ?
 「博物館の方はどう? 最近。」
 マスターがあたしのまひろに話し掛ける。
 こらっ。あたしのモンだぞっ。
 「お客さんは入ってませんねぇ、あんまり。」
 まひろが苦笑いしながら答える。
 「あはは、うちと同じだ。」
 マスターがまひろの前に水の入ったコップを置いた。
 あ、ずるいっ。あたしが置きたかったのにぃっ。
 「苦労して作った恐竜の模型や資料なので、本当は出来るだけ多くの人に見てもらいたいんですけど・・・。」
 「そう? 俺は本当にこの味を気に入ってくれる人だけに、ここに来てもらいたいね。毎日じゃなくてもいいんだ。ハレの気分で来て欲しいんだよ。よそ行きの気分でさ。うちのコーヒー飲めば何かが変わるよーな・・・、元気になったり、癒されたり、さ。・・・ま、夢だけど。」
マスターがカウンターをさすりながら言った。
 「そうですね、それでやっていければ・・・・・・。」
 「まひろくーんっ、案外キツイ事言うねーっ。」
 「あ、いえいえ、ここ--サンクチュアリの事を言ったんじゃないですよ。ほら、私の場合、入場者数が減少すると、研究費もあまり出なくなってしまうので・・・・・・。」
 ちぇっ、なにさっ、2人だけで楽しそうに話しちゃってさ。あたしだってまひろと話したいのにぃ。よしっ、こうなったら、あれを聞こう、あれを。
 「いつものでいい?」
 のわぁっ! あたしが言おうとしてた事、マスターが先に言っちゃったぁっ。馬鹿マスターっ。
 「はい、お願いします。」
 まひろが笑顔でマスターに言った。本当はあたしが見るはずだった笑顔--。
 ちっくしょーっ。こうなったら、あたしがコーヒー煎れてやるっ・・・と言いたいけど、まひろの注文の品の「当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒー(ネルドリップ)」は、マスターじゃないと煎れられないのよねぇ。ついさっき、ネルの洗い方を注意されたばっかりだしなぁ。仕方ない、まひろ専用カップでも出すか。
 「あ、満っ!」
 きゃっ、まひろに名前呼ばれたぁっ。
 「はい?」
 振り向いて、笑顔で答える。
 「出来ればそのカップじゃない方が・・・・・・。」
 ん? どして? これ、まひろ専用のカップなのに。
 「えっ、真広君、このカップ気に入らない? 真広君に似合うと思っていつも出してるんだけど。」
 マスターが慌てて言った。
 マスターに賛成。マットな黒に金色の縁取り、シンプルだけどモダンで貴族っぽいカップ。まひろが昔話に出てくるような騎士(と書いてナイトと読む)になっちゃったら、こーんな感じ、っていつも思ってるのにぃ。嫌なのかな。
 「いや、そうではなくて・・・。・・・高価な物なんでしょう? そのカップ。」
 マスターの顔が緩む。
 「何だ、そんな事? とっておきの当店自慢マスターオリジナルブレンドコーヒーだよ? カップだって、良いものをお出ししなきゃぁ。コーヒーの味も変わるんだよ。・・・こう、何ていうのかねぇ、コーヒーの良い面がカップに引き出されるっていうのかねぇ。」
 「・・・何だか割れてしまいそうで怖くて。」
 マスターがガハハハと笑った。
 「割れたっていいんだよ。その時はその時。このカップは真広君に使ってもらいたいんだ。カップが言うんだよ、真広君に使ってもらってぇって。」
 げっ、さぶっ。
 でも確かにうちのお客さんで、このカップが似合うのはまひろだけだな。だってぇ、まひろって渋くってぇ、スマートでぇ、かっこいいんだもんっ。
 「はぁ。それでは遠慮なく・・・。」
 あ、まひろ元気ない。声が小さい。まだ何か言いたそう。どうしたのかな。
 当店お薦めマスターオリジナルブレンドコーヒーが出されると、まひろは両手に力を入れて、慎重にカップを持ち上げた。力入れ過ぎて、余計割れちゃうんじゃない? って心配になる位。
 さっき何が言いたかったのかなぁ、スゴク気になる。聞いてみようかなぁ。でも、キンチョーしてるような横顔もめっちゃイイ。・・・何も聞かないで見てよっと。
 「満ちゃん、真広君と何かあったの?」
 「えっ。な、何言ってるんですか。」
 まひろが帰った後、マスターが急にこんな事を言い出して、あたしパニック状態。まるで脱水途中の洗濯機。あたしの中身がガタガタと動き出して、心臓とか肺とかがバクバクウグウグ、今にも飛び出しそう。
 「だって、満ちゃん、真広君来るといつもベッタリで、ずっと話ばっかりしてるのに、今日あんまり話してなかったからさ。」
 マスターにバレないように口を開けないで深呼吸。落ち着け、落ち着け。普段使わない脳みそフル回転。話を違う方に持っていくんだ。
 「気のせいですよ、気のせい。・・・それより、昨日の新聞読まないでいいんですか。片しますよっ。」
 「あ、いけね。読む読む。」と言いながらマスターが奥に行った。
 しゅるるるるるーぅ。脱水終了。はあーっ、死ぬかと思った。まだちょっと心臓おかしい。でも、まひろがいる時に言われなくって良かったぁ。まひろの目の前で言われたら、ごまかせる自信ないもん。
 それにしても、「真広君来るといつもベッタリでずっと話ばっかりしてる」だとぉー。まるであたしが仕事全然してないで、サボってるみたいじゃないかぁ。サボりじゃないもんっ、まひろとちょっと話し込んでるだけだもん。他にお客さんがいれば、ちゃんと接客するもん。マスターに任せないもんっ。・・・・・・・・・ごめんなさい、嘘ついてました。マスターの言うとおりです。  「満ちゃぁん。来週のシフトどうするぅ?」
 奥からマスターの声。
 うわっ、驚かせないでよ、さっきからもぉー。
 「早番でお願いしまーす。」
 マスターがシフト表持って出て来る。
 「最近どうして早番ばかりなの? 彼氏でも出来た?」
 ギクッ。
 「ち、違いますよ。何で早番にすると、彼氏が出来た事になるんですかぁ。」  変な事、聞くなっ。
 「早番にして、デートでもしてるのかなと思ってさ。」
 「デートなんてしてません。」
 本当にしてない・・・。ぐすん。
 「だってさ、前は早起き苦手だって言って、遅番ばっかりだったじゃん。」
 それは、まひろに夕食を作ってあげたいから。そして一緒に食べたいから。
 「え、えっとぉ、御飯を・・・自分で御飯を作れるようになろうと思って。」
 嘘はついてないぞ。
 「へぇ、そうなんだ、偉いねぇ。でも一人分作るの大変だろ? ここで食べていけばいいのに。その位はするよ。確かに客は入ってないけど、従業員に夜御飯出す余裕はあるよ。」
 「でも、それじゃぁ、いつまで経っても上手くなりませんから。」
ナイス切り替えし!
 「満ちゃん・・・」
 「はい?」
 「やっぱり彼氏出来たんじゃなぁい? 急に料理が上手くなりたいだなんてぇ。」
 オヤジぃっ、ニヤニヤするなぁっー。

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