カシスソーダてんこ盛りA
こぉらぁ〜っ! そこはまひろの特等席だっつーのっ! なぁんであんたがそこに座ってんのよっ。あんたの特等席は窓際奥の4番テーブルじゃないかぁっ! やっと午後になって、二日酔いが治ったちゅーにぃ、怒らせないでよぉーっ。
「マスター遅いね、みちるちゃん。」
ぞわわわぁっ。わっ、鳥肌立った、さぶいぼ立った、チキン肌立った。
「・・・下の名前で呼ばないで下さい、溜池さん。」
「つ、冷たい・・・。」
いじけるなっ。テーブルにのの字書くなぁっ。
「あんまりだよ、みち、ち・・・・・・って呼んじゃいけないのか。はぁ。」
ため息つくなぁっ。
「だってさ、マスターがいつもそう呼んでるから・・・。何て呼べばいいの? 名字? 名字教せぇて。」
ひっ。いやだぁっ、フルネーム分かっちゃうじゃんっ。
「・・・いいです、今まで通りで。・・・下の名前で。」
ぐすん。負けた。わたしまけましたわ・・・。
「ねぇ、ねぇ、みちるちゃん、マスターどこ行ったの?」
早速呼ぶなよぉ。え〜ん。
「・・・・・・銀行か、どっかじゃないですか。」
マスター早く帰って来てぇ。・・・わっ、こんな事思ったの、初めて。だって、溜池さんとの2人の時間なんて耐えられないよぉ〜。だって、オタクなんだもーん。アニメおたくの、アイドルおたくの、サッカーおたくぅっ! なぁにさっきから大事そうにでっかい包み抱えてるんだよ。きっと、アニメのポスターとか、アイドルのポスターだよ。良くてもサッカー選手のポスターだ。それを額に入れて持ち歩いてるんだ。そうにちまいない。そんなもん持ち歩くなぁっ。
溜池、さっきから時計と入り口をかわりばんこに見てる。
そんなにマスターの帰りが待ち遠しいの?
「あー、まだかなー。早くしないと韓国戦始まっちゃうよぉ。・・・しょうがない、置いてくか。」
わっ、振り向いた。いやっ、こっちを見ないで。
「みちるちゃん、これ、マスターに渡してくれる? ボク、これから急いで家に帰って、日本VS韓国を観ないといけないから。日本代表の未来を占う意味でも大事な試合だし、新しい戦術がきちんと通用するか見ないと・・・。もっちろん、ビデオには撮ってあるんだけど、そっちは試合終了後の反省用。やっぱナマで観ないとね。本当は試合会場に観に行きたかったんだけどさぁ、カミさんがさぁ・・・」
早く帰さないと、このままベラベラ喋り続けるぞ。
「早く行かなくていいんですか。」
「やべっ。じゃ、よろしくっ。」
ぴゅーっっと出てった。早ぇ〜。事故らなきゃいいけど。スピード違反して切符切られなきゃいいけど。免停になって講習受けるハメにならなきゃいいけど。本当はちょっと期待してるんだけどっ。
「ただいまー。」
あ、マスター帰ってきた。溜池帰ったから、もっとゆっくりでも良かったのに。
「あ、これ、溜池さんがマスターにって。」
お、重っ。
ドデカイ包みをマスターに渡す。
「おっ、やった。溜池君来てたんだ。・・・もう帰っちゃったの?」
「なんか、サッカー見るとか言って。」
「ああ、今日、韓国戦だもんね。」
マスターも知ってるのか。何それ、面白いの?
マスターが嬉しそうに包みをびりびり破り始めた。鼻歌歌いながら。
その包みの中身は・・・・・・なぁんだ、やっぱり額縁じゃん。何入れてんの? 見ちゃお。・・・あれ? アニメでもアイドルでもないぞ。サッカーでもない。・・・絵? なんだこれ、ポスター? なんだか、お酒のラベルみたい。字が書いてある。英語? 何て書いてあるか分かんないや。他に描いてあるのは・・・男の人と・・・踊ってる女の人。あ、この女の人の髪型可愛い。ちょんまげみたいな金髪。
「これでほとんど揃ったぞ、ムーラン・ルージュぅ。」
えっ?
「今、何て言いました?」
「何が?」
何がじゃないだろうが。今ムーラン・ルージュって言わなかったか?
「何がって、今、何か言ったじゃないですか。」
「・・・・・・言ったっけ?」
「言いましたよ。」
ぶー。
「そう? 独り言かなぁ。あはは。」
あははじゃないよぉ。
「・・・ほら、ムーランなんとかって・・・。」
あーん、もういいや。
「ムーラン・ルージュとかって言ってませんでした?」
マスターの眉毛が持ち上がる。
「え? 言ってた? 言っちゃってた? あはははぁ〜。」
あはははぁ〜じゃないよっ! 思い切って聞いてるんだから、ちゃんと答えてよ!
「この絵の名前だよ。ムーラン・ルージュって言うんだ。」
マスターが額を高く持ち上げながら嬉しそうに言った。
ムーラン・ルージュぅっ! やっぱり、ムーラン・ルージュって言ってたんだ。・・・・・・で、ムーラン・ルージュって何?
「・・・ムーラン・ルージュって何ですか。」
「ナイトクラブだよ。確か十九世紀後半に流行ったんじゃないかな。バーの他に、道化師や大道芸人や歌手や踊り子なんかが出演するショーもあったらしいよ。売春宿みたいな要素もあったらしいけど。」
「え? 本当にあったクラブなんですか?」
「クラブって言うと、随分今風だねぇ。そうだよ。実在したんだよ。・・・でね、それを描いたのがロートレックっていう画家でね。この人の人生が結構トンでてね。上流階級の出だったくせに、こういうナイトクラブやら売春宿に出入りして遊び歩いてたらしい。・・・くぅーっ。羨ましいねっ。」
へぇ。マスター意外に物知りねぇ。溜池さんも絵に興味があるなんて知らなかった。ただのオタクだと思ってたのに。ちょっと見直した。
「・・・子供の時に怪我をして、下半身の成長が止まっちゃってるんだ。アルコール中毒になったりねぇ、波瀾万丈なんだよ。死んだのが早くてねぇ、36歳だったけかなぁ。今の俺より若いなぁ。」
あ、マスターの話まだ続いてた。いつまで喋り続ける気なんだろ。いいや、喋らせとこ。
へぇ、ムーラン・ルージュって本当にあったのか。じゃ、オカケンが連れてってくれたクラブは、そっから名前つけたのかな。今度オカケンに「ムーラン・ルージュって本当にあったんだよねぇ」って言ってみよっかな。オカケン驚くかも。「なかなかやるな」って思うかも。「結構頭いいじゃん」って見直すかも。
あ、マスターまだ喋ってる・・・。
「退廃的で、淫靡な感じで、大衆的だけど、閉鎖的で・・・。色使いも好きなんだよ。この濁った海のような緑、時に激しいセピア・・・」
絵を眺めてたマスターが急に振り向く。
「満ちゃん、絵に興味あんの?」
「いえ、興味があるのはムーラン・ルージュ・・・。」
やばっ。
「へぇ、ムーラン・ルージュに興味があんの? 何で? どういう所か知らなかったじゃない?」
「・・・ええ、ちょっと。」
小原満、顔は普通ですが、中身はヒヤヒヤです。
「ふうん」と言ったマスターが、あたしに背を向け、店の奥の壁に「ムーラン・ルージュ」を飾りに行く。
自分で聞いておいてマスターの質問に答えないのは、ちょっとずるいかな。
あたしは反省半分、絵への興味半分で、マスターの背中に少し近づいた。あたしの気配を感じたのか、マスターが顎で差しながら言った。
「この絵もロートレックが描いたムーラン・ルージュだよ。この絵は『ル・ディバン・ジャポネ』って言うんだ。あっちは『ムーラン・ルージュにて』。」
ふぅん。・・・・・・あ、この人、気になるっ。なんで首から上が描いてないんだろ。白いドレスに黒〜い長〜い手袋。ちょっと不気味。でもスラーっとしてて羨まし。ステージにいるって事は、歌手かな、女優さんかな。
「いっぱいあるんですねぇ。」
あたしは絵を見て回りながら言った。
「毎月少しずつ揃えてるんだ。」
へぇ、全然知らなかった。
「・・・全然知りませんでした。」
自分の中の声を出してみた。マスターと目が合う。ちょっと笑ってみた。
「カップもそうだよ。毎月少しずつ揃えてるんだ。」
そういえば・・・・・・。
「そう言われてみれば、増えてますね、ちょっとずつ。」
マスターが微笑む。
「今も買ってきたんだよ。・・・見る?」
「はい、見せて下さい。」
なんか、おニューを見るのって楽しい。包みから出てくるのを見るのは、自分の物じゃなくてもドキワクする。
マスターが箱から静かにカップを取り出した。
「わぁ〜、きぃれぇ〜。」
カメオみたい。ターコイズブルーに、薄いサンゴ色の模様がデコボコ貼りついてる。何の模様だろ。お城の柱に彫刻されてる模様みたい。
「奇麗でしょ。気に入った? じゃ、最初に満ちゃんが使ってもいいよ。」
「えっ。本当ですかぁ! いいんですかぁ?」
「毒味ね」
「ど、毒味ぃっ?」
カップに毒味の必要なんてあるのぉ? 最初はなんか薬がついてるとか・・・。
マスターの言った事が本当なのか、冗談なのか分からないままにコーヒーを飲んだ。いつもより何十倍も美味しく感じる。こんな毒味だったら、いつでも引き受ける。
「俺も飲もっと。」
マスターも、自分専用のチョコレート色のごつごつしたカップを出した。
コーヒーの魔力か、カップの魔力か、ムーラン・ルージュの絵の魔力か、あたしはいつもよりおしゃべりになった。
「実はこの前、ムーラン・ルージュっていう店に行って・・・。」
コーヒーを注いでいたマスターが顔を上げる。
「へぇ、本当? そんなとこあるんだ。何屋?」
えーっと・・・。
「何屋なんだろう。オカケンは・・・・・・あ。・・・・・・オカケンに連れていってもらったんですけど、クラブって言ってました。」
「ああ、だからさっきもクラブって言ってたんだ。」
あはは、すっかりバレてしもうた。
「酔っ払ってて覚えてないんですけど、なんか、ショーみたいのやってました。」
「へぇ、ショーもやってるんだ。本当のムーラン・ルージュみたいじゃない。どんなショー?」
「・・・・・・今度しっかり見てきます。」
記憶がないのよねぇ。
「そんな楽しいとこあるんだったら俺も連れてってくれよぉ。」
えー、オヤジ連れて行くのぉー?
「・・・いいですけど、ゲイの溜まり場なんですよぉ? いいんですかぁ。」
よしっ、ナイス返し。マスターむせる。
「・・・遠慮しとく。」
「しめしめ」と思いながらコーヒーをもう一口飲んだ。まだ温かいカップを手で包む。
このカップ、肌触りもいいなぁ。ちょっとざらつくっていうか、手仕事っぽい感じで。あたしに出会うために作られたカップみたい。でも、他のお客さん専用カップになっちゃうんだよなぁ。あーあー、誰のカップになるんだろ。溜池さんだけは嫌だ。似合わないもん、絶対。あのドデカイ図体にこのプリティなカップは似合わーんっ。ちょっとは見直したけど、それはイヤー。
ずっと何かを考えてたみたいなマスターが口を開く。
「俺さぁ、てっきり満ちゃんは真広君の事が好きなんだと思ってたけど、本当はオカケン君なのかなぁ。」
今度はあたしがむせる。
「や、止めて下さいよ。」
「だって、オカケン君とムーラン・ルージュってクラブ行ったんだろ? デートじゃん。」
デ、デートぉっ?
「ち、違いますよ。そんなんじゃないですよ。だってオカケンは・・・・・・」
あ、そうだ。
「・・・オカケン、オカマですよ?」
マスターちと固まる。
「・・・そだったね。」
マスター、固まり続ける。何か考えてるみたい。
「ねぇ、満ちゃん。」
マスターがやっと口を開いた。
「真広君とオカケン君は、一緒に住んでるんだよねぇ?」
「は、はい・・・。」
何を言おうとしてるの? 不安。
「オカケン君はオカマなんだよねぇ。」
「はいっ。」
だからあたしとオカケンは何の関係もないのよ。
「・・・・・・じゃぁ、オカケン君と真広君が付き合ってるの?」
ひ、ひぃえ〜っ、小原満、大ピンチっ!
「そ、それは・・・。」
あーどうしよ。何て言おう。
「こ、高校時代からの友達だって言ってましたよ?」
YESでもNOでもない答え。
「ふ、ふぅ〜ん。そ、そうなんだ。」
マスターは深く関わらない道を選んだみたい。2人で無言でコーヒーをすすった。