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扉の向こう側

 生美が力任せに閉めた扉が乱暴な音を立てた。
「いくみーっ。扉は静かに閉めなさいっていつも言ってるでしょうっ」
 叫んでみたが返事はない。美弥子は溜息を吐いて、湯船に体を沈めた。
 何でだろう。何がいけなかったんだろう。
 そんな言葉が頭の中をぐるぐる回った。
 何であんな自分勝手でわがままな娘に育ったんだろう。もっと厳しく躾けた方が良かったのかな。甘い母親だったのかな。ぶったり叩いたりしちゃいけないって思って、今までしなかったんだけど。ナメられてるのかな。それとも。もっと優しくしてあげた方が良かったかな。だっこって言われたら、どんな時でも抱っこしてあげれば良かったかな。子供としてじゃなく、一人の人間として接したくて、そうしてきたつもりだったけど、上手く出来てないのかな。どうすれば良かったのかな。それとも子育てなんてこんなものなのかな。もっと大きくなったらどうなるんだろ。手に負えないよ。もう。どうしていいか分かんないや。
 美弥子は頭を抱えた。
「少しは言う事聞いてよ」
 呟きは湯気と一緒に立ち上り、天井で水滴になった。
 重い気持ちで風呂から上がる。扉を開けると冷たい脱衣所にゆらゆらと蜃気楼。美弥子の体からも白い湯気。湯気が上がれば上がるほど下がっていく表面温度。美弥子を余計に憂鬱にさせた。洗面台の鏡は曇って見えない。手でボカシを拭う。疲れきった自分の顔。
 あたし、こんなに、老けてたっけ?
 立ちくらみがした。心臓がごとごと言った。そして揺れは自分自身ではなく、地面が振動しているせいだと気付いた。気付いた時にはもう既に事が始まっていた。
 ふと気付くと美弥子は闇の中にいた。そして何かに囲まれていた。恐る恐る息をしてみる。恐る恐る周りを見回してみる。恐る恐る手を伸ばして見る。――伸ばせない。すぐに指先が、肩が、肘が、つま先が、髪の毛が何かに当たる。埃っぽい。木材の匂い。おぼろげな記憶が蘇って来る。――地震だ。地震があったんだ。地震があって自分は今、壊れた壁や柱に囲まれているのだ。
 体がびくんと反応する。
 生美、生美は無事なのか。
 次の瞬間、もう体は動いていた。がむしゃらに目の前の木材をどけた。めったやたらに破片を放り投げる。無我夢中に空を求めた。空気の無い水の中でぱくぱくもがく金魚みたいに。
 トゲがささる。埃が目に入る。パジャマが何かに引っかかる。血が滲む。泣けてきた。不安だった。押し潰されそうだった。それでも立っていられたのは想い一つ。娘に対する想いだけ。
 大きな板をどけた。頭上に空が広がる。満天の星空。吐いた息が白くたなびく。辺りを見回した。タイムスリップしたみたいだった。美弥子は自分の目を疑った。そこはまるで別世界だった。膝ががくがくと震える。家々、道路、木々、記憶の中にあった全てのものがガラクタになっていた。
 美弥子は勇気を振り絞って瓦礫の山を登った。山頂を目指して。生美はきっとあの辺にいる。
「いくみー」
 崩れる瓦礫に足を取られながら娘の名前を呼ぶ。静寂な街。生きているのは自分一人だけではないかという不安が美弥子を襲った。挫けそうな心をぶち叩いて元二階に歩み寄る。
 ゆらゆらと黒い影法師があちこちから立ち上っていた。影が上がる度、街が冷やされていく。
「ここだ」
 何故だか娘のいる位置がすぐに分かった。神経は研ぎ澄まされていた。体が軽い。屋根瓦をどかす。子供の小さな手が見えた。生美だ。急いで娘の上に覆い被さった物々をどけた。汚れた顔が見える。手で埃を払った。時が切断される――。生美は息をしていなかった。
 黒い影たちは音も無くゆっくりと美弥子に近付いて来ていた。美弥子はまだ気付いていなかった。
「気道確保……口腔内確認……異物なし」
 呼吸が乱れているのを感じた。手がぶるぶると震えていた。頭だけが冴えていた。
「……呼吸確認……呼吸、なし。……人口呼吸開始します」
 生美の小さな口を自分の口で覆った。息を吹き込む。腹部が膨れるのを確認する。大きく息を吸って、はい、もう一回。
「脈拍確認……脈拍…なし。……心臓マッサージ開始します」
 いざという時の為に受講した普通救命講習がこんな所で役に立つとは。運命を呪った。
 黒い影は懸命に生美の心臓を押し続ける美弥子の手に覆い被さった。
 美弥子は突然手に乗っかってきた黒いモノを払った。
 黒い影はゆらゆらとそこが居場所のように美弥子の手に上った。
 美弥子はぬめぬめとした黒を除けた。
 黒い影はまた美弥子の手に戻った。
 美弥子はマッサージを続けながら横目で黒い物体の正体を見た。影は影だった。沢山の影たちが美弥子と生美を取り囲んでいた。次々に現れてどんどん迫ってくる生臭い黒い影。
「何なの。あなた達一体、誰なの」
 影たちはそれに答えるようにゆらゆらと揺れた。心臓マッサージを続ける手がどんどん重く感じる。
「やめて。いくみが潰れちゃう」
 美弥子が叫ぶと、手は軽くなった。影たちが美弥子の手を持ち上げていた。生美から手がどんどん離れていく。
「やめてよ。邪魔しないで」
――もう遅い。もうあなたとは違う世界の人間になるのだから――
 このままでは生美が連れて行かれてしまう。
「いやー」
 悲鳴のように拒絶な声が出た。自分の内からこんな声が出るなんて。初めて知った。美弥子の声で黒い影たちがゆらゆらと揺れた。影が手から離れる。美弥子は確信した。
「嫌よ。嫌。行かせない。この子は行かせない」
 力の限り叫んだ。腹の底から。頭の上から。喉の奥から。指の先から。髪の毛が震えた。鳥肌が立った。骨が呻いた。
 美弥子の声に黒い影たちが大きく揺らめいて後ずさりする。
 心臓が銅鑼を打ってる。銅鑼の音は脳梁を揺らし、網膜を振るわせ、三半規管を動揺させ、咽頭を痙攣させた。
 影たちは遠巻きに美弥子を見ている。少しでも気を抜くと襲ってくるだろう。美弥子は影たちを睨んだ。
「いくみは、渡さない」
 生美を、我が子を抱きしめた。まだ温かい。いつもの温もり。美弥子が好きな温もり。柔らかい頬に自分の頬を宛がった。髪の毛。さっき、きちんと洗わさせてくれなかったから、ちょっと軋んでる。指。手の平。大きくなった。赤ちゃんの時はもっと小さかったのに。手を繋いでみた。胸が熱くなる。今まで何百回と繰り返してきた行為。自然に繋ぐ事もあった。怒って引っ張った事もあった。思いを込めて握った事もあった。忘れていた。私と生美はちゃんと繋がっていたんだ。
 穏やかな気持ちになった。ふと気付くと美弥子達に付きまとっていた黒い影は一つ残らず姿を消していた。
 何故か、ある風景が頭に広がった。晴れた昼下がり。洗濯物が干してある。大人の服と子供の服と。風に吹かれている。柔らかなオレンジ色の光に照らされている。子供の服はこれから少しずつ大きくなっていくだろう。もしかするとあっという間に大人と同じ大きさになるかもしれない。そんな当たり前の事を予感させるような風景。
「いくみ。ママ、これからもちゃんといくみを守っていくから」
 その時、生美の口がかすかに動いた。気が遠くなる――。

  ちゃんと肩まで浸かりなさい
  風邪ひくよ
  何回同じ事言われてるの
  ふざけないの
  何でママの言うこと聞けないの
  怒るよ
  いくみっ
 扉が開く――

 街にサイレンの音が鳴り響いていた。あちらこちらから。救急隊員が重く口を開いた。
「もう駄目ですね。残念ですが。」
 横たわっている母親の周りに家族が集まっていた。
「死んでるのが嘘みたい。奇麗な顔をして……。」
「あ、爪の先に血が滲んでる。地震直後は生きていたのかもしれないねぇ。出たくて引っ掻いたのかもしれないよ」
「もう少し早くお風呂から上がってれば助かったかもしれないなぁ」
「そうねぇ。生美は助かったんだから……」
 淡々と言葉が交わされた。家族は崩れた家と同じように母親の屍を見た。
「ママ……」
 娘が呟いた。父親が娘の手をギュッと握り締めた。
「ママに最後の挨拶をしなさい」
 娘はゆっくり頷いた。
「ママ、今までありがとう」
 そして、父親に聞こえないように小さな声で言った。
「ありがと。助けてくれて」