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落ち葉のざわめき

 あいつの背中のタトゥーがなびいた。
 風が吹いて、小さなつむじ風が吹いて、あいつの背中の沢山の小さな葉々達が、ばらばらと飛んで行ってしまう。駄目。行かないで。
 私は手でタトゥーを押さえた。きっちり押さえたはずなのに、指の間から葉々達が溢れ出てくる。舞い上がり、私の周りで渦を巻く。次から次へと溢れ出す。止まらない。目の前が黄金色に染まる。息が。息が出来ない。私に葉々が襲いかかる。私に貼り付く。次から次へと。苦しい。息が。

 目が覚めた。息が荒い。汗が落ちる。喉が、渇いている。
「どうしたの?」
 あどけない表情の圭が綾に尋ねた。
「怖い夢、見た?」
 圭が心配そうに綾の顔を覗き込む。現実だ。こっちが現実だ。綾は自分に言い聞かせた。
「大丈夫」
 綾はそう言って、ゆっくりと起き上がり、圭の胸に顔を埋めた。しっとりとした昼下がりの倦怠を湛えた肌。綾はゆっくりと圭の背中に腕を回した。片方の手は腰に。そしてもう片方の手が肩甲骨に触れた。圭のタトゥーがあるのはちょうどこの辺り。触れただけでは葉達がざわついているか分からなかった。
「綾?」
 圭の優しい声に顔をあげる。にっこりと微笑みを浮かべている圭。綾は安心した。いつもと同じ圭だった。釣られる。伝染してしまう笑顔。
 きっと幸せすぎるから、あんな夢見るんだ。だって圭はひたすらに優しい。そして、穏やかで、可愛らしくて、素直で、切なくて、甘く、儚げで、明るくて、柔らかで、温かい。綾は子猫のように圭の日溜まりの中を泳いでいれば良かった。何も考えなくて良かった。
 綾は圭の首筋に鼻を近づける。夏のプールのきりりとした匂いがした。柔らかな髪が綾の鼻先をくすぐる。ありがと。吐息だけで言った。わざと。聞こえないように。
「くすぐったいよ」と圭が体をよじる。
 ほらね。やっぱり幸せ。
 綾は確認の笑みを浮かべた。そして、圭の首に手を回す。今度は両手で肩甲骨に触れた。つるすべな肌。きっと圭は翼を持っている。綾は思った。その時が来たら、ここから白く大きな翼が生え出すんだ。綾はその愛しい出っ張りをそっと撫ぜた。
 ここから翼が生えたら、圭はどこへ飛んでいくんだろう。どっか遠くへ行っちゃうかな。そしたらもう私のとこには来てくれないかな。ずっと一緒にいたいのに。
 また急に不安が迫ってきた。今までこんな事はなかったのに。喉元にある何かがカラカラ鳴る。早く圭の『大丈夫』って言葉が欲しい――。
「どうして圭はタトゥー入れてるの?」
 『大丈夫』を引き出す為の最初の一言。
「何でそんな事聞くの?」
 圭の顔が一瞬、強張った気がした。綾の胸の奥が何かに掴まれた。息苦しい。
「圭のキャラじゃない気がして。圭って優しいじゃない? いつもニコニコしてるし。タトゥーする人って、もっと怖い人だと思ってたから」
 ツギハギだらけの言い訳だ。綾は思った。でも良いんだ。何だって良いんだ。何でも良いから早く私を安心させて。
「ぼくがこれを彫った理由教えてあげようか」
 圭の表情の温度が変わった。綾の心臓が冷える。
「これはぼくの償いなんだ。ぼくが消しちゃった命のね」
「い…の、ち……」
 静まり返るワンルーム、シングルベッドの上。壁に掛けてある時計だけが一秒毎に音を立てる。
 静寂を打ち消すように綾が声を立てて笑った。
「やだぁ、真面目な顔しちゃって。本当は私、知ってるんだ。コノハチョウでしょ? このタトゥー。圭、大学でコノハチョウの研究してるんだもんね。私、何でも知ってるんだよ、圭の事。あ、そっか。消しちゃった命ってコノハチョウの事か」
 矢継ぎばやな綾のセリフを聞いて、圭は照れくさそうに笑った。
「やっぱり研究の為には殺す事も必要なの? あ、そっか。標本とか作るんだよね? コノハチョウって表が木の葉に似てて、裏が綺麗な模様なんでしょ?」
 図書館で調べたばかりの知識を吐き出した。圭に少しでも近づきたくって開いた昆虫図鑑。鱗翅目タテハチョウ科コノハチョウ。
 おしゃべりな口を止めるように綾の手首を圭が掴んだ。
「木の葉に似てるのは裏だよ」
「あ。そうなんだ。間違えちゃった」
 綾が肩をすくめる。手首はまだ離してもらえない。
「このタトゥーの意味、他にもあるんだ。聞きたい?」
 綾は戸惑う。心の中はイヤイヤをしている。だけど体は何物かに突き動かされるようにゆっくりと頷いてしまう。圭は綾の頷きを見届けると、ゆっくりと掴んでいた手を解いた。背中のタトゥーを綾に向ける。
「これ、封印なんだ。ぼく、封印されてるんだ。これが無いと、ぼく、どうなっちゃうか分からないんだ」
 圭がニヤッと笑った。いつも見ている圭の笑顔。大好きな圭の笑顔。大好きなはずの笑顔。吸い込まれそうになる。綾は足を踏ん張った。呼吸が出来ない。息苦しい。まるで水の中にいるみたいだ。綾の口から空気の泡が漏れ出す。泡はぷかぷかと天井に昇っていく。圭の姿が歪んで見える。泡だと思っていた物がいつの間にか違うモノに変わっている。枯れ色の何か。綾は宙でそれを掴む。カシャっと鳴る音。
「葉…っぱ?」
 綾の手から崩れた葉の残骸が出て来た。手の平から砂のようにサラサラと零れ落ちる残骸。その時、視界が突然、黄金色に染まった。舞い上がる葉々。圭の背中から溢れ出した葉々。綾の頬を傷つけ、口を塞ぎ、手足に纏わりつき、自由を奪う。綾は必死に葉々達に抵抗する。黄金色の隙間から圭の姿が見えた。笑っている。満面の笑顔――。
「大丈夫。綾も葉っぱにしてあげる。そしたらずっと一緒だよ」