ケチャップの蓋を開けてあの人めがけて噴き出した。
あの人の白いブラウスの胸元が赤く染まる。
あの人の大事な人が買った白いブラウス。
ボクのケチャップで真っ赤に染まる。
慌てるあの人。
でも演技でしょ? 本当はボクのモノになりたいんでしょ?
ボクはあの人の胸元にそっと手を伸ばす。
人差し指でケチャップすくう。
そして人差し指舐める。
ボクのあの人の目をじっと見つめながらね。
なんてね。
なんて嘘さ。
あの人を困らせる事なんかしないよ。
でも僕の妄想は、段々僕の手に負えなくなってきてるよ。
僕の物になってください。
そうあの人に言ったら、あの人はどんな顔するだろう。
にっこり笑ってくれる?
まさかね。
さらっと流されちゃう?
そうだね。
本気にしてくれない?
多分ね。
僕を子供だと思ってるでしょう?
そうだね。
辛い。辛いよ。
たった十年遅く生まれてきただけで、僕はあの人に触れる事すらできないの?
「この話、なんだか君に似てるね」
僕が手渡したギリシア神話から顔を上げて、現実のあなたが言う。
どういう意味で言ってるの?
妖精エコーは一人の人をずっと思い続けて、その思いをずっとずっと歌い続けて、とうとう声だけの存在になっちゃったんだよ。
「どういう……意味ですか?」
呼吸が苦しいんだ。
「似てるっていうか、似合いそう。声だけになっても頑張って歌っちゃいそうだから」
あなたが屈託なく笑う。屈託なく笑う。
僕の気持ちも知らないくせに。
「そんなにじっと見つめないで……。君の目……大きくって、なんだか怖いわ。吸い込まれそうなの」
あの人の頬が紅潮する。頬が恥らってる。
「目を逸らさないで。ボクをずっと見て。ボクだけを見て。他の人の事は考えないで」
あの人の白い手を握った。
「ボクをずっと見て。声だけじゃなくって。あなたは、あなたの大事な人とは違うでしょ? ボクの声以外も認めて」
……目が覚めた。またあの人の夢を見た。見過ぎて、夢なのか現実なのか、判別が難しくなって来た。
でも夢なら。
夢ならあなたに近付ける。あなたの側にいるあの『おじさん』がいないから。
「全然おじさんじゃないですよー、若いですよー」
僕はまた嘘をついた。そのうち、舌を切られて焼かれてしまうだろう。
「もう、おじさんだよ。妻はいつも若く見られるんだよなー。同じ年なのに。なんだか損してるよなー」
あの人と一緒にいられるなんて、おまえはかなり得をしている。僕のあの人を気安く『妻』って呼ぶな。ちょっと位の地位と名誉があるだけで、偉そうにするな。おじさんのくせに。
「この間の仮歌、聴かせてもらったよ。なかなかいい出来じゃないか。妻も褒めていたよ。今度、またレコーディングを見たいと言ってるんだが、いいかね?」
「はい! 喜んで!」
「妻は君が大のお気に入りみたいだ。いつも家に連れて来い、連れて来いって言ってるんだよ」
「行きます! 僕、行きます!」
嗚呼。僕の想いはどんどん隠し切れなくなってきている。
「あなたは声が嗄れても歌っちゃいそうだものね。あまり無理をしちゃダメよ。あの人に無理を言われてもちゃんと断ってね」
現実のあなたが僕のために紅茶を淹れてくれてる。白く柔らかく甘い指で。
僕はきっとこの耳が聞こえなくなっても、あなたの声は聞き取れるだろう。その唇の動きは全て記憶されてるんだ。
「無理してないから大丈夫です」
『おじさん』はいない。あなたと二人っきりの時間。このまま時が止まればいいのに。
あなたの表情が陰る。僕の心を読み取ってしまったのだろうか。
「どこか、具合悪いの? 声が、少し変よ。風邪ひいてる?」
……秒針が狂った。
「風邪を……ひきました」
彼女が目を見開く。
「心配だわ。大丈夫?」
僕はありったけの笑顔で頷いた。彼女の安堵の笑顔を見るために。
病院で名前を呼ばれた。
僕の病気は大分悪いらしい。
良かった。声じゃなくって。あの人に心配かけたくない。
これからはオリジナルだけを歌うことにしよう。全ての曲をアカペラにしよう。
耳が聞こえなくなっても歌えるように。
優しい夢を見た。
子供のあなた。子供の僕。
二人しゃがんで遊んでるんだ。砂場で山を作ってトンネルを掘ってるんだ。もうすぐ穴が繋がるよ。そしたら僕はあなたの手をそっと握るんだ。
あなたと僕が同じ年だったら、あなたは僕のモノになっただろうか。
それとも僕とあなたは最初っから繋ぎ合えない運命なのだろうか。
繋ぎ合えないくせに出会ってしまう運命なのだろうか。
僕は歌う。声が嗄れても歌う。僕の歌は必ずあなたに届くから。
気付くと、あなたの事ばかり考えてる。
目を閉じるとあなたの顔が浮かぶ。
あなたの声が幻聴で聞こえる。
でも足りない。足りない。足りない。足りない。
胸を切り裂かれる。赤い涙が落ちる。思いが焦げ付く。
あの人に会いたい。四六時中見ていたい。もういらないって位一緒にいたい。
嫌いになる位あなたを知りたい。
辛い。辛いよ。お願いだ。誰かあの人を嫌いにならせて。
アナタニアワナケレバ
コンナオモイヲシナクテスンダ
もう秋なのに蝉が鳴いてる。僕の耳の中で騒いでる。
うるさいよ。どうせ僕の耳はそのうち聞こえなくなるのに。
アナタニアワナケレバ
空気が歪むんだ。僕の周りだけ。
助けてよ。あなたが助けて。他の誰かじゃ駄目なんだ。あなたじゃなきゃ駄目なんだ。
アナタニアワナケレバ
あなたの白いブラウスを赤く染めたい。
僕はあなたの返り血を浴びるんだ。
アナタニアワナケレバ
耳が痛いよ。空が渦巻いてるよ。ここはどこなの。あなたに会いたいよ。
アナタニアワナケレバ
地面がおぼつかないんだ。底無し沼の上を歩いてるみたいだ。
いっその事。
アナタニアワナケレバ
いっその事、このまま地中深く潜って行ってしまいたい。あなたのいない世界へ。
アナタニアワナケレバ
嫌だ。嫌だ。あなたに会えないのは嫌だ。
アナタニアワナケレバ
嫌だ。嫌だ。あなたはどこ?
このままずぶずぶ沈んで行くのは嫌だ。
ここはどこ?上も下も分からないよ。
アナタニアワナケレバ
アナタニアワナケレバ
アナタニアワナケレバ
・
・
・
・
ボクが辿り着いたのは最果ての地。白く眩しい世界。
誰もいない世界でボクはあの人と暮らしてる。
あの人はいつもボクの頭を優しくゴリゴリ撫ぜてくれる。ボクはお礼に歌を歌うんだ。あの人が好きなボクの歌。
僕に微笑んで
優しい音で
僕に触れて
甘い風で
空に浮かぶ雲 白い雲
綿飴みたいに優しく包んで僕達を
キツク 解けないよに
頑丈な蜘蛛の糸でぐるぐる巻きに縛って
腐っても離れないよに
あなたの願い事なら何でも聞く
この身が切り裂けても歌うよ
あの人を消してもいいよ
だからお願い
次の子を探すってもう言わないで