あたしに、もし、羽が生えていたなら、あの日は変わっていたかもしれない――――。

 あいつが死んだのは一年前。ちょうどこんな五月晴れの日だった。緑の葉々に日の光が差して、シャラシャラと風に揺れてる。テカラテカラと光の粒達が目に飛び込んできて眩しい。そんな日。
 私の頬を風が撫ぜた。風はいつでも優しい。私にいろんな事を教えてくれた。
「和輝が逝っちゃったあの場所は、あれ以来立ち入り禁止なの。こっからでごめんね」
  教室のベランダに座り込んでる私はそう呟いて、シャボン玉を一吹きした。
  シャボン玉は次々現れて、どんどん消えて行く。すぐに消えちゃう小さな命達は私を不安にさせた。私もいつかこんな風に消えてなくなっちゃうんだ。
  性と生は凄く近くて、生を感じたいと思えば思うほど、性を引き寄せたくなる。それもひりひりと痛い位の。多分、生への渇望が子孫繁栄という名目の性欲を掻き立てるんだ。私には分かる。あの頃の私がそうだったから。

「この男も同じだ」
  自分の上で必死な顔してる男を見て翔子は思った。その途端、自分の中に沸いていた気分が急速冷凍し始めた。
  優しいのは最初だけ。多分フリだったんだと思う。結局は自分が良ければいいんだ。自分が気持ちよければ。何でも買ってくれるとこは3番目に寝た男と似てる。自分の好みを押し付けようとするとこは二コ上の先輩だったアイツに似てる。体の白さはあの男に・・・もう顔すら思い出せないや。私がすぐに着替えて出て行こうとすると、泣いて引き止めたのはどんな男だったっけ?
  翔子はまた自分が人形になっている事を感じた。感情も無い。記憶も無い。欲も無い。動きもしない人形。いっそこのまま死んじゃえばいいのに。
  翔子が小さい時から思い描いている妄想がまた姿を現した。何にも無い真っ暗闇の世界。自分はただ浮遊しているだけ。誰もいない。何も無い。何処でもない世界。もうこれからは何も考えなくて済むんだ。 幸せの絶頂に達した時、男がブザマな声を出した。その声のせいで、翔子は現実へと引き戻される。邪魔な物ばかりのガラクタな俗世へと。
  俗世の住人が翔子に向けて、これでもかという笑顔を見せた。偽善的な笑顔だ。支配欲を隠すための作り物の笑顔。男の鼻溝に汗が流れた。絶望と落胆と憎悪の波が押し寄せて来る。
  目の前のブザマを張り倒したい気持ちを押さえながら、翔子は何も言わずに部屋を出た。
 翔子は知っていた。男は「誰でもいい」と思っている事を。別に自分じゃなくてもいい。隣につれて歩いても恥ずかしくないルックスで、柔らかい凹凸のある体をしていれば誰でもいい。男はどうせ「やりたい」だけだ。そして女である自分はそれを利用して温もりと安心感を手に入れようとしているだけだ。それも分かっていた。だから一つの恋が終わる時(恋と言っていいのか分からないが)、何の感情も生まれてこなかった。
 男を知らない時は女友達に縋(すが)っていた。空虚をそれで埋められるのではないかと思っていた。でも違う事はすぐに分かった。女の子と遊んでも会話は最初のちょっとだけ。会話につまると、どちらからともなく化粧直しやケイタイいじりを始めた。それは無言スタートの合図。これでしばらく喋らなくて済む。一人の世界は心地よい。肩の荷が下りた気がした。そして翔子はまた気付く。―――それだったら別にこの子と一緒にいなくてもいいんだよな。

「生きるという事は即ち欲するという事だ。性欲・食欲・金銭欲・物欲・自己顕示欲・知識欲・・・。欲求こそが生きる力だ」
 副担任の言葉が翔子の耳に飛び込んできた。お説教のつもりなのか。授業からわざわざ脱線してそんな事を語りだすなんて。教室を見渡すと空っぽの脳みそを抱えた同級生達が、いつになく真剣に副坦の話を聞いていた。騙されてる。空っぽを満たす為だったら、うそ臭いお説教でも構わないのか? 副坦がアニキ面して授業と関係ない話をするのは、人気が欲しいからだ。生徒に媚を売るためだ。翔子は呆れて窓に目を向けた。
  でも。『欲求こそが生きる力』その言葉は認めてやってもいい、と翔子は思った。私には欲っする気持ちがない。そして生きていく力もない。いつやってくるか分からない死を待ってるだけだ。おいでおいでしながら。
  窓の外には茶色い校庭が広がっていた。小さな砂漠みたいだ。翔子は思った。乾ききってて、水を与えても与えてもすぐに吸収してしまう。底なし沼のような砂漠。水はどこにいってしまうのだろう。地底深くに引き込まれていっても、まだ水のままなのだろうか。翔子の妄想は翔子を少しだけ不安にさせた。でもこの不安は少し心地よかった。私にとって不安だけが生きてる事の証になるのかもしれない。翔子は思った。
  外をぼんやりと眺めていると、男の顔が窓に映りこんだ。翔子の方を見ている。でっかい体に坊主頭がちょこんと乗っている。何か言いたげにじっと硝子の中の翔子を見つめている。翔子は、目を、逸らした。

「和輝? あいつ最近有名だよな」
 男が髪を掻き揚げながら言った。
「有名?」
「そうだよ、特に女子に。知んないの? あ、そっか、お前他の女子とあんま喋んないもんな」
  自分の事を知った風に言わないで欲しかった。あとお前呼ばわりもしないで欲しい。たった今初めて肌を合わせただけのくせに。
  翔子はイライラして、煙草に火をつけた。男が煙草を奪い取る。
「おいおい。こんなとこで吸うなよ。誰かに見つかったらどうすんだよ。・・・それにさ、俺さ、タバコ吸う女苦手なんだよなー」
  男はそう言って煙草を美味そうに吸った。
「私はあんたのモノじゃない・・・」
「え? 何か言った?」
 翔子は返事をする代わりに、跳び箱に手を掛け立ち上がった。重い体育倉庫の扉を開ける。
「おい。ちょっと待てよ」
 男が窓から煙草を投げ捨て、手をパタパタと仰ぎながら煙を散らした。
 この男は何にも分かってない。男の声を無視し続けながら歩いた。体育館の入り口から誰か入ってくる。どこかで見た顔だった。前に寝た男だっけ?
 その男は翔子の目の前で足を止めると、翔子の胸元を見た。翔子が不快に思いながら目をやると、ボタンが開けっ放しだった。
「あ・・・」
 急いで襟を直す。
「やべ」
  翔子の後ろから慌てて来た同級生が男を見て言った。
「お前ら何してる。授業もう始まってんぞ」
 あ、そうだった。この男は副坦だったっけ。
「先生〜。固い事言わないでよー」
 同級生が甘えた声を出した。
「甘えないっ。ほら、急げっ」と、副坦が同級生の尻を叩いた。
「ほ〜い。ほら、翔子も来いよ」
 同級生が翔子の手首を掴んだ。
「痛っいなぁー」
 翔子は同級生とは反対方向に走り出した。

「鞄・・・忘れてきちゃったな」
 翔子は天井を見つめながら呟いた。自分のベッドは心地よい。この部屋には翔子の好きな物ばかりだ。安心する。シェルターみたい。翔子はうっとりとした。
「翔子ー。和輝君来たわよー」
 翔子は急いで飛び起きた。何が何だか分からない。頭の中がぐるぐる回転している。訳が分からないまま、階段を駆け下りた。――そこにいたのはあの和輝だった。
「何で・・・」という言葉が自然に翔子の口から飛び出た。
「久しぶりねぇ、和輝君。お母さんに同じ高校に行ったって聞いてて、どうしたのかなぁって思ってたのよ」
「はい。今、翔子さんと同じクラスで・・・」
「え? そうなの? 全くこの子ったら、何にも話さないんだから。『翔子さん』なんて言っちゃって、和輝君も随分大人になったわね」
 翔子の顔がどんどん紅潮してきた。
「もういいでしょ。・・・ちょ、ちょっとこっち来て」
 翔子は和輝を二階に引っ張り上げた。
「・・・何であんたがここにいるのよ」
 部屋の扉を用心深く閉めながら翔子が言った。
「だって、翔子がこっちに来てって」
「そうじゃなくって! 何で家にいるの!」
「ああ」と言いながら和輝が微笑んだ。「ほら、これ」和輝が差し出したのは翔子の鞄だった。
「あ・・・。・・・ありがとう」翔子は和輝から鞄を奪い取った。
「でも、別にあんたじゃなくたっていいじゃない」
  和輝が困ったように微笑んだ。
「だって、俺、ほら、一応級長だし。それに翔子の家に一番近いのは俺だろ」
「そ、そうなの?」翔子の声が震えた。
「そうだよ。当たり前・・・もしかして覚えてない?」
「覚えてるって、何を?」
 翔子の体の中で心臓が鋼のように打った。
「本当に覚えてないの? ほら、小学校の時によく・・・」
「そうだったっけ? 全然覚えてない・・・ごめん」
「そうなんだ・・・。いや、いいんだよ、別に。ほら、ずっと昔の事だし」
 和輝の少しがっかりした顔を見た時、不思議と今日寝た同級生の男の言葉が浮かんできた。――『あいつ最近有名だよな』
 クラスの女子が、いや、違う組の女子、別の学年の女子までも和輝の元を訪れている事を翔子は知っていた。
「何で・・・」
「え?」
「ううん。何でもない」
  翔子は今までにない感情が沸き上がって来るのを感じた。
「いいじゃない。またこれから始めれば・・・」

 翔子は学校の廊下を歩いた。傍らには和輝がいた。あの日から翔子の側にはいつも和輝がいる。驚き顔、訝しげな表情、羨望の眼差し達が二人を見た。翔子が考えていた以上の反応だった。和輝は今まで寝たどの男よりも影響力があるらしい。
  翔子が席に着くと、名も知らない一人の女が近づいてきた。
「和輝が選んだのが翔子だったのがちょっと意外〜。ホントは私が狙ってたんだよ〜。ま、いいや。翔子だったら〜。悩みがあったらさー、私が聞いてあげるからー。何でも相談してー。ほらー、付き合い出すとさー、男って、チョー自己中だったりするじゃーん?」
  嘘だ。翔子には分かった。この女は隙さえあれば、和輝を自分の物にしようとしてる。この和輝のどこにそんなに魅力があるのだろう。翔子は和輝を見た。洒落っ気のない坊主頭。デカイ図体は盾位にはなりそうだが、あまり敏捷性は期待出来なさそうだ。器量も十人並みで「人の良さそう」が唯一の長所な気がする。
 女は翔子の気持ちを無視したまま、一方的に喋り続けていた。良く見ると、一度だけ友達付き合いした女だった。
「ねーねー、最近冷たかったのはこーゆー訳だったのー?」
 生ったるい声が翔子の鼻の周りにへばりついた。ニヤニヤ顔が目の前をうろつく。逃げ出したい。
 翔子は席を立った。ざわめき続ける教室の空気を抜けて扉を開ける。
「あ。忘れ物」
 踵を返して自分の机の脇に掛けてある鞄を取った。
「これも持ってこ」
 斜め後ろの席に座っていた和輝の腕を取った。

 初めて翔子のやり方で肌を合わせた。翔子の好きな順序、好きな行為、好きな場所。AVの真似事じゃなくって、自分なりのやり方。既製品ではなくオーダーメイド。誰かに習った訳ではない。どこからか聞こえてくる指令や教えみたいな声に従うだけ。
  初めてのやり方は翔子を満足させた。和樹の凸凹に自分の凸凹をこすりつける、ただそれだけなのに、体を動かす度に痺れが体中を移動した。これが私のやり方なんだ。翔子は思った。傷つけられることなく、刺激だけもらって、あっちの世界まで突き進む私の欲望のカタマリ部分。
  演技でない短い吐息が自然に漏れた。翔子は体を動かしたままで和輝を見下ろした。穏やかな顔だ。それは幸せそうな顔にも見えたし、何の感情も持たない人形の顔のようにも見えた。ふと、いつもの自分の姿とダブって見えた。
「なんで・・・」顔にかかった髪を払いながら言った。
「なんで・・・。それでいいの?」
「何が?」
  涼しい顔の和輝が不思議そうに言った。
「これじゃ、あたしがあんたをオモチャがわりにしてるだけじゃん」
「翔子の好きなようにすればいいよ」
  それは今まで待っていた言葉のような気がした。でもとてつもなく悲しい気持ちが襲って来た。気持ちがまた冷めていった。気持ちは冷めていったくせに、馬鹿な体はまだ和輝を求め続けた。木偶の坊の和輝の体を。

  それは青い空の日にやってきた。どこまでもどこまでも青い空が広がっていた。多分、その日朝から吹いていた風が雲を皆どこかに吹き飛ばしてしまったせいだろう。
「未来を予言出来るんだって?」
 翔子の長い黒髪とスカートが風にはためいた。
「誰から聞いたの?」
「みんな、言ってる」
 嘘だ。コバンザメみたいな同級生の女が勝手に翔子に言って来た言葉だった。翔子は今までこういう時に使う「みんな」って言葉を嫌いだと思ってた。誰を指差す訳でもない。謎の不特定多数な言葉。卑怯な言葉。嫌いなのに使ってしまった。一度使ってしまえば、もう自分の言葉になってしまう。流行でしかない洋服を初めて着る時みたいに。
「そっか」
 和輝が静かに言うと、二人の間に風が吹いた。
「『そっか』だけなんだ」
 がっかりした。だけど和輝のどういう答えを期待しているのか、翔子自身にも分からなかった。予言者なんて嘘に決まってる。たまたま何か勘で言い当てただけに違いない。でも・・・。
「和輝の未来は? 自分の未来も見れるんでしょ?」
 本当に聞きたかったのは、多分翔子自身の未来だ。分かっていた。でも本当の言葉は空へと消えた。
「俺の未来? そうだな。見えるよ」
「どんな未来? それは・・・幸せなの」
 翔子は逸る心を抑えながら聞いた。和輝は目を閉じて少し考えた。和輝自身のビジョンを見ていたのかもしれない。
「他の人は何て言うか分からない。だけど、俺にとっては幸せな未来だ。穏やかで、優しい」
  翔子は自分の心に小さな嫉妬の炎が現れたのを感じた。冷静を装って問い返す。
「どんな未来? 教えてよ」
  和輝が微笑む。景色に溶け込みそうな程、穏やかで優しい笑顔。翔子はその時感じた。未来はその人自身が作り出すんだ。和輝は和輝だからこそ、幸せな未来が訪れるんだ。だったら私はどうだろう。卑屈で、無気力で、いつも流されてばかりで――。
「俺の未来はもうそこまでやって来てる。翔子にも見せてあげられるよ」
  和輝の笑顔は大きくて温かい。全ての物を包み込める位。翔子は和輝から離れた。
  ズルイ。ズルイ。ズルイ。ズルイ。ズルイ。ズルイ。ズルイ。ズルイ。和輝のバカ。偽善者。騙されない。私、みんなみたいに騙されない。小さい時からそうだった。私の事、勝手にいろんな物から守って。やっと離れたと思ったのに。またひょっこり私の前に現れて。何なのよ、一体。忘れたいのよ。あんな弱い私なんて要らないのよ。
  想いは口から溢れる事はなかった。行き場の無い感情が翔子を屋上の突端に飛び乗らせた。そこは風が一段と強く吹いてる気がした。翔子は和輝を見た。心配してくれるはずの和輝は翔子を見ても、ただ微笑んでいるだけだった。急に心細くなった。
  その時、突風が吹いた。 翔子の体が揺れた。風に吹き飛ばされる。翔子の体が宙に舞うと、さっきまであんなに強かった風が止んだ。無風――。全ての動きがスローモーション。翔子の目前に広がる大きな青い空。だらしなく天に向かって伸びる自分の手が見えた。
  さようなら。さようなら、私の人生。やっとこれで夢が叶う。何にも残せなかったけど――。
  その時、翔子の腕が掴まれた。凄い力で引き上げられる。その勢いで翔子はそのまま屋上のコンクリートに叩きつけられた。同時に鈍く大きな音がした。
  痛みは無かった。ただ心臓が超スピードで鋼を打っている。不思議だ。あんなに憧れだった死が遠ざかって、ほっとしている自分がいる。
 転んだ拍子に腕を擦りむいたらしい。急にジンジンしてきた。自分がまだ確かに生きている証のようで愛しくなる。寝転んだまま、そっと指で撫ぜた。滲んだ赤い血が指に付いた。
  次にやってきたのは、馬鹿馬鹿しさだった。自分が抱え込んでいたものが今まで以上にちっぽけに思えた。笑えた。腹の底から笑えた。体の芯から笑えた。周りの目を気にせず大声で笑った。
  今なら本心を和輝に伝えられると思った。
「和輝」
  和輝に話しかけた。何故か返事がなかった。周りを見回した。・・・和輝はいなかった。あの時、翔子の腕を掴んで引き上げてくれたのは確かに和輝だ。しかし何度見渡してみても和輝は屋上にいない。翔子は自分がコンクリートに叩きつけられた時に耳に入ってきた音の本当の意味に気付いた。急いで屋上から顔を出し、下を覗き見る。誰かが、倒れてる。
  急いで階段を駆け下りた。足がもつれ、何度も転びそうになった。夢の中で走ってるみたいに、急いでいるのに目的地になかなか辿りつかなかった。もどかしいと思いながらも、このままずっと辿りつかないで欲しい、そうも思った。
  裏庭に辿り着くと、横たわったままの和輝の姿があった。恐る恐る近づいてみる。――息がある!
「和輝っ」
 翔子の呼びかけに和輝はしっかりと目を見開いた。そして得意げな笑顔――。
「見たか? これが俺の未来だ。ちゃんと届いたか」
 和輝がゆっくりと何かを見つめ、指差した。大空を見ているようでもあったし、翔子を指差しているようでもあった。視線が定まってない! 翔子は愕然とした。
「和輝? 和輝?」
 和輝からどんどん血が溢れ出た。翔子は流れ出る血を止めようと和輝の体を探った。血だらけで血の出所が分からない。体中の至る処から血が溢れているように思えた。翔子は自分の手を見つめた。さっき指についた自分の血がもうどれだか分からなくなっていた。

 目が覚めると自分の部屋のベッドの上だった。見慣れた天井がぼやけて映る。夢だったのか。疲れる夢だ。人騒がせな夢だ。翔子の視界に母親の心配そうな顔が飛び込んできた。
「気が付いた? ・・・ゆっくり休んでていいのよ」
  今まで見たこともないような沈痛な面持ちの母親の顔を見て理解した。夢ではなかった事を。まだぼんやりしているのか、何の感情も沸いてこなかった。
「お母さん、いいですか? 一言声を掛けさせてください」
  声のする方に目をやると担任とその後ろに副担任がいた。翔子の母親は不安そうに担任に傍らを譲った。
「その・・・なんだ・・・。おまえもまだ若い。何だって出来るんだ」
  武骨な担任が必死に絞り出した言葉だった。副坦任は翔子をただ見つめるだけで、何も言わなかった
  どうやら翔子は『目の前で彼氏が死んだ可哀相な女子高生』という事になっているらしかった。いろんな人に責められると思っていた翔子は拍子抜けした。人が一人死んでも何も変わらない、そう思った。

 数週間が経った。翔子への憐れみと好奇の視線が徐々に薄れ、みんなの興味が徐々に他へ移っていったある日、廊下の外れの方から翔子を見つめる影があった。副坦任だった。全てを見透かすような視線で翔子に近づいてきた。翔子は背中が冷たくなるのを感じた。
「和輝は・・・」
 久々に和輝の名を聞いた。皆翔子の前では和輝の話を一切しなくなっていたからだ。翔子は固唾を呑んだ。
「和輝は、噂やら伝説やら影みたいに所在があやふやな物になってしまったな」
 確かに皆の間で和輝は今まで以上に特別な存在になったらしかった。死の原因も不明なままだった。翔子はいつ誰に聞かれるかビクついていたが、示し合わせたように誰も何も言わなかった。しかし、ついにこの日が来た。覚悟を決めた翔子に向けられた副担任の言葉は意外な物だった。
「おまえだけだ。和輝が生きた本当の証を残せるのは」

 あいつの事を殺したのは私だ。私が存在しなければ、私と再び出会わなければ和輝は死ななくて済んだんだ。そんな考えが頭を巡らせた時、最初に浮かんだ感情は空虚だった。自責でもなく、驚愕でもなく、哀しみでも怒りでも諦めでもない。ただの空虚――。私には大事な何かが欠落してんだと思った。ただ泣けた。やっぱ私のどこかが壊れてるんだって思う位、涙が出てきた。私の中の水分が無くなっちゃうんじゃないかって心配になる位涙が出てきた。そしてその涙は温かかった。私から出てきたのに。
 私はこれからきっと青い空を見るたび和輝の事を思い出すのだろう。皆が爽やかな気分になる日を一生疎ましく思うのかもしれない。でもそれでいい。一生でもいい。否、一生で無ければならない。私は和輝を忘れてはいけない。私の非力の為に和輝を失った事を背負い続けなければならない。私はそうやって生きて行くのだ。それが和輝が私に託した生き続ける未来なのだから。

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