「町子さん」
呼び止められ振り向くと、中松が立っていた。ウェルカムボードの講習会が終わって、レンタルスペースを出た時だった。
「あ、中松様、お久しぶりです。お元気ですか」
突然で驚いたが、まあまあの挨拶が出来た事に町子は安堵した。クライアントと話す時はフロントトークが大事。「ど〜も〜」なんて間の抜けた挨拶をしなくて良かった。
「あの、今日はちょっと、ご相談があって……」
中松が辺りを見回しながら、言い辛そうに切り出した。町子も釣られて見回してしまう。中松は誰の目を気にしているのだろう。
そういえば、今日は中松が受講しているブーケ講習の日ではない。わざわざ自分を訪ねに来てくれたのだろうか。
「あの、担当は片桐なので、出来れば片桐に……」
首を突っ込みたい気持ちを押さえながら、町子は言った。
「あ、はい。片桐さんにも何度か相談はしてるのですが……」
「……もしかして片桐が何かお気に障る事でもしましたか?」
「あ、いえ、あの、片桐さんはとても良くしてくれています。ただ……」
中松が辺りを不安そうに見回した。
「……ではどこか落ち着いて話しましょうか」
町子の提案に中松の顔がパーっと明るくなった。素直な人だ。中松は気付いているのだろうか。自分の笑顔の魅力に。人の心を溶かすような笑顔。私はこんな素敵な笑顔は出来ない。私はきっと営業スマイルがすっかり板についてしまっている。わざとらしい笑顔はこびりついて、もう取れないだろう。
哀れだな。と、もう一人の自分が呟いた。
町子と中松は近くの喫茶店に入った。回りをざっと見回したが、見知った人はいなかった。
「再度お尋ねしますが、片桐に何か至らない点がありましたでしょうか。もしあったら私の責任です。お詫びします」
ウェートレスがテーブルを離れるのを待って、話を切り出した。中松は顔を上げてにっこり笑いながら頭を横に振った。
「いえいえ、片桐さんには本当に良くしてもらってます。……そりゃ、町子さんに比べたら、頼りない所はあるけれど、若いのに、しっかりしてる所もあって」
「そうですか」
安堵の笑顔を見せた。が、反面、心の中にがっかりしている自分がいる事に気付いた。自分は片桐の失敗を望んでいる。「やっぱり町子じゃないと」という周りの反応を欲しがってる。愕然とした。自分自身の汚れた面を見せつけられたようで、気持ちが沈んだ。
「ただ……」
「ただ?」
「一点だけ、私の考えを理解してもらえない事があって……片桐さんのおっしゃる意味も分かるんですけど、何か他に良い方法はないかなと思いまして……」
町子は中松の次の言葉を促すように頷いた。中松は少しためらうような素振りを見せた後、決心して切り出した。
「実は、私、背中に大きな赤いアザがあって……。背中の開いたドレスは候補に挙がってなかったんです。私自身もアザをわざわざ晒す事はないかなと思って、大して気にも留めてなかったんですが……」
町子はアイスコーヒーを掻き回す手を止めた。きちんと中松の話に向き合いたかった。
「最近、本当にごく最近、皆にこのアザを見てもらいたくなったんです。このアザ……生まれた時からあるんで、ずっと私と一緒に過ごしてきたんです。凄く大きなアザなんで、思春期の時は嫌だったし、これのせいで恋人を作らないようにしていた時期もありました」
中松が唇の端をキュッと上げ、窓の外を眺めた。街路樹の緑に夏の光がキラキラと反射している。
「あの人は、そんな私も受け入れてくれたんです。アザなんかちっとも気にしてないって言ってくれたんです。そんなアザだからこそ、皆に見てもらいたい」
気持ちが温かくなった。私は話す事だけで人を幸せな気持ちにする事が出来るだろうか。
「その……うちの片桐は何て?」
中松の顔が翳る。
「気持ちは分かっていただけました。ただ、結婚式は自分達の意見に賛同してくれる人達ばかりではない、私のアザを見て、不快に思う人もいるかもしれない、そんな時、一番傷付くのは私だと。……確かにそうです。皆見て驚くと思うし」
どんなアザなんだろう。少し興味が沸いた。でも言い出せなかった。
「……見てみます?」
中松から言ってくれた。気持ちが楽になる。
「……いいんですか?」
中松が上着代わりに羽織っていた薄い素材の白い木綿のシャツをゆっくり脱ぐと、黒いキャミソールが現れる。後ろを向き、セミロングの髪の毛を持ち上げる。
赤い、アザ。燃え上がるように赤い。中松の白い腕の滑らかな肌からは想像出来ないようなざらついた跡。うなじから肩、背中にかけてのほとんどの部分が痛々しい赤で覆われている。ただ、体の中心部分、左右の肩甲骨の間だけが白い肌が覗いている。
「……これが、子供の時から?」
「そうなんです。何だか火傷の跡みたいでしょ? でも生まれた時からあるんです。人って、首の後ろの辺りに赤いアザがある事は珍しくないらしいんです。大体は髪の毛で隠れるから分からない事が多いらしいんですけど。『コウノトリの噛み跡』って言うんですって。お医者さんは、それの大きいタイプじゃないかって」
中松がにこやかに笑う。空気が優しく溶ける。
「私を運んできたコウノトリはきっと新米だったのね。一杯噛み直しちゃったから、こんなに跡が付いちゃったんだわ」
釣られて笑顔になる。中松だったら、アザがあろうが、無かろうが、素敵な人がきっと沢山現れる。中松の笑顔はまるで……。町子の中に何かがひらめく。
「背中……出しましょう」
「え?」
「思いっきり」
「思いっきり?」
戸惑いながらも、中松の顔から曇りが消える。
「ウェディング用のボディアートをするアーティストがいるんです。花嫁の腕や胸や背中に花やハートなどのモチーフをペインティングするんです。中松様の背中に施してもらいましょう。背中に大きな羽を描くんです」
赤い、天使の羽を。
中松の笑顔が自分の事のように嬉しかった。全て上手く行くと思ってた。
人の心って単純だ。あんなに重苦しかった世界が、ほんの数分でガラリと変わって見える。青い空が眩しい。白い雲のほっこりとしたフォルムが愛しい。風が優しい。夏、青くて刹那的な季節。力強くて、若くて、激しくて、その場にいると辟易するのに、終わってしまうと恋しく思う季節。
「夏だな」
なんて呟きながら手を翳して太陽見てみたり。嗚呼単純。すっかり浮かれモード。
中松へ良いアドバイスが出来た事が嬉しいのか、中松の笑顔に元気をもらったせいなのか、町子は久々に高揚していた。
「どう? 愛しのあの子の事、少しは思い出した?」
ユーレイへのそんなセリフも自然に出た。言葉にしてしまったら、少しは動揺するかとも思ったが、意外に平気だった。平気な自分を感じて安心した。自分はやはりユーレイに特別な感情を抱いている訳ではない。弱っていた時だったから、少しすがりたくなっただけだ。元の強い自分、仕事が出来て生き生きしている自分に戻れさえすれば明るく生きられるのだ。ユーレイにだって優しく出来る。
「そういえば、昨日、あなた、うなされてる時、何か叫んでたわよ。人の名前みたいだったけど」
ユーレイがソファーからガバッと飛び起き、町子の目前で急ブレーキ。
「何て呼んでた?」
町子は昨日の記憶を辿る。ユーレイははっきり名前を叫んでいた。自分の名前ではなかった。胸に針が刺さった。名前は――
「……ごめん。昨日は覚えてたと思うんだけど、今は思い出せない……」
私の記憶、またどっかに行っちゃった。
「そうか」
ユーレイが物凄くがっかりした顔をして、ゆらゆらとソファーへ戻っていった。ユーレイの沈んだ気持ちが伝染しそうで怖かった。
「私も探すの協力するから、そんな顔しないで」
ユーレイが力なく頷いた。
「探すって決まったからには、どういう人か聞いておかないとね。全くの手がかりゼロでは動けないもの」
町子の提案にユーレイが目を細くしながら答えた。
「そうだなぁ。……素直で、可愛くって、きりっとしてて、ああ、いい女だったなぁー」
なんだ。少しは覚えてるんじゃない。
「そんな抽象的なんじゃ探せないわよ。もっと具体的な特徴ないの? 丸顔とか、細身とか、ホクロがあるとか」
「うーむ。はて、思い出せねぇーな。なんてったって何百年も前の話だから」
ユーレイが腕組みした。町子は少しホッとする。いつものユーレイに戻りつつある事に。
「何百年も成仏出来ない位、惚れてた女じゃないの?」
少しイジワルな質問をしてみた。
「うーむ。見れば絶対分かるけどな」
ユーレイは根拠の無い事を自信満々な顔で答えた。
「全く覚えてないのにどうやって分かるのよ」
「そん時ゃ、ピーンと来るのさ。ピーンとな」
ユーレイが片眉を吊り上げて言った。
「まるで雲を掴むようだわ」
町子が溜息を吐いた。
一億人の中から見つけるなんて、歌詞になる位大変な事なのに。日本人として生まれてきてるかも分からないし、年も分からないし、今、生まれているかどうかも分からない。見れば分かるって言ったって……。
町子はもう一度大きく息を吐いた。真っ暗なテレビのモニター画面に所在無い自分の姿が映る。
「無理だとは思うけど」
自分が今言おうとしているのは何万分、何億分の1の確率なのだろうか。
「この中から探せば?」
木製のキャビネットのガラス扉を開け、しばらく使っていなかったリモコンを取り出し、テレビの電源をつけた。
「では、いってきまーす」
壁のホワイトボードの町子の欄に『ウェルカムボード研修inサンシティビル7F』と走り書きをして職場を出た。エレベーターのボタンを押す。
自分自身でも弾んでいるのが分かる。何もかもが巧く行きそうな気がする。ユーレイはあれから毎日テレビばかり見て、愛しのあの子探しに夢中だ。見つかりっこないとは思うけど、勘違いでも何でもいいから似た人見つけて出て行ってくれれば儲けもの。見つからなかったとしても、周りでうろちょろ飛び回られるより、じっと大人しくテレビ画面に噛り付いててくれた方がマシだ。
町子はそう考えながら満足げに頷いてみた。
「……やだ、伝線」
町子はフロア内のトイレに駆け込んだ。
この仕事をするようになってから荷物が増えた。本番中何が起こってもいいように色々なモノを持ち歩く癖が、プライベートでも身についてしまっている。
町子は大きなボストンバックのファスナーを開けた。絆創膏、ペンライト、ソーイングセット、セロテープ、ガムテープ、ビニールテープ、筆ペン、乾電池、ストッキング白・黒……町子はストッキングの束の中からナチュラルカラーを取り出した。
「町子さんは?」
「講習行ったでしょ」
トイレに誰か入って来た。片桐と片桐の同期の笹原だ。声ですぐ分かった。茶目っけ出して「私はここよー」と叫んでみようか。
「あー、うぜぇ」
「どうしたの?」
声を掛けるタイミングを失ってしまった。片桐の声のトーンが町子が普段聞いている時と別物だったから。
同期の前だとやっぱり違うのかな。と心の中で呟いてみたが、不穏な予感は払拭出来なかった。
「あの人、なんかムカつく」
「え? 誰の事?」
一瞬沈黙があった。
「町子さん」
片桐は確かにそう言った。
「話してて疲れる。一所懸命過ぎる。何だか必死な感じ? 無理してこっちに話し合わせようとしてるのがバレバレなんだもん。ま、こっちも話し合わせてるけどさ。気を使われてる感じがさ、逆に辛い。重い感じ? 本人がそれに気付いてないのがイタイよ」
「どうしたの? あんなに仲良かったじゃない。私、片桐は町子さんに懐いてたと思ってたよ」
「一番の実力者だもの。そりゃ、仲良くするわよ」
「……何かあったの?」
また少しの沈黙の時間があった。
「……中松さんに入れ知恵したの、絶対あの人よ。中松さんがボディアートの事、知ってると思えないもの。あの人、調子の良い事ばかり言っちゃって、本心では私の事馬鹿にしてるのよ。私に仕事任せる時、凄く不安そうだったもの。だったらずっと現場にいればいいじゃない。私に任せるのが嫌だったら、自分で全部回せばいいのよ」
再びの沈黙の後、扉の向こうから、片桐の洟を啜る音が聞こえて来た。
誤解よと言う事が出来なかった。言えば嘘になる。片桐より優れていると思われたいという気持ちがあるのは事実だ。自分はそんな人間だ。そんな自分の浅はかでちっぽけなプライドがしゃしゃり出てしまったせいで、片桐を傷付けてしまった。
本当は中松に相談を受けた事をまず片桐に言うべきだった。その後、どうするかは片桐に決めさせるべきだった。これは自分のミスだ。
部屋に帰ると、ユーレイは背中を向けてテレビ画面に見入っていた。町子が帰って来た事にも気付いていないらしい。
町子は何も言わず、ブルールームへ向かった。
ストッキングも脱がずにそのままバスルームに入る。バスタブにお湯を勢いよく出す。バスタブの縁に頬杖付いてじっと眺める。
「誰とでも上手くやっていきたい、なんて、無理ですか」
呟くと涙が出て来た。いい年なのに泣くなんて馬鹿みたい。子供の頃は大人は泣かないと思ってた。大人になったって本当は泣きたい。大人になると泣ける場所が減るから泣けないだけ。ただそれだけ。
アンドロイドは自分が思うより強くありませんでした。本当はアンドロイドじゃない。金メッキされてるだけの弱い弱い心臓。ふ菓子みたいにもろい。傷付くのが怖いから、本当はもろいのを知っているから、言葉で武装するのです。本当はアンドロイドじゃない。何てこと無い付け焼き刃。本当はきっとあの子みたいになりたいのに。
町子は服を着たままバスルームで寝てしまった。夢で見たのは記憶の遠い部分に追いやられている高校時代の日々だった。
心の中のモヤモヤがどんどん大きくなっていく。今は丁度ハンドボール位の大きさ。モヤモヤがどんどん大きくなって、自分の体に収まり切れなくなった時、私は一体どうなっちゃうんだろう。他の人はモヤモヤをどう扱っているんだろう。
どうしたらいいか分からないんだ。
終電後のホームに一人取り残された、
長い長いホームのあっちからこっちまで自分一人、
誰もいない世界に放りこまれた、
ただ駅名を照らす照明だけが機械的に光っている、
私は、今、
ドコニイルノダロウ。
「そんなに一日テレビばっかり見てたら目悪くなるわよ」
気付くと家のリビングにいて、いつものようにユーレイに小言を言っていた。
言葉は口に出すと現実になる。頭の中にあるままでは、誰にも気付いてもらえない。誰かが自分の言葉を聞いてくれれば、それはその人との共通の記憶になる。ユーレイと話す事でしか、自分が存在してると確認出来ないなんて、皮肉なものだ、と町子は思った。
しかし、ユーレイは一心不乱に画面を見続けていて町子の存在に気付いていないようだった。ユーレイの視線が高速で次から次へと人の顔を捉え続けている。町子は不安を払い除ける為に次の言葉を続けた。
「テレビなんかより、実際に外へ出て探した方が確実なのに」
ユーレイがゆっくりと町子の方に振り返った。テレビ画面もユーレイの動きに合わせてゆっくりとしたスピードになり、やがて静止画になった。町子は自分の目を疑った。
「それがそうもいかねぇんだな」
「何で? 人見知りだから?」
町子は驚きを隠しつつ、少しおちゃらけて聞いた。
「出れねぇのよ。何度も出ようと思ったのよ。しっかし、これが出れねぇんだな」
以前のような明るい口調だったが、頬は痩せこけ、目が窪んでいた。
「何で出れないの?」
ユーレイの闇に取り込まれそうな危機感を感じながらも、町子は尋ねた。
「分からねぇ」
ユーレイが首を振る。
「何かが邪魔してるような気ィもするし、ただ怯えて足がすくんじまってるだけかもしんねぇ」
町子が何も言わないでいると、ユーレイはまたゆっくり画面に目を移した。ユーレイが向き直ると同時に静止画面が2倍速のスピードで動き出した。
行き場が無く彷徨う精神をこの世に繋ぎ止めておく為には、やはり現実の出来事しかない。自分の中で悩んだり、頑張ったり、持ち上げてみたりしても何の解決にもならない。数十時間の葛藤より、たった一言が繋ぎ止めるホッチキスの針となる。
「……と言う訳で、中松様たっての希望でまた町子君に担当に戻ってもらう事にしたから。了承してくれるね? いつも急で申し訳ない。私も前回の異動の後、少し反省をしていたんだ。あまりにも突然過ぎたなと。町子君の気持ちも考えず、教育係に任命してしまった。今後も町子君に社員の教育を任せたい気持ちは変わらないが、その前に、気持ちの整理の為にも最後の式、立派に務め上げてくれ。まあ、最後とは言っても、町子君に現場を指揮してもらう事は今後もあるかと思うが、これからは――」
何も言えなかった。ボスの言葉はいつも唐突で、いつも反論の余地が無かった。
ボスの言葉は斜め前の席の片桐にも当然届いているだろう。もちろん片桐はこの話を知っていたはずだ。……もしかしたら片桐の希望かもしれない。
席に戻る時、片桐と目が合った。町子は目が合うまでにずっと探していた言葉を口にした。
「片桐……色々教えてね」
片桐の目が一瞬大きくなった。その後、頬を紅潮させて言った片桐の言葉はこうだった。
「町子さんに教える事なんて何一つありません。私が教えられる事なんてある訳ないでしょう?」
片桐は言い足りないようだったが、隣の席の笹原に肘をつつかれた後、黙ってしまった。心臓がギシギシ鳴った。
目が冴えて眠れない。ベッドに起き上がり、薄暗い部屋の一点を凝視した。
ユーレイがあんな事言うからだ――
「お町ちゃん、ちょいとお町ちゃん」
珍しく明るい口調のユーレイが話しかけてきた。明るいのはいいが、まだ夜は明け切ってない。
「何よ、こんな時間に……ちゃんと寝かせてよ」
町子はユーレイの顔をチラリとも見ずに言った。
「また見たんだ、夢を。おいら、あの子の名前を呼んでたんだ。起きてもちゃんと名前覚えてんだ。探しておくれよ」
「ああ、はいはい。何て名前なの?」
「お綾」
「ああ、はいはい。お綾さんね、分かったわ」
「本当に分かってんのかい?」
「分かったわよ。お綾さんでしょ?」
「きっと背中に大きな火傷の跡があるはずだ。おいらが守ったんだけど、かばいきれなかった」
「ああ、はいはい、分かりました。おやすみ」
ユーレイが部屋から抜け出ると、明け方の静寂に戻った。寝れない。あんなに眠りたかったはずなのに、目が、冴えてしまった。
火傷の跡……お綾……中松綾子……。
まさかね。
首筋から胸元にかけて大きな汗の雫が滑り落ちた。乱れ髪が頬に貼りついている。荒い息が口から漏れている。はだけた胸元が激しく上下する。眉間には苦しそうな皺が刻まれ、ぎゅっと閉じられた瞼の皺と繋がっている。熱気を帯びた頬が紅潮している。
そんなユーレイを見ても何も出来ない自分が頼りなげで弱った。ただ傍らで立ちすくんだ。近付く事も、そこから立ち去る事も出来なかった。手に持っている鞄を下ろす事すら出来ない。どこからかやってきた磁力がこの漂うような距離を保っている。クッツキソウナノニハナレバナレナワタシタチ――
磁力を少し解いて、窓の外を見ると、薄いカーテンの隙間からは夏の夜入りの明かりが入り込んでいた。赤でも無く、青でも無い、どっちつかずの色。どっちつかずは町子を焦燥させた。
再び見たユーレイの衣は裏返しで、夢で愛しい人に会えるという俗説をなぞったらしい。町子の中で様々な思いがうねり出す。嘲笑、懸念、羨望、嫉妬。……嫉妬?
その時、ユーレイから断末魔の叫び声が弾け出し、町子を飛び上がらせた。
磁力が断ち切れ、町子はニ、三歩後ずさった。虚ろなユーレイの眼差しが町子を捉え、ほんの少し正気を取り戻す。町子には掛ける言葉が見つからない。ユーレイは何も話し掛けて来ない。
不安、畏怖、怨恨。町子の心の中で渦巻く感情の色は一層複雑になる。立っているのも辛い位なのに、ユーレイから目を逸らす事が出来ない。ユーレイも何も言わず、荒い息のまま町子を見る。ユーレイの額から大粒の汗がダラダラ落ちる。町子は思わずスカートのポケットからハンカチを取り出すが、ハッとしてクローゼットに向かった。
棚からバスタオルを取り出すと、慌てて戻る。バスタオルをユーレイの額に近付けると、ユーレイがゆっくり瞼を閉じた。
町子は唇を噛み締めた。そして、バスタオルをユーレイの膝元に落とす。
「はい、凄い汗かいてるよ」
ようやく言葉が口から出せて、少しホッとする。ユーレイは何も言わずにゆっくりと瞼を開け、バスタオルを手にした。ユーレイがソファーから立ち上がると、目前にはだけた胸元が近付いて、町子は少し仰け反った。
汗の匂い……しないんだ。
ユーレイは窓際に立ち、暮れ行く明かりを眺めた。カーテンのレースの隙間から漏れ出す明かりは、青色が少しずつ強調されて来ている。
「夢、見るの辛いんじゃないの? いつも凄いうなされてるよ」
言葉を紡げば紡ぐ程、日常に戻っていく。もっと気の利いた面白い事を言おう。二人が笑い転げちゃって話も出来ない位の。
「ああ、辛いさ。自分がおっ死んだ時のあの熱さ、あの痛さ、あの苦しさを毎回味わうんだからな。だからきっと今まで避けてきたんだ。思い出さねぇようにしてきたんだ。だけどよ、あの子に会えるのは夢の中だけだからよ。……最後にあの子を後ろから抱き締めたんだ。あの感触、まだしっかりと覚えている」
ユーレイの背中が静かに話す。町子は話が見つからなくて焦り続ける。
ユーレイはバスタオルを首に掛けると、やにわに着物をはだけさせた。
背中が逆光の中、浮かび上がる。息が止まった。目を逸らせたいのに、逸らす事が出来ない。何かが溢れ出しそうになるのを必死に堪えた。
ユーレイの背中に大きな赤い疵が居座っていた。以前にも見た事がある疵。彼女とお揃いのケロイド。赤い、赤い、燃えるような生々しい疵。きっと彼女のアザとパズルのように合致するだろう。
「酷い疵だろう? でもこいつがおいらがあの子を最後まで守ったっていう証拠なんだ。おいらとあの子が繋がってる印なんだ。きっとあの子にもこの疵があると思ってる。お町ちゃんもそう思うだろ?」
誰か、私に、言葉を、下さい。
キャンドルの上で燃えさかる灼熱の炎は憧憬の赤い色。情熱の色。何百年経っても同じ人を思い続ける執着の色。
町子は無意識の内に白い腕を炎に翳していた。
「熱っ」
遠くから見ていた片桐が走り寄ってきた。
「町子さんっ。何してるんですか」
その声で町子は現世に引き戻された。
「あ、ああ、うん」
腕がじりじりしていた。
「早く冷やさないと」
片桐はそう言って、町子を洗面所に引っ張っていった。
片桐も私と同じだ。自分で望まなくても、人に優しくしてしまうのだ。そういう体質になってしまっているのだろう。立派な職業病だ。町子はそんな片桐を頼もしく思った。
「ごめんね。ありがとう」
そう声を掛けると、片桐は不服そうな顔をした。
「いけない。私、町子さん嫌いだったの忘れてた。優しくしちゃうなんて……職業病だ」
町子はクスッと笑った。
「うん、私もそう思ってたとこ」
片桐は水道の蛇口を捻る。水が勢い良く飛び出し、ピンク色に染まった町子の腕を優しく冷やす。
「嘘です」
片桐が水音に消されそうな位小さな声で呟いた。
「え?」
町子が聞き返すと、また不服そうな顔をした。
「嫌いって嘘です」
「……ああ、別にいいよ。嫌いでも」
片桐はさらに不服そうな顔をした。
「嫉妬してたんです、多分。誰にでも優しくって、仕事も出来て、アイディア豊富な町子さんが羨ましかったんです」
「そんな事ないよ」
口を挟むと、片桐が睨んで来た。
「最後までちゃんと聞いてください。勇気を出して言ってるんだから」
町子は素直に頷いた。
「中松さんのアザの事、凄く悩んでたんです。町子さんに相談しようかどうしようかずっと考えてて。でも、せっかく一人立ちさせてもらったんだから、出来る限りの事は自分でやらなきゃって思ってたんです。でも何も浮かばなくって。どうしたらいいか分かんなくって。中松さんに会うのも怖くなってたんです。そしたら、中松さんが急にボディアートの話をしてきて……。あれ、考えたの町子さんでしょ?」
町子は首をすくめた。
「私がずっと悩んでた事を一瞬で解決しちゃうなんて、凄く悔しくて腹立たしくて。笹原に怒りぶちまけちゃったりしたんですけど……、本当は凄くホッとしたんです。ああ、これで中松様の満足行く式に出来るって」
片桐は自分を納得させるように少し頷いた。
「んでも、何か足りない気がして……。中松様に一番満足してもらうには、町子さんにやっぱり担当してもらった方がいいんじゃないかって、そう思ったんです」
片桐が水道の水を止めて、ポケットから出したハンカチで町子の腕を軽く叩くようにして拭いた。
「町子さんが現場に戻りたいって思ってる事、多分一番分かってるのは私だし」
片桐が咳払いをする。
「私の話は以上です。……何か反論は?」
片桐が町子の顔を覗き込んだ。
「いえ、ありません」
胸が詰まって、それ以上の言葉が出なかった。
「それじゃあ、私からもう一つ」
「ええっ? まだ何かあるの?」
また片桐が町子を軽く睨んだ。町子は思わず顔を背けた。
「何、自分の手焼いてるんですか? 本番だったら大事ですよ。今は私だけだったからすぐ対応出来たけど」
「ああ、うん。ごめん」
「ごめんじゃなくって、理由が知りたいんです」
町子は記憶の紐を手繰り寄せた。紐には残骸が少しへばりついてるだけだった。
「なんでだろ。良く覚えてないのよね。ただ……」
「ただ?」
「私にもケロイド出来ないかなぁと思って」
片桐の額にこれでもかという位の無数の皺が寄った。
「中松さんとお揃いのですか?」
ドキンとした。
「もー、仕事熱心なのも度が過ぎますよ。そんなケロイド作ったって、中松さんの気持ちは到底分からないし、式が終われば、中松さんはもうクライアントじゃなくなるんです。
この仕事は、一人のお客様に対して一回しかありえないんです。……そりゃ、何回も結婚してくれれば、また仕事もらえるかもしれないけど。そんな事願っちゃいけないって、町子さんが一番良く分かってるでしょう?」
頼もしくなった片桐は、町子にとって、今後、頭が上がらない存在になりそうだ。
「……はい、仰る通りでございます」
自分の腕を見た。あんなに熱かったのに、もう元の肌の色に戻ろうとしている。あんなに小さい火で、あんなに一瞬でもあんなに熱かったのに。ユーレイはどれだけ痛い思いをしたのだろう。
「最後にもう一つ」
町子が「え?」という顔をする前に、片桐が厳しい眼差しを向けてきた。
「町子さん、我慢し過ぎです。もっとラクにしてて下さい。私達……頼りないかもしれないけど、じゃんじゃん頼ってください。悩みがあったら言ってください。……力になれない可能性大だけど」
町子は微笑んだ。
「頼りなくないよ、凄くね、頼もしい」
久々に心からの笑顔になれた気がした。
「町子さん」
帰り際、ホテルのロビーで片桐に呼び止められた。
「何? まだ何かあるの?」
おどけて聞いてみた。二人の空気は以前の心地よさに戻っていて、町子は満たされた気持ちでいた。片桐は町子のセリフに少し口を尖らせてみたが、すぐ直って言った。
「これ、渡すの忘れてました。中松さんの衣装合わせの時のビデオです。社で渡そうと思ってたんだけど、今でも良いですか? 私これから、クライアントに会う予定があるんで。荷物になっちゃいます?」
「ううん、ビデオ一本位どうって事……」
直帰の町子が凍りついた。
「あれ? どっか寄って帰ったりします?」
「え? ああ、ううん。真っ直ぐ帰る。……持って帰って明日社に持って行くね」
「お願いします」
明るい片桐の声が突き刺さった。
電車の中、ビデオ型の爆弾は町子の鞄の中でカタコトと揺れた。揺れる度に心臓がビクつく。
「ビデオ持ってる事、黙っておけばいいじゃない」
町子Aが言う。
「何で黙っておく必要があるの? 出て行って欲しいんじゃないの? ユーレイが言ってる『あの子』はきっと中松さんよ。見れば分かるって言ってたじゃない。見せればいいのよ。きっと、ユーレイすぐに出て行くわ」
町子Bが言った。
「でも……」
煮え切らない態度の町子Aに町子Bが怒り出す。
「何躊躇してるのよ。出て行って欲しいんじゃないの? それとも出て行って欲しくないって思ってるんじゃないでしょうねぇ?」
「そんな事ない。出て行って欲しい」
「そうでしょ? じゃあ、見せましょう」
ビデオ爆弾がユーレイの手に委ねられた。ユーレイが息を呑む。興奮を抑えられないユーレイの横顔を町子はぼんやりと眺めた。
渡してしまえば意外と平気なものだ。町子は安心した。やっぱり自分はユーレイに特別な感情は抱いていない。きっと、ちょっぴり執着しちゃってただけだ。その眼差しが自分に向けられていないと分かって、軽い嫉妬をしちゃってただけだ。
モニターの明かりにユーレイの顔が照らされている。
画面には幸せそうな中松の姿が映し出されている。ユーレイは何も言わない。
中松のドレスは結局既成のシンプルな物をレンタルする事に決まっていた。肩に羽織るショールとブーケだけは中松がレース編みで作る事になっている。これは作りかけのショールに似合うドレスを探している模様を撮影した映像だ。多忙な新郎に見せる為の。撮影者は片桐で、時々「似合う」とか「さっきの方が素敵」とかの声が入っている。
少しふざけた様子で中松がくるくる回ると、赤いアザがチラチラと見えた。ユーレイは何も言わない。
だが、町子は確信していた。
「これであなたが私の家に来た理由が分かったわ。私の所に来なかったらいつまで経っても中松さんに辿り着けなかったものね」
ユーレイは何も言わない。
「これから……どうするの?」
ユーレイはゆっくり口を開いた。
「……幸せそうだな」
ユーレイの思いがけなく弱気な口調に町子は戸惑う。
「え? ……ええ」
「結婚するのか?」
胸が締め付けられる。
「え? ああ、うん」
その後、ユーレイの背中は何も語らない。
「どうする? 奪っちゃう?」
冗談めかして言ってみたが、内心は気が気でなかった。本当にユーレイが中松を奪うと言ったらどうするつもりなのだ。
ユーレイが矢庭に立ち上がった。町子は息を呑んだ。
「相手の男、おいらに似てるかい?」
中松さんが結婚する相手は誠実を形にしたような人だ。どこまでもどこまでも守っていってくれそうな人だ。面白い会話やドキドキするような思いは期待出来ないだろうけど、中松さんはきっと幸せな結婚生活を送るだろう。
「あまり、似てないわ」
どちらかと言うと正反対。
ユーレイは軽く町子を見やると、乱暴にソファーに座った。
「やっぱりな。……つまり、なんだ、きっとそういう事だ。あいつはもう、おいらの事はとうの昔に忘れてんのよ。どうでもいいって寸法だ」
哀れだ。
「そんな事、ないよ」
虚しい言葉が頼りなく部屋の中を漂った。ユーレイが冷笑した。
ユーレイの笑いは段々乾いていき、静寂の闇を呼ぶ。
町子は嫌な予感に晒されていた。このまま不均衡な時間が続く方がずっと良い。お願いだから、何も言わないでいて。何も行動を起こさないでいて。
ユーレイがおもむろに口を開く。
「会えば成仏出来っかな」
叫びたい。叫びたい。叫びたい。
叫ぶ言葉が見つからない。
ユーレイは町子の目を覗き込んだ。ユーレイの目に自分の姿が映っている。
止めるなら今だ。分かっている。でも何か大きな物がつっかえ棒になっていて、町子の言葉を邪魔している。
ユーレイは意を決したように部屋から出て行った。あんなに出て行ってくれなかったこの部屋を。
町子はしゃがみ込んだ。夏の蒸し暑さが一気にやってきた。出て行ってもらいたくなかった。そう思った直後につっかえ棒が外れた。
「だって、中松様に何かあったら大変じゃない。もしこれで破談にでもなったりしたら」
部屋に町子の声が空しく響いた。返事は返ってこなかった。自分の心が分からなかった。
昨晩、ユーレイは帰って来なかった。中松の所に行ったのだろうか。中松には会えたのだろうか。成仏、出来たのだろうか。青い空を見上げながら思った。
B4茶封筒を持ち直す。そういえば、あの頃は良く空を見上げていたっけ。ここに来れば当時の事を思い出して、こそばゆい気持ちになってしまうのかと思ったが、杞憂だった。
新しいビルやマンションが建ったり、道路が拡張されてたりして、通学していた頃の面影はほとんど残っていなかった。ただ、空の色だけは毎日毎時間違うはずなのに、あの頃のままな気がした。空を見上げた時の首の角度が一緒なせいかもしれない。見上げるとあの頃の自分とリンクするような気がして、少し面映かった。
空には湯気みたいな雲がさらさらと流れていた。
ユーレイなんて、元々湯気のような存在だ。最初はいない事に慣れなかったり、どうしているかと気になるかもしれないが、その内薄れゆくだろう。新しい環境や出会いにどんどん上書きされてしまうだろう。
思い出や記憶と同じだ。「ずっと」なんて「永遠」なんて妄想だ。
「中松さん、永遠の愛ってあると思いますか?」
尋ねてから町子はハッとした。
「あっ、私、これから結婚する人に何聞いてるんだろう」
中松の側にユーレイの姿は無かった。やはり、会えた事でもう成仏したのだろうか。緊張と不安を抱えて中松との打ち合わせに望んだが、何だか拍子抜けしてしまった。肩の力が抜けた途端、憐れみが持ち上がってきた。何百年も思い続けたユーレイの情念が報われないと思った。これから間違いなく幸せになる中松を疎ましく思ってしまった。中松に何の罪も無いのに。
町子の心の中が分からない中松は一瞬キョトンとしたが、すぐに柔らかく笑った。
「町子さんは永遠の愛なんてある訳ないって思ってるんですね」
「あ、いえ、そんな」
町子は慌てて打ち消した。
「私はあると思うんです」
中松が遠くを見つめる。強い眼差し。ホテルの大きな窓からは、中庭に造られた小さな森が一望出来る。深い緑の木々、花々、清々しい滝……。これらに見守られて、中松は式を挙げるのだ。きっと良い式になる。天気にも恵まれるだろう。町子は眩しさに目を細めた。
「私……あ、これから変な事言うかもしれませんけど、いいですか?」
「あ、はい」
町子は頷いた。
「私、ずっと、小さな時から、何かに守られてるって感じが凄いしてて。最初は両親なのかなぁって思ってたんですけど、なんか違うんですよね。なんか、こうもっと遠くから見守られてるような気がしてて。……あ、変ですよね、ごめんなさい」
「あ、いいえ、分かります」
思わず強く賛同してしまった。
「きっと、本当に中松さんの事を見守っているんだと思います」
町子の言葉に中松が穏やかな笑みを見せた。そして、信念を込めて頷く。
「あの人に会って……あ、この人だ。見守ってくれてたのはこの人だって分かったんです」
心臓が苦しい。爪を指でなぞった。中松が照れ笑いを浮かべる。
「ただのノロケですね。すみません」
心臓が縮む。きっとユーレイの気持ちとリンクしてしまっているのだ。ユーレイの辛そうな姿をいつも見てたから伝染しちゃってるのだ。苦しい。ユーレイはもっと辛かっただろう。こんな気持ちにさせるんだったら、あの日、無理矢理にでも引き止めれば良かった。
町子の気持ちが翳るのと同時に窓の外の夏の日差しが少し弱まった。夕暮れのような薄いオレンジになる。
町子はそれに気付き、ハッと息を呑んだ。
ユーレイが無表情のまま、中松の背後に立っていた。中松は気付いていない。ユーレイは町子の部屋にいるより、大分輪郭が薄くなっていた。
町子はユーレイに「何をするつもり?」と目で訴えた。ユーレイは口に人差し指を持って行き、町子に「静かに」と合図した。
ユーレイは中松さんを後ろからそっと抱き締めた。触れたら通り抜けてしまいそうなその哀しい体で。町子にはきちんと抱き締めているように見えた。中松はとても安らかな顔をした。何かに守られているような穏やかな表情。
穏やかな中松の顔を見届けると、ユーレイの輪郭は尚一層薄まった。町子は思わず声を上げた。
「ごめん。あのままでいさせてあげれば良かったのに」
そしたらそのまま成仏出来たかもしれないのに。
「いいさ、もう十分さ。思い残す事はない」
ユーレイはとても穏やかな表情をしていた。蠢いている自分の感情とあまりにも対照的で、心の底から憎く思った。
ユーレイと町子は町子の部屋に戻っていた。ユーレイはいつものソファーに同じように腰掛けていた。以前と変わらない風景だった。ユーレイの体を透かしてソファーの背もたれが見える事を除いては。
「あの子は大丈夫だ。おいらがいなくってもちゃんと守ってくれる人がいる」
言葉とは裏腹にユーレイの表情は曇った。
「隠しても分かるよ」
伝わっちゃうんだ。
「職業病なの。その人が本心で言ってるかどうか分かるんだ」
痛い気持ち程、満足してない気持ち程、凄く良く伝わるんだ。
ユーレイは覚悟を決めたようにゆっくりと頷いた。
「あの子の疵を見たんだ。それだけはどうしても見届けたくってな。あの疵。あの赤い疵。おいらが守り切れなかった疵だ。あの子にあんな疵を背負わせる事になっちまったなんて」
町子はゆっくりとソファーに近付いた。
「なんてぇ、おいらはこんなにも無力なんだ」
ソファーの傍らにひざまずく。
「何であの時、あの燃えさかる炎からあの子を助けられなかったんだ。何でこの手であの子を幸せにする事が出来ねぇんだ」
町子は恐る恐るユーレイに手を伸ばした。髪をそっと撫ぜる。ユーレイが少しだけ穏やかな表情になる。もう少し早くこうしてあげれば良かった。いつも、隙間を埋める為の言葉ばかりを探していた。
「心音を聞かせてくれ」
ユーレイが近付いてくる。町子は躊躇しながらも、ユーレイのしたいようにさせた。ユーレイが町子の胸元に耳を寄せた。早い鼓動が悟られてしまうのではないかと町子の心臓は一層スピードを上げ脈打った。
「どくんどくんってぇ、力強く脈打ってらぁ。生きてるってこういう事なんだなぁ」
鼓動が締め付けられる。
「お町ちゃん、何でおいらは今、生きてないんだ?」
町子は唇を噛み締めた。
「お町ちゃん、紙ってどういう風に燃えるか知ってるかい? 紙はひとまとまりにしておくと、端っこから燃えるのよ。端っこが黒くなって、縮み上がって、丸まって、一枚ずつ、上から下へ順に火が移っていくのよ。おいらが描いたあの子の絵、灰黒い燃えカスの花になった。淵が赤くてさ、結構綺麗だったんだぜ。」
町子は唇をもっと強く噛み締めた。ユーレイがゆっくり顔を上げ、町子の唇を見つめると、『らしくない』穏やかな笑みを見せた。
「お町ちゃん、おいらの前でくれぇ、我慢しなくたっていいんだよ。どうせおいらは幽霊なんだから」
涙が溢れ出てきた。胸が締め付けられて、鼻の奥がツーンとなって、我慢の粒がお腹の下の方から次々と沸きあがってくる。ソーダ水の泡みたいに。
この我慢の粒はあの時の物。
高校の頃、片思いしてた男の子の事を友達が好きだっていった時、「私も好き」って言えなかった。……ひとつぶ。
中学校の部活のテニスの大会でレギュラーに選ばれなくって、本当は悔しかったのに平気なフリした。……一粒。
小さい時、近所に住んでた女の子がおもちゃをいつになっても貸してくれなかった。……ヒトツブ。
たくさん。たくさん。どんどん出てくる。私の我慢達。
しゃくりあげて泣いた。子供みたいに泣いた。ユーレイの着物の胸元がびしゃびしゃになった。
気付くと夜の闇ではない黒が窓際に迫っていた。
雷鳴が轟くと、ストロボみたいな稲妻が空に走った。ユーレイは体をびくつかせて、町子にしがみついた。
「どうしたの?」
急いで自分の頬の涙の残骸を拭いながら町子が尋ねる。
「あの日もこんな雷の日だった。お町ちゃん、怖ぇーよー。もうあんな思いはまっぴらごめんだ」
ユーレイは町子の中でブルブルと酷く震えている。町子は壊れないようにユーレイを抱き締めた。
バラバラと大粒の雨が降ってきた。溺れちゃいそうな雨。雨の粒子が街の景色を白く濁らせる。
激しいストロボ――そして轟音――。
「お綾の生まれ変わりがお町ちゃんだったら良かったのに」
町子とユーレイ。二人の中から引き合う磁力が現れた。少しずつ近付く距離に町子は勝てない。自分もそれを望んでいるのだと、初めて町子は気付いた。ユーレイの唇と町子の唇が近付く。ゆっくりと。
「駄目っ」
町子が磁力を阻んだ。
「駄目よ。だって、そしたらあなたきっと消えちゃう」
「もういい加減成仏させてくれたっていいだろ」
ユーレイが近付いて来る。町子の中で受容と拒否がぐるぐると回り始めた。
「嫌だ」
搾り出した言葉と一緒に涙が溢れ出た。きっと体中の水分はもう出し尽くされてる。
「嫌だ。まだあなたと離れたくない」
町子の言葉を無視してユーレイが近付いて来た。触れる。
嫌だ。嫌なのに。二つの正反対の感情が心の中で炎を上げた。火種と酸素が結合して燃え上がるように。止められない。強く強くユーレイの唇に触れた。
「百夜を重ね、今夜、一夜切りに逢う」
唇が名残惜しく一時離れると、ユーレイが言葉を残した。町子はずっと抱えていた想いを口にした。
「あなたがいた証拠を残していって」
ブラウスのボタンを外し、胸元を見せた。
ユーレイが町子の胸元に顔を埋める。
「これから何百年、何千年先も消えないような跡を残して」
ユーレイの唇の力が強くなった。町子の口から吐息が漏れた。
ユーレイの唇が離れると、胸元に赤紫色の跡が残っていた。町子はそれを確かめると、ユーレイの胸元にも同じ跡を残した。
跡印と跡印を合わせるように肌を寄せた。
二つが一つになるように抱き締めあった。
稲光が空一面を明るくして、一瞬昼に引き戻されそうになる。町子はしっかりとユーレイの指を握った。青白い指。憎らしくて愛しくて、近くて遠い指。頬を滑り落ちる一筋の水玉。外は大雨。中は静寂。外は雷鳴。
大量の雨にようやく冷やされる夏の空気。町子の熱もユーレイによってどんどん冷やされる。二人で同じ温度。同じ傷跡。背中には彼女とお揃いの疵。町子は激しくユーレイを抱き締めた。稲光に引っ張られてユーレイが天に帰らないように。
地響きのような激しい雷が落ちた。外の明かりが一斉に消えた。雨は降り続いている。町子はユーレイの腕を探した。
雨は降り続いている。
昼の熱気が冷やされて水蒸気になって天へ昇っている。
雷は遠くへ行ったようだ。
やがて、水蒸気の靄の中、街の明かりがイルミネーションのように再びチラチラとつき始めた。電気が復旧したらしい。あの小さな明かりの一つ一つにそれぞれの暮らしが宿っている。
雨は降り続いている。
人々はいつもと同じ生活を続けている。
町子も決心して立ち上がる。はだけた胸元を見た。そこには昨日は無かった赤紫の傷跡がしっかりと残っている。
町子はブルールームに向かい、洗面所の棚からバスバブルが入った小瓶を取り出した。
小瓶は未開封で、町子は包まれていたビニールをそっと剥がし、ゴミ箱に捨てた。
バスタブにお湯を溜めながら、小瓶の中の液体をゆっくり入れる。
「はじめまして」
青ではない液体がトロトロとお湯の中に広がった。