朝、短い駅までの道程が凄く遠く感じる時がある。いつも通りの時間に出て来たはずなのに、何時間も同じ道を歩いているようで不安に思う時がある。朝ぼらけの空が夕闇迫る空に見えてドキリとする。
 そうかと思うと、ふと気付くと職場の最寄り駅まであと一つだったりして驚く事もある。そこまでの記憶がない訳ではない。思い出そうとすればぼんやりと浮かぶのだ。人はきっとそんなに大事な事でない物は置いて行く生き物なのだろう。毎日の同じ動作なんてきっと私にとって重要な意味を持たないのだ。この仕事、結婚式のプロデュース会社を選んで本当に良かった。毎日同じ道を歩き、同じ電車に乗り、同じ町並みを抜け、同じ顔を見て、同じディスプレイの少しだけ違う画面を見る日々が続いていたら、私の記憶はきっと何も残らなくなってしまう。人は忘れて行く生き物なのだから。
「高校の予餞会、ですか?」
 驚きのあまり、1オクターブ高い声が出た。
「そうだよ?」
 ボスが何故か不思議そうな顔をして頷く。
 新規事業を始めることは聞いていた。自社のパーティスペース、チャペルや、ケータリングサービスの事だと思っていた。予餞会?
 町子は頭の中で再度問いかけてみた。高校の予選会なんて学生や教師が自主的にするのが一般的なはず。何故うちの会社がそんなアマチュアの手伝いをする事になったのだろう。
「……その話は決まりですか?」
「そうだよ。ちょうど良い具合に依頼が来てね」
 ちょうど良い具合? 何がちょうど良いんだろう。
「それじゃ、全部町子君に一任するから。心置きなくやってくれ。先方と相談してな。これがその高校の資料だから」
 ボスが町子にB4の茶封筒を渡して来た。町子は重い気持ちのまま受け取った。そして、その封筒に書かれた高校名を見て唖然とした。

 記憶って、頭の中でどう保管されているんだろう。今日、封筒を見るまで、その存在を忘れていた。私にもそんな時代があったんだと無理矢理引き戻された感じだ。無理矢理引き戻されたはずなのに、ひとかけらも思い出せない。十代の私の記憶はジグソーパズルみたいにバラバラにされ、クッキーの空き缶に入れられ蓋をされ、校庭の隅に埋められ、存在自体忘れられてしまったのだ。だからきっと思い出せないのだ。
 例え掘り起こされたとしても、今の生活に役立つような出来事も、甘酸っぱい思い出も、今の自分に考えつかないようなアイディアも何もないのだろう。だからきっと思い出さないのだ。このまま蓋をしたままでも問題ないのだ。私は今の私のままで、今出来る事をしよう。過去は過去、仕事は仕事。どこの学校でだって、する事は変わらない。
「お町ちゃん、おいらの話、聞いてなかっただろう」
 気付くと目の前にユーレイの顔があった。町子は慌てて目を逸らした。
 聞いてなかったからって、こんな至近距離に来ないでよ。
「ごめん、聞いてなかった。何?」
 ユーレイがあからさまな溜息を吐く。
「おいらが成仏出来るようにしてくれるんだろう? しっかりしてくれよ」
 ちょっと待って。成仏して欲しいけど、成仏させてあげるなんて一言も言ってない。
「おいらの春画のモデルになってくれるんだろ?」
 ユーレイの言葉に町子は凍りついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。誰がそんな事言った?」
「そうでもしねぇと、おいら、成仏しねぇよ?」
 ユーレイがしれーっと答える。
 町子の頭の中に天秤が浮かぶ。ユーレイがこのまま居座り続けるのと、自分が春画のモデルになるのと。交互にゆらゆら揺れる。
「春画が駄目なら、まぐあいでも構わねぇよ。お町ちゃんが相手だったらいいや」
 天秤がもう一台増える。春画のモデルとまぐあいの相手と――
「幽霊とまぐあいなんか出来る訳ないでしょうっ」
 つい大声で叫んでしまう。ソファーから立ち上がってしまった。ユーレイの淋しそうな顔が視界の隅に映る。見ないようにした。
「……そうだよな。おいら、幽霊だからな」
 空気が凍える。ユーレイの言葉が氷の結晶になって部屋に舞う。外は昼の熱を溜め込んでいるが、部屋の温度はユーレイと同調しているから冷えたまま。ユーレイの言葉の結晶は溶けない。部屋を少し漂った後、かしゃりと床に落っこちた。紅潮した頬が冷めていく。
 沈黙は、昔から、嫌いだ。
「あなたなんか、例え生きてても、まぐあいしたくないわ」
 今度はユーレイの頬が紅潮する。
「な、何ぃーっ。こんな色男捕まえて何言ってんだい、お町ちゃん」
「色男? 江戸時代にはまだ鏡がないのね。そこの洗面所にあるわよ」
「江戸にだって鏡くれぇあらぁな。馬鹿にしちゃぁいけないよ。おいらが歩けば、町中の女が振り返るってんだぁ。茶屋のお染ちゃんにぃ、未亡人のお松っさん……」
 漫才みたいなやりとりのお陰で、空気は少しずつ熱を帯びていく。それに反比例して自分の頭の中がどんどん冷静になっていく事に町子は気付いた。
 気まずいままだって良かったじゃない。そのまま話さなくて済んだかもしれないし、もしかしたら出て行ってくれたかもしれない。
 コミュニケーションアンドロイド。町子の頭の中にそんな言葉が浮かんだ。自分はきっと良い空気を作るようにプログラミングされてる。少しでも不穏な空気が漂うと修正したくなるのだ。町子は心の中で大きな溜息を吐いた。
「遊女の深山に言い寄られたぁ時は参ったなぁ」
 ユーレイはまだやいのやいのと言っている。
「分かったわよ」
 ユーレイの顔が明るくなる。
「やっと分かってくれたかい? で、どっちにすんだい? 春画かい? まぐあいかい?」
「春画に決まってるでしょう」
 町子が苛立ちを隠さずに言った。ユーレイはちょっと不満そうだが頷く。そんなユーレイに町子は軽い殺意を覚えた。もう既に死んでいるので、願いは叶わないが。町子はユーレイの鼻先に人差し指を突き付け言った。
「言っとくけど、相手は私じゃないわよ? ヌードモデルの人探してくるわ」
 ユーレイの膝が落ちる。
「駄目だよ。お町ちゃんじゃなきゃ……」
 ユーレイが拗ねて甘えた子供のような顔で言う。
「お町ちゃんじゃねぇと駄目なんだ。だって……」
 いつもとは違うユーレイの表情に戸惑い、鼻先に翳していた人差し指が、つい、ゆっくりと下りてしまう。ユーレイが町子にすがるような眼差しを向けて言う。
「だって、おいら、人見知りなんだから……」
 この、下ろしたぁ、指ぃをぉ、どうしてくれようかぁ。まずはこのままぁ、また持ち上げてぇ、この目の前の死に損ないの鼻のぉ、穴にぃぶち込んでぇ、ぐるぐるとグラインドさせてぇ……
「お、お町ちゃん? どうした? さっきから顔が怖いけど……」
 人見知りぃ〜?! んなもん知るかっ。人見知りアピールするなっ。人見知りっていう人種はいつもこうだ。「私人見知りなんですー」だとー、そんなもん言い訳じゃー。
「お、お町ちゃん?」
 ユーレイに体を揺すられて、ふと我に返った。鬱憤が大分溜まっているらしい。今、怒りの矛先が変わっていた気がする。
「とりあえず。私が春画のモデルになる事はありません。これだけは確かです」
 ユーレイが不服そうに口を尖らせる。
「それじゃあ、まぐあいは?」
 怒りのボルテージがまた沸騰する。
「それも絶対ありませんっ。未来永劫ありませんっ。地球が引っくり返ってもありません」
 ユーレイが呆れたように言う。
「この世に『絶対』なんて事はねぇんだぜ。人の気持ちなんて、秋のおてんとう様みてぇにころころ変わっちまうのさ。これから先、お町ちゃんがおいらの良さに気付いて、めろめろになっちまうってぇ事だって、ありえねぇ話ではないのさ」
「ありえませんっ。この世の中がどれだけ不条理な事だらけでも、それだけは絶対にありえません」
 ユーレイが鼻先で笑った。
「おいらがお町ちゃんの心を溶かしてやるよ。おいら無しでは生きられねぇくれぇにな」
 ユーレイのキザな物の言い方が癪に障った。
 何で自分はこんな奴の話に付き合ってるんだろう。凄く振り回されてる。ペースが乱れる。邪険に出来ない自分が嫌い。
 邪魔っけなかさぶた。自分にとってユーレイはそういう存在だ。無理矢理剥がしたら怪我が悪化するからそのまんまにしとく。自然に剥がれてくれるのを待つ。それが一番だ。
 コミュニケーションアンドロイド ハ ツカレマシタ。エネルギー ガ フソクシテイマス。イツモノ ブルールーム デ エネルギーホキュウシマス。
 町子はバスルームへ向かった。
「私はちゃんと冷たく振る舞ってるのに。なんでまだ居座ってるんだろう」
 薄青の湯船の中。無になりたいはずなのに、ふと気付くと、リビングのあいつの事を考えている自分が哀れでならない。
「考えちゃ駄目だ。考えちゃ駄目だ」
 頭の中からあいつを追っ払う。でも油断してると、すぐにあいつの姿が脳裏に浮かんでしまう。追い出しても追い出してもあいつはひょいとやってくる。
「きっと見過ぎちゃってるんだ。残像みたいに残っちゃってるんだ。だから考えちゃうんだ。私の方が旅に出ようかな。今だったら仕事も休めるだろうし」
 長年の念願だったはずなのに、行ける嬉しさより行けてしまう寂しさを強く感じた。今旅行に行くのは完全に負けを認めた事になる。そう思った。指先を伝って落ちるとろとろとした青い湯をぼんやり眺める。
 別に旅行に行かなくても……一人だった時はもっと楽しかったはずだ。仕事で辛い事があっても、ここ以外に避難場所は沢山あった。デパ地下のデリカテッセンで買った海老とアボカドのサラダとワイン。パックをしながらのフットバス。ジャズを聴きながらインテリア雑誌を見たり……。
 大きく溜め息を吐いた。湯船が揺れる。
「あいつがいるから、どれも出来ないじゃない」
 なんであいつは出て行ってくれないんだろう。

「町子さん、それはその人に好かれてるんですよ」
「はぁぁあ?」
 仕事中なのに大きな声を出してしまった。レストランの従業員が一斉に振り返る。
「あ、あ、ごめんなさい。何でもないです。すみません」
 数日後に本番を控えた結婚式の会場であるイタリアンレストラン。今日はスタッフ総出の最終リハーサルだ。新郎新婦はこの後、三十分後が入り時間だ。クライアントが来る前で良かった。町子は胸を撫で下ろした。
 片桐が独り立ちする初めての式なのに、なんて緊張感が無いんだろう。それもこれも私がまたいらん事を口走ってしまったからだ。「なんであいつは出て行ってくれないんだろう」目ざとい片桐が聞き逃すはずないのだ。嗚呼、今日は気合を入れるために厳しく行こうと思ってたのに。
 町子は頭を抱えた。隣では片桐が笑いを堪えている。
「町子さん、リアクション良すぎ」
「だって、片桐が変な事言うから……」
 座席表と当日の料理のメニューに目を落とした。目を落としてはみたものの、内容が一向に頭に入って来ない。
「そういうんじゃないのよ。それはきっとない」
 否定の言葉が口から出ると、少し頭が動き出した。
「えー、だって、懐かれたり、心配するような事言ったりするんですよね? 仕事行くなとか言っちゃうんですよね? きゃー」
「いや、そこだけ言うと、そういうようになっちゃうから止めてよ」
 片桐が前言撤回してくれないと、このまま手に持っている用紙を握り潰してしまいそうだ。
「えー? それじゃ、他に何言われたんですか」
 言えない、まぐあいとか、春画とか、絶対に言えない。
「何歳の人なんですか?」
「何歳? えーっと、年の頃だとー」
「やだー、町子さんてば、なんか言い方古っぽぉーい」
 あ。いけない。違うの片桐、これはあいつのせいなの。あいつの言葉遣いが古いせいなの。……なんて、これも言えない。
 それにしてもあいつの年って幾つなんだろう? 私より年が若い事は確かだろう。二十代半ばって感じだけど、昔は寿命が短かったみたいだから、見た目よりもっと若いのかもしれない。まぐあいする前に死んじゃったって言ってる位だから結婚はしてないんだろう。江戸時代って適齢期何歳位なんだろう。死んだら人って、そこで年が止まるのかな。それとも成仏するまで誕生日迎えるのかな。
「えっとー、十六から四百歳位の間?」
 片桐の顔が一瞬強ばる。町子の言葉を理解しようと賢明に頭を働かせているようだ。
「や、やだー、町子さん、冗談言ってぇー。それ、どういう事ですか? 少年っぽくもあるけど、歴史も感じるって事?」
「え? いや、そんなに深い意味はないんだけど。ただ、年を知らないってだけで……」
 まずい。早く仕事の話に戻したいのに。しまった、片桐がどんどん興味津々になっていく。
「その人、かっこいいですか?」
「えー? 格好? 本人はイイ男だと思ってるみたいだけどー」
「えー、ナルシストは勘弁。町子さんの目から見てどうですか?」
 私の目から見てって言われても……。
「髪はバサバサだし、不精髭だし、胸元はだけてるしー」
「私、ワイルド系、かなりツボでっす」
 あ。しまった。また興味を引くような事を言ってしまった。
「会いたいなー。今度紹介して下さいよー」
「しょ、紹介ぃ〜っ?!」
 はっ、また大きな声を出してしまった。町子と片桐はキョロキョロと周りを見る。何人かのウェーターが迷惑そうに二人に一瞥くれるのを見つけると、ペコペコと頭を下げた。
「……あんな奴、片桐に紹介出来ないわよ」
 町子が囁いた。第一、片桐はあいつの事が見えるのだろうか。
「何でですか〜? 町子さん、独り占めしたいからってー」
「そんなんじゃないわよっ」とまた大きな声を出しそうになるのをぐっと堪えた。一呼吸置いてから言う。
「独り占めしたいなんて思ってないわよ。っていうか、本当にもう出て行ってほしいの」
「ふーん、んじゃ、出て行ってって言えばいいんじゃないんですか?」
「私としては言ってるつもりなんだけどねー」
「あ、そっか。話、振り出しに戻っちゃいましたね」
 片桐が無邪気に笑う。人事だと思っていい気なものだ。ま、片桐に話しても何の解決にもならないって事は分かっていた。分かっているのに、結果、相談みたいになってしまっているのが悲しい。十近くも年が離れてる子に何を話してるんだ、私は。他に友達がいないみたいじゃないか。
 本当に何とかしなくちゃ。

「おかえり。なんでぇ、おいらに会いたくて、今日は早く帰ぇってきちゃったかい?」
 町子が家のカギを開けると、ひらひらとユーレイが現れて言った。
 本当に何とかしなくっちゃ。町子は改めて強く思った。
 町子は無言で鞄をソファーに放り投げて、キッチンに向かう。ケトルに水を入れ、火にかけた。
「お町ちゃん、今日は一段とつれねぇーなー。おいらさ、ちったぁ成仏について考えてみたんだぜ? 足りない頭絞ってよぉ」
 町子がキッチンから顔を出す。
「本当?」
「本当も本当、大本当さー。今日はおいらが結ばれなかったあの子が誰だったのかを思い出してたってぇ訳さ」
 町子の目が輝く。
「それで? 思い出せたの?」
 町子が聞くと、ユーレイが町子を見つめ返した。早く先を聞きたいのに、ユーレイはもったいぶって続けない。町子は視線を反らす事も出来ずにイライラした。
「……いいや。思い出せなかった」
 町子の希望の眼差しが怒りと軽蔑に変わる。そしてすぐにユーレイから視線を外した。ユーレイが慌てて言う。
「今日考えてて、ちょいと思ったんだ。おいらのあの子は、実はお町ちゃんだったんじゃないかって思ってね。そしたら、おいらがこの部屋に現れたのも合点が行くだろう?」
「私……なの?」
 何て馬鹿な質問をしているんだ。自分だったらどうするのだ。町子はドキドキしながらユーレイの次の言葉を待った。
 ユーレイは大きく体を後ろに反らした。また、もったいぶってる。町子の中のメトロノームが速度を上げた。
「いや、分からねぇ。名前も、顔も思い出せないし。ただ……」
「ただ?」
 ユーレイが町子の瞳をじっと見る。
「お町ちゃんだったらいいのになぁ」
 ケトルがピーっと騒々しく音を立てる。町子は火を止めるためにキッチンへ向かった。
 顔が火照っている。何年も言われてないような台詞と眼差しに、つい赤面してしまった。
 ケトルの口から蒸気が上がる。
「湯気みたいな君」
 自然と漏れた言葉にハッとした。
 やだ、昼、片桐があんな事言うからだ。たかがユーレイごときの真実かどうか分からない台詞にクラッときちゃうなんて、相当病んでる。胸がざわざわする。なんだか今日は変な夢を見そうだ。

 炎の渦が巻いている。熱風。身動きできない。黒い煙が辺りを覆いつくしている。皮膚が溶ける。髪が焦げる。足が焼ける。喉が痛い。目の前は赤い炎。体の中身が黒煙で埋まる。体中の水分が蒸発する。骨が音を立て始めた。慌てて手を伸ばす。契りを交わした愛しい指を探す。掴めない。手を振り回す。触れない。残った体を振り乱す。あいつは。あいつはどこだ。嫌だ。死んじまうのなんて御免だ。
 ユーレイが大声を上げて飛び起きた。ずっと心配そうにユーレイを観察していた町子が口を開く。
「どうしたの? 随分うなされていたみたいだったけど」
 こんな事を聞くのは癪だった。世の中で一番嫌いな人間の心配をどうしてしなくてはいけないのか。でも、聞かずにはいられなかった。ユーレイの驚き方は尋常じゃなかった。
「うなされてた? ……そうか、なんかきっと夢を見てた。……何の夢か思い出せねぇが」
「何の夢か思い出せないの? あんなにうなされていたのに?」
「ああ」
 ユーレイはあの白い部屋、絵を描いている時の険しい顔になっていた。
 町子はユーレイが寝ていたソファをそっと離れた。
 覚えてないんだ……。
 冷蔵庫の扉を開け、首を突っ込む。
 私ははっきり聞いた。
 冷気がひんやりと頬を撫でる。
 さっき、あいつが叫んでた名前は……
 トマトジュースが入った大きな瓶を取り出す。
 私の名前じゃなかった。
 ユーレイに背を向け、赤い液体をコップに注いだ。
 あいつ、私の事が好きだったんじゃなかったのか。
 今まで気付かないようにしていた自分の気持ちなのに、心臓に烙印を押される。
 私の事が好きだったんじゃないんだ。
 烙印は町子の胸で轟々と炎を上げた。
 それでも認めたくなかった。心の奥底でも言葉にしてしまいたくなかった。胸が焦げる。想いと一緒にトマトジュースを一気に流し込んだ。炎はまだくすぶっていて、町子を困惑させた。
 風が吹く。目の前に小さな光が現れて、ゆっくりゆっくり回転しながら大きな球体になる。
 その中に小さな景色が現れる。ドールハウスみたいな小さな部屋。
 この部屋は……。
 見慣れた風景だった。町子が小さい時からずっと住んでいた団地の一室。
 中に子供が二人しゃがみこんでいる。
 一人は自分。そしてもう一人、男の子。
 夏の暑い日だった。カーテンも襖も全て締め切った部屋の中、私とあの子はしゃがみこんでいた。
 カーテンは太陽の光を遮ってくれたけど、慰めの冷たい空気も遮断していた。蒸し暑かった。汗が流れ落ちた。
 この世界で私とあの子、二人っきりだと思った。
 思っていたのに。
 あいつ、私の事が好きだったんじゃなかったのか。
 どうして突然こんな昔の事を思い出すのかと思ったら……。そうか、そういう事か。ずっと大昔の私も、今と同じような勘違をいしてたんだ。
 相手の子は誰なのか、自分はどう思っていたのか、どうやって勘違いに気付いたのかは忘れてしまった。記憶がぽっかりと抜け落ちている。光の中に空いた闇のように。
 ただ覚えているのは、目の前の、こんな近くにいる人が、自分の知らない想いをずっと抱えてると知った時の喪失感。
 ぽっかりと抜け落ちたような喪失感。
 悲しくなった訳ではない。悔しくなった訳でもない。きっとそこまで執着してないのだろう。
 ただ、ぽっかりと抜け落ちている。そしてまだ微かな希望を捨てられないでいる。そんな自分への幻滅。
 そんな感情と、あの、夏の蒸し暑さだけ、今でも細胞が記憶している。

    

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