夏が、逝っちゃう―――。

 頑丈な夏の光は夕方になっても果てる事なく続く。
 電車は汗ばんだ背中の大群を勢いよく吐き出した。
 町子もその中の一人。騒々しく生臭い夏の空を忌ま忌ましく見つめた。
 怒りの原因は山程あった。まずこの屈強な夏の暑さ。もう6時をとうに回っているのに、永遠に続きそうな昼の気配。アスファルトから立ち上る湯気。斜め前の中年男の首筋に垂れまくる脂っぽい汗。そして――
「中松さんの件、片桐君に引き継いでもらう事になったから」
 魔のセンテンスがリピートされた。悪夢のようだ。

「ウェディングドレスを手作りしたいんです」
 町子が担当する事になった新婦の中松綾子がそう言った時、町子は正直「またか」とげんなりした。手作りを希望した新婦は今までに何人もいた。だが、やれ当日に間に合わないだの、持ち込み料が高いだの、途中まで作って挫折しただの、思った通りのドレスが作れなかっただの、間近になっての慌しい予定変更をさせられた記憶しかない。
 その度に笑顔で「大丈夫ですよ」とか「残念ですね」と言って来たが、本心は違っていた。この手の事を言い出す女性は、思いつきばかりで、実質が伴わない。アイディアなんて結果を出さなくては、ただの絵空事に過ぎないのに。そう思っていた。
「それは素敵ですね」
 町子は本心をおくびにも出さずに笑顔で答えた。そう答えながらも頭の中では、融通が効くレンタルドレス店を幾つかピックアップし、衣装変更出来る期限を逆算していた。表面の自分と真実の自分がどんどん別れていく。表面の自分が抜け殻みたいで哀れだった。虫は脱皮を繰り返し、成長していくが、自分は表面の自分を脱ぎ捨て、何処へ向かおうと言うのだろう。
「洋裁、お得意なんですか」
 嫌味なセリフだと思った。自分は何を期待しているのだろう。中松が「苦手です」と言って諦めるのを期待しているのだろうか。「得意ですけど、やっぱりドレスは大変ですかねぇ」という問いかけを期待しているのだろうか。それとも中松にそう言わせるように仕向けるための最初の質問なのだろうか。それとも、それともまだ自分がプロデュースした式で自作のドレスを着てくれる花嫁を期待しているのだろうか。
 中松がにこやかに笑う。町子はドキンとした。その拍子に表面と真実がホッチキスで止められたみたいにくっ付いた。
「いいえ……あの……全然得意じゃないんです」
「……そうですか」
 迂闊にもがっかりしてしまった。予想していた答えなはずなのにがっかりしてしまった。早く、取り繕わなくては。
 「大丈夫ですよ」「皆さんそうおっしゃいますよ」「既製品でも素敵なドレスは沢山ありますから」――ダメだ。ハマる言葉が見つからない。
 困惑している町子を尻目に、中松が笑顔で言った。
「編み物は得意なんで……それで何か出来ないかなぁと思って」
「素敵ですね!」
 自分自身から出た思いがけない言葉に驚く。本心から素敵だと思った……のだと思う。用意していないのに飛び出た言葉だった。
 中松の熱心な眼差しが眩しかった。今までのクライアントとは違うかもしれない。いや、例え結果が同じであっても、自分は出来る限りの事をしなくてはならない。お客様に満足してもらうのが自分の仕事だ。
「サマーヤーンで編めば、素敵なドレスが出来ると思います。シルクの毛糸で編めば、式に相応しいドレスが作れると思いますよ」
 大変かもしれないけど、総レース編みのドレスだったら凄く豪華になる。新婦の友人にモチーフを少しずつ編んでもらい、それを繋げるのも楽しそうだ。ブーケもニットにすると可愛いかも。
 町子は自分の脳のいつもと違う箇所が活発に動いているのを感じた。幸せな気持ちになった。仕事を始めた頃はもっとこんな瞬間があったはずだ。いつの間にか抜け殻になってしまった自分を哀れに思った。
「それと……」
 中松が恥ずかしそうに切り出した。
「また変な事お願いしていいですか。……司会じゃない司会の人がいいんです」
「司会じゃない司会の人……」
 困惑と同時に期待が渦巻いた。
「あ、はい。なんか、こなれてないっていうか……」
 中松は多分きっと、人生で一回しかない結婚式を百戦錬磨の司会者に任せたくないのだ。町子は理解した。そして、町子が今までに体験した何百という式のどれかに中松のたった一回の結婚式を当てはめようとしていた自分を恥じた。
「そうですねぇ……」
 町子の頭の中の名刺帳がパラパラとめくれ、今までに携わってきた結婚式のスライドがカシャカシャ変わる。変わり続けるが、中松の納得するような答えは出てきそうにも無い。
「あの……、たとえば、普段朗読をされてる方とか……」
 中松の提案に町子はハッとした。これは新しい「売り」になると思った。そして、純粋なクライアントの希望をすぐビジネスに結び付けてしまう自分をまた少し嫌いになった。
「なるほど。そうですね。……では役者の方に当たってみますね。知り合いに小劇場で活躍している人がいるんです」
 中松が期待半分、不安半分な顔をしている。
「穏やかな語りをするのが得意な人なんです。中松様のイメージに近いと思います」
 中松の顔がパーっと明るくなった。
 不思議だ。中松さんの考えてることが分かる。
 町子は今までにない希望を感じていた。

「中松様は、最初にお見えになった時から私が担当だったんです。2人でアイディアも考えました。当社初の試みばかりです。私でないと分からない事も多いと思います。……どうしてですか。……中松様が私を担当から外せと言ったんですか」
 中松の担当になってから、手作りウェルカムボードとインビテーションカードの講習会を始めた。今まで習ってきたカリグラフィーやラッピングの技術を役立てる日が来た。中松も生徒の一人だ。中松以外にも自分の手で結婚式を作りたいと思っているクライアントは大勢いた。今まで挫折してきた人達は、努力が足りなかったんじゃない。出来る事を提案されていなかっただけだ。自分の力不足だ。町子は新人に戻ったかのようにワクワクしていた。新婦達と同じ気持ちで、これから始まる何かに期待をしていた。その場に参加出来る事を心から幸せだと思った。
 それなのに担当から外れるなんて……。
「まあまあまあ、中松さんがおっしゃったんじゃないよ。君が今回の式に特に力を入れているのは知っている。アイディアもみんな素晴らしい物だ。実現に向けての努力も怠っていない。だからこそだ。ここで片桐君に任せてみてはどうかね。現場の仕事も大事だが、君にもそろそろ育成の方にも力を入れてもらいたいんだ。もちろん、講習会はしばらく君が担当して貰う事にはなると思うが。君には他にもやるべき事があるだろう」
 町子の意見は一蹴された。ボスの意見は考え尽くされていて、反論の余地が無かった。
「現場から離れろなんて、仕事を辞めろと言ってるようなものだわ」
 夕暮れの帰り道に呟いた。胸の中が、夏の空気よりムシムシしていた。
 汗が落ちた。
「それに……」
 町子がイラついている原因は他にもあった。
「それにぃ」
 エレベーターのボタンを荒々しく押した。そんな事をしてもイラつきは静まらないのに。
 誰もいないエレベーターの箱の中、頭を壁に押し当て、自分の未来を嘆いた。
 重い気持ちを抱えたまま部屋の扉を開けると、イラつきの原因が笑顔で立っていた。町子は『原因』に一瞥をくれると、少し乱暴に扉を閉めた。言いたい思いは山程あったが全て飲み込んだ。
 町子の表面温度が部屋の冷気によって、一気に冷やされた。
 こいつがいるメリットがあるとすれば、夏も涼しいって事だけだ。
 町子は『原因』を激しく睨みつけたかった。でも止めた。感情の赴くままに行動するなんて滑稽すぎる。
「我慢は良くねぇよ」
 『原因』が町子の顔を覗き込んで言った。
「我慢?」
 町子の中で何かが沸騰した。
「私が我慢してる事があるとすれば、あなたがここに住み着いてるって事ですっ」
 自分でも信じられないの位大きな声が出た。感情を露にしてしまった。どっかで見ているもう一人の自分が囁く。みっともない。恥ずかしい。何やってるんだ。
 町子はぎゅっと口を結んだ。
「おー、おっかね。お町ちゃんでもそんな怖ぇ顔すんだ」
 『原因』が町子の周りをひらひら飛び回る。
「んでも、そっちの方がよっぽど人間らしいや」
 町子が躊躇しながらも『原因』を睨みつけた。
「勝手に変な名前で呼ばないで下さ……」
 が、小首を振り、冷静に言った。
「出来るだけ早くここから出て行って下さい」
 『原因』がやれやれといった風に首をすくめた。
「またいつものお町ちゃんに戻っちまった」
 爆発しそうな思いを胸に町子はぎゅっと唇を噛み締めた。言い返したら負けだ。これ以上こんな奴に振り回されたくない。私は私の生活を続けよう。何年もかけてやっと手に入れたライフスタイル。こんな邪魔者一人に乱されたくない。
 町子は何も言わず、鞄をソファーに放り投げた。一日の疲れが一緒に少し抜け落ちてくれたような気がした。
 邪魔者の顔は見ないようにした。余計な疲れが増す気がしたから。町子はそのままバスルームに直行した。
 バスルームのカギをかける。こんな事をしても邪魔者には無駄だと言う事は分かっていた。でもカギをかけた。これは「入るな」という立派な意思表示だ。
 町子はカギがかかっている事を確認すると、洋服を乱暴に脱ぎ捨てた。出来るだけ乱暴に。
 自分が何に対して悲しんでいるのか分からなくなっていた。この世の全ての事を恨んでいるのかもしれないし、ただ悲劇のヒロインを演じているだけのような気もした。本当は悲しむ事なんか何もないのに甘えているだけなのではないか。こんな事、苦労のうちに入らない。世界にはもっと辛い思いを抱えてる人が沢山いる。でも……
 小さな青い瓶に入っているバスバブルをとろとろとバスタブに落とした。お湯を勢いよく出す。もわもわとした湯気と一緒に現れる沢山の泡々。
 ただ、ただ、眺めた。忘れたい。色んな事、全て忘れたい。私の中で起こっている事、全て、全部。
 泡は沢山になってバスタブからこぼれ落ちた。それでもずっと眺めていた。体は冷えて、汗ばんでいた。

 目が覚めた。寝覚めが悪いとはこの事を言うのだろう。不穏な気配を察知して目が覚めた。もしかすると、寝ている間もうなされてたかもしれない。とにかく最悪な目覚めだ。頭がガンガン鳴る。とろとろと着替えを済ませ、部屋の扉を開けると、見慣れたリビングが異空間になっていた。
「な、何これ」
 一面の白に町子は戸惑った。お気に入りのソファーもローテーブルも、買ったばかりの液晶テレビも一面の白に覆い被さられていて、見る事が出来ない。目を凝らして良く見てみると、白の正体は沢山の紙だった。天井、壁、床……全てを覆いつくす白い紙。窒息しそうな白がハタハタと無風の部屋にはためいている。
 あいつの仕業だ。
 町子はあいつの姿を探した。
 あいつは部屋の片隅で一心不乱に絵を描いていた。髪はボサボサ、着物ははだけ、目が血走っている。右手が休む事なく波打つようにうねり続けている。左手には大小様々な筆を握り締め、口にも白い細い筆が咥えられている。
 白い紙は次から次へと現れる。筆が紙の上でゆらめくと、紙は元々の決まり事のようにフラフラと飛んで行き、所定の場所に貼り付く。
 窓も開いていないのに、紙はゆらゆらと飛んで行く。あいつの波打つ動きが風を生み出しているのだろうか。
 町子は言葉を失った。あいつにかける言葉が見つからない。罵る言葉も責める言葉も。一つも思いつかない。
 町子は途方に暮れて、自分の足元に飛んできた紙を拾い上げた。
 それは人の顔だった。ちょん髷を結って、着物を着ている。あいつが住んでた時代の格好なのだろうか。なんて辛い絵なんだろう。勢いがあるのに、細かい部分まで繊細に描かれていて、心がざわつく。紙の半分を使って顔が描かれているのに比べ、手が異常に小さい。とても無力。大きすぎる鼻にちんまりとした目はアンバランスで、どちらかというとユーモラスに見えてもおかしくないはずなのに、なんて物悲しい絵なんだろう。これは何かを訴えかけてる絵だ。志半ばで人生が途絶えてしまった者が描く絵だ。胸が痛い。頭が壊れそうだ。
 「出て行って」なんて言えない。

「町子さんは悩みが無さそうでいいですね」
「え?」
 片桐の無邪気な発言に思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。昼下がりのカフェ。ミーティングを兼ねての少し遅いランチ。フォークの上からエンダイブが滑り落ちた。
「もー、それじゃあ私がバカみたいじゃなーい」
 笑いながら大袈裟にリアクションしてみる。
「だってー、仕事は出来るし、この前、マンションも買ったんですよねー」
「小さいマンションだもの。ずっと借りるよりは安いからよ」 「男に頼ってないって感じでかっこいいなー。現場は仕切れるし、趣味も多いし、仕事にも生かされてるし。今度はとうとうチーフですもんねー。いいなー、現場卒業かー」
 片桐が大きく体を後ろに反らして伸びをしながら言った。
「……片桐は現場嫌?」
 そう尋ねると、片桐は大きな目をくるくる動かして少し考え込んだ。
「嫌って事はないですけどー。やっぱストレス溜まるじゃないですかー。失敗出来ないし、口うるさい人もいるし、酔っ払いに絡まれる時もあるしー。人の幸せ見る度に、何で私は人の世話ばっかしてんだろーって思いますよ」
「片桐、ちゃんと彼氏いるじゃない」
「いますけどー、土日はほとんど会えないしー。平日の夜会っても、する事ったらエッチしかないしー。そのエッチもマンネリ気味なんですよねー。町子さん、どうにかして下さいよー」
「そういう事は彼氏に頼みなさい」
 町子は苦笑しながら言った。

 いつでもかんでも明るい気持ちでなんかいられない。いられないけど、本当はいつだって笑顔でいたい。生き生きしていたい。やる気満々でいたい。本当は自分の心がけ一つで叶う望みなのかもしれない。分かってはいるけど……。
 町子は足を止めた。町子の左側をヘッドライトがいくつも横切る。眩しい光は町子の顔を一瞬明るく照らし走り去る。暑い。夜になっても暑い。
「泣けばスッキリするかな」
 町子の声は車の走音に掻き消された。掻き消されて良かった。そう思った。
 誰も自分の気持ちに気付いていないだろう。職場では何事もないように明るく振舞っている。ボスに文句を言ったのもあの時だけだし、片桐とも仲良くやっている。誰の事も恨めない。誰も悪くないのだから。
 物分りの良すぎる自分に嫌気がした。物分りが良いくせに、前に進む事が出来ない哀れな自分。三十年も付き合ってると、嫌になる位自分の事が分かってしまう。町子は気付いていた。自分が今、何を求めているのかを。

 家に帰ると元通りの部屋だった。紙は一切れも残っていなかった。いつもと変わらない部屋だった。
 リビングに入るとユーレイが部屋の片隅で丸まっていた。ぎくりとした。また何か描いているのだろうか。
「大丈夫? 何してるの?」
 恐る恐る尋ねてみた。ユーレイの口から飛び出したのは予想していない答えだった。
「心配しちまった……」
「え?」
 思わず聞き返してしまう。
「ほら、この時代は車なんてぇもんが走ってて、物騒じゃねぇか」
 ユーレイの小さな声が微かに届く。私の事を心配したと言ってるのだろうか。
「あ、ああ……」
 無味な相槌を打った。冷蔵庫のモーター音が部屋に響く。
「あ、でも車は通るとこが決まってるし、人は歩くとこが決まってるし……」
 町子はつまらない事を言う自分にがっかりした。
「そうか……」
 ユーレイが相槌を打つ。自分の情報は有益だったのだろうか。町子は困惑する。
 壁の時計から時を刻む音がする。
「江戸時代って、車の代わりって、やっぱカゴ?」
「駕籠は庶民は乗らねぇのさ」
「そうなの?」
 コツがあるんだ。
「おうよ」
「じゃ、乗った事ないでしょ?」
 人と上手に話すコツ。話が弾むコツ。
「てやんでぇ。馬鹿にしてるな。駕籠の一つや二つや三つ、乗った事あらぁな」
「何回?」
 絶対に答えの出る質問をする事。
「……一回」
「それじゃあ、カゴの二つや三つじゃないじゃない。ちゃんと一回って言わないとね」
 少々の笑いを入れる事。
「あんなもんは人が乗るもんじゃねぇ。揺れて揺れて尻が痛くならぁ」
「そういうのを負け惜しみっていうのよ」
 適度なツッコミ。
「……」
「そういうのをぐうの音も出ないっていうのよ」
 機知に富む会話。表情と動作を大きめに、心を開いている事をアピール。
「ぐう。……ほーら、どうだい。ぐうの音は出してやったさ」
 さあて、こういう寒い事を言われた時はどう振舞おうか。別の話にすり替え作戦を使おうか。そうすれば、つまらない相槌を打たないで済むし、自分に主導権が移り、一石二鳥。
「そう言えばね、この前ね」
「うん、何? 何? 何があったんだい?」
 違う。そういう時には「ちゃんと俺の言った事に応えろ」というツッコミをするのが正解。ユーレイ、もっと修行を積むように。
 さて、何の話をしようか。
 この前ね、お客様がね……お客様の話を職場以外でするのはよくないか。
 この前見たテレビでね……こいつにテレビの話は出来ないか。テレビの説明から始めなきゃいけなさそうだし。
 えーと、えーと……
「忘れちゃった。えへへ」
 出来るだけかわいこぶって言った。時には自分が道化になる事も大事。ユーレイが新喜劇ばりの激しいズッコケを見せた。今のは合格点。江戸時代にもズッコケってあったのかな。
「忘れたって、お町ちゃん!」
 ユーレイが笑いながら詰め寄る。別の話にすり替えられなかったけど、結果オーライ。その場の雰囲気を楽しくする術なら沢山知ってる、……って、私、こんな奴相手に何してるんだろう。こんな奴と話弾んだってしょうがない。早く出て行ってもらわなくては。
「ところで、あなたはいつ出て行ってくれるの」
 雰囲気が良い時に言い辛い話をしてしまおう。
 ユーレイが青天の霹靂と言った顔をする。
「お町ちゃん? お町ちゃーん? お町ちゃ〜ん!」
 そんな風に訴えられても駄目なものは駄目なのだ。
「お町ちゃんはおいらを見捨てたりなんかしないだろう? ここを追い出されたら、おいらはどこに行けばいいってんだ?」
「どこにでも。……というより、早く成仏すればいいんじゃないんですか?」
「そーれが出来れば苦労はしねぇーよー」
 ユーレイは何故か得意げにソファーに踏ん反り返って言った。
 なんで居候のくせに偉そうなのよ。
「このままずっと成仏しないつもり?」
 このままずっとあんな思いを抱えて過ごしていくつもり?
 ユーレイの表情に雲が掛かる。
「……出来る事なら成仏してぇーさ。早ぇーとこ、天国ってぇとこに行ってみてぇ」
「だったら……」
 町子の提案をユーレイが遮る。
「お町ちゃんは誰か好きな奴はいるかい?」
「え? いないけど……」
 町子の心に風が吹いた。
「そうか。もし出来たら大事にした方がいい」
 急に神妙になっちゃってどうしたのよ。と、笑い飛ばす作戦は実行に移せなかった。ユーレイの顔が真剣過ぎて。
「何か……あったの?」
 町子がそう尋ねると、ユーレイの顔がパーッと明るくなった。
「おいらさぁ、好きな女とまぐわいする直前でおっ死んじまったのよ」
 ユーレイがガハハハと下品に笑った。
「まぐあい?」
「知らねぇーのかい? いい大人なのに。いいかい? まぐあいってぇのは、あれだ、男と女が肌を合わせて、くんずほぐれず、上になったり、下になったり……」
 町子は何も言わずバスルームへ向かった。
 ……アホらし。真面目に聞いて損した。
 照明を落とすと、バスルームの壁が青白く浮かび上がる。浴槽に張ったお湯がゆらゆらと揺れて、天井に影のオーロラを作る。
 月光浴みたいだ。日常からほんの刹那逃れよう。無になって何も考えないようにするんだ。

 朝一番気が重いのは、靴を履く瞬間だ。目覚めたら足だけ二倍に膨れ上がっていて、家にある靴全部履けなくなったら、出掛けなくても済むのだろうか。
 町子は膨れ上がった足を想像して、ちょっと愉快な気持ちになった。
 それでも自分は出掛けるのだろう。小さくなった靴に無理矢理爪先を突っ込み、満員電車に乗り込むのだろう。今までだって、熱があっても、酷い腹痛に襲われても、無理して職場へ向かったもの。私が式場に行かなかったら、ちゃんと式が回らない。
 あ。そっか。もう現場に行くこともないんだ。
 靴が遠ざかっていく。自分の周りの物全てが遠ざかっていく。波にさらわれるように。不自然にズームアウトするように。取り残される。そのうち手を伸ばしても届かなくなるだろう。足場がどんどん収縮していき、自分の居場所すら無くなっていくのだ。
「どこへ行くつもりだい?」
 不意に背後から声を掛けられて、町子は縮み上がった。振り向くとユーレイのすがる眼差しとかちあった。
「え? どこって、仕事よ」
「何で?」
「何でって……」
 間髪入れないユーレイの質問に何て答えていいのか分からない。
「おいらと一緒にいなよ。ずっと一人は退屈なんだ」
 町子は分かりやすい溜め息を吐いた。
「そんな事言っても駄目よ。仕事なんだから行かなくちゃいけないの」
 町子は靴を履いた。すんなり履けた。
「そんな事まで面倒見れないわ」
 そう早口で言って、シューズボックスの上から家のカギを拾い上げ、部屋を出た。
 動揺した。ユーレイがあんな事を言うなんて。昨日、ちょっと話したせいだろうか。懐かれてしまったようだ。困った。もっと終始冷たい態度で臨めば良かった。頼られても困る。私に出来る事は何もない。

「町子さん、何書いてるんですか? ……方法1。この世に未練を残さないようにする?」
「へ?」
 片桐が机の上のレポート用紙の殴り書きを読み上げていた。無意識のうちに、ユーレイの成仏方法を考えていたらしい。
「な、何でもないのよ」
 町子は慌ててメモを捻り潰した。
「ふ〜ん。町子さん、まぐあいって何ですか?」
「しーっ。本当に何でもないから」
 町子は小声で片桐を制した。辺りを見回したが、誰も二人の会話を聞いている人はいなかった。町子はほっと胸を撫で下ろした。
「しっかし、なんでよりによってその言葉を読むかなぁ。しかも会社で」
 町子の呟きを片桐は聞き逃さなかった。
「会社で言っちゃまずい言葉なんですか? まぐあいって」
「しーっ、しーっ」
 町子は片桐を引き寄せて、観念して、さらに小声で言った。
「……職場には相応しくない言葉なの……」
 片桐がニヤリと笑って言う。
「辞書で調べてもいいですか?」
「……後でコーヒー奢るから許して」
 片桐は首をすくめて笑顔で応えた。
 それでもきっと片桐は自分の席に戻ったらすぐに調べるのだろう。インターネットエクスプローラーを開き、お気に入りに登録しているweb辞書を開くのだろう。町子は気が重くなった。後は辞書に載っていないか、片桐が席に着くまでに言葉を忘れる事を祈るのみだ。紛らわしい言葉を言って、片桐の頭から抹消させてしまおうか。まぐろ。まぎり。むぐりい。まぎらい……
「なーんだ、つまんない。町子さん、また凄いプラン考えたのかと思ったのにー。町子さんがボーッとしてると、その直後に凄い事言い出すんですよねー」
「私、そんなにボーッとしてる?」
「あ、いや、考え込んでるって感じ? えへへ。私、日本語良く分かってなくてすみません」
 片桐がいつものようにいたずらっこな照れ笑いをした。若いって得だなー。無知も魅力の一つに出来ちゃうんだもの。私のえへへが通用するのはユーレイだけか……。

「つまりね、この世に何か未練があるから成仏出来ないんじゃないかと思うの。何かやり残したなーと思う事はない? 例えば、そうねー、美味しいものが食べたかったとか、旅行に行きたかったとか、一杯お金を稼ぎたかったとか、奇麗な着物が着たかったとか。やり残した事が出来れば成仏出来ると思うの。私も沢山は無理だけど、少しのお金位なら融資出来ると思うし」
 町子が早口で次から次へとまくし立てるのをユーレイが冷めた眼差しで見ている。
「お町ちゃんは、そんなにおいらに成仏してほしいのかい? しかも金で解決しようとしてるじゃねぇか」
 町子の早口、小休止。
「いや、別にそういう訳では……でも……成仏した方がきっと良いだろうし……」
 ユーレイの眼差しが痛い。町子は目線を外したまま答えた。
 二人の間に気まずい空気が流れる。目に見える位に。
「……旅か。そういや、生まれてこの方、行った事がねぇや」
 気まずい空気が千切れる。
「旅行行った事ないの? 行った方がいいわよ。楽しいわよ」
 無駄にテンションが上がってる自分に気付いたが止められなかった。
「東海道旅してみるってぇーのもなかなか乙かもしんねーなー」
「そうよ、そう。オツよ、オツ。東海道なら新幹線走ってるわよ」
 必死な自分に気付いていたが、止められなかった。
「お町ちゃん、シンカンセンが何もんだか良く分からねぇが、東海道は歩いてのんびり行くってぇのが決まりさ。団子でも食いながらよ」
「そうそう、団子素敵よね、美味しいわよね。歩きがいいわよね」
 ユーレイとの温度差にはっきりと気付いていたが止められなかった。
「面白そうだな。旅か。行く面子によって面白ぇーかどうか、決まりそうだな」
「そうね、そうね、メンバーで決まるわよね」
 巧く行きそう。例え、これで成仏しなくっても、こいつが旅行に行ってる間は、顔見なくても済むわ。
 町子の顔がほころんだ。
「そうと決まれば、善は急げだ。お町ちゃん、さあ行こう」
「そうそう、そうと決まれば、……って。え?」
 テンションは一気にニュートラル。
「私は……行けない……」
 行かない。
「何で?」
「仕事が、あるから」
 仕事がなくても行かない。
「そんなん休めばいいのさ」
「駄目よ。私がいなくなったら、皆困るわ」
 私がいなくっても誰も困らない。
「そうか、じゃあしょうがねぇな」
「ごめんね」
 何で謝ってるんだろう、私。
「ま、旅くれぇ行ってもおいらは成仏しねぇだろうし」
「そうなの?」
「そうさ」
 ユーレイは「当然」といった顔をした。
「じゃあ……何? どうすればあなたの未練は無くなるの?」
「そうだなー……おいらも常々考えてはいたんだが……やっぱり絵かな。絵が描きたい」
 町子はドキリとした。あの息苦しい白い風景が甦る。
「絵なら、いつでも描いてるじゃない」
 心臓がシンバルを鳴らす。
「そうだな、描いてるな。……だけど、気が晴れねぇんだ。何かが違うんだ。きっと今まで描いた事ねぇような絵が描きたい」
「描いた事ない絵……」
「常々考えていたんだが……やっぱり春画かな?」
「春画?」
「そうそう、男と女のまぐあいを描いた――」
「勝手に描けば」
 町子はユーレイにクッションを投げ付けた。

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