また夜だ。またいつもと同じ夜だ。何度この夜を迎えただろう。もどかしい気持ちをぶん殴りながらの夜だ。円い蛍光灯が微かに揺れてるだけの夜だ。またきっと明日も同じ朝が来る----その恐怖に耐えながらの夜だ。
 いろいろやった。考えられる事はすべてやった。本当に俺がしたい事、やらなければいけない事を見つける為に。でも実感がないんだ。何をやっても手からこぼれる砂のようで。何も俺の手の中に残らないんだ。誰かに褒められても、感謝されても、全てが嘘臭い。本当の俺はこれなのか。誰かに作り笑顔見せてる俺なのか。それとも悪ぶってる俺なのか。あがいてる自分が重荷だ。焦っている自分が邪魔だ。
  誰かが言う「まだ若い。何でも出来る」なんて言葉は追い詰めにしかならない。「何でも出来る」は「何にも出来ない」に限りなく近い。障害とか、制限とか、約束とか、規律とか、枷とか、そんなものがあった方がきっと飛べる力になるんだ。選択する余地が狭い方が俺はきっとスタートする事が出来る。
 このままじゃいけない。いつもそう思ってる。でも迎えるのはいつもと同じ日々だ。朝が来て、飯食って、糞して、学校行って、バカっ話して、夕闇がやってきて、帰って、飯食って、TV見て、ほら、気が付いたらもう明日。今日も何も出来なかった。睡魔がやってくる。睡魔がやってくる。嫌だ、寝たくない。だってまだ何もしていない。
 明日こそはと思う。明日こそはこの家を出て行くんだ。そして俺は決心の床に就く。

 朝、目が覚める。潔い朝だ。けれど俺の朝は惑う夜のせいで遅く来てしまったようだ。がらんとした食卓に一瞬戸惑う。
 すっかり冷めた「一応の」朝食を温め直し、TVをつける。TVをつけて、今がもう昼だという事に初めて気付く。バラエティの司会者の言葉に思わず吹き出す。ふと、決心が鈍っている自分に気付く。一人の朝食は心地よく、自分が抱え込んでいた怒りや憤りや不安がどこかに飛び散ってしまっている事に気付く。
  俺の尻にはすっかり根が生えて、木製の椅子にびっしりと絡みついている。
  トーストの味はもうしない。
  TVの音はただ流れているだけ。
  きっと目もうつろになっているだろう。
  空虚な時間は長く、永遠のように感じる。
  けれど現実は残酷で、あっという間にあの夕闇がやってくる。俺は急いで部屋へ戻る。
  分かってる。俺はいつも逃げてるだけだ。逃げるために新しい道を探そうとしているのか、新しい道に進む為に現状から逃げようとしているのか、それはもう分からない。俺は弱い人間だから、ここから出て行く事しか思い浮かばない。でもどうやら俺が思っている以上に俺は弱いみたいだ。逃げ出す勇気もないんだ。何も出来ないまま、時間が過ぎていく。
  また一歩が踏み出せなかった。
  また一歩が踏み出せなかった。

 次の日一樹は久しぶりに学校に行った。これは一樹の小さな決心だった。朝早く起きて学校に行く事を、家出の予行練習にしようと思ったのだ。
「あれ〜、珍しいじゃん。サボり魔が学校来るなんて。」
「あっ、雨が降るぞ、いや雪か。嵐かも。」
 ふざけた口調で通り過ぎていくクラスメイトに笑いかけたり、小突いたりしながら廊下を進んだ。浦島太郎になった気分だった。自分がそんなに休んでいたとは思わなかった。
  教室の手前で幼馴染のあいつが驚いた顔で一樹を見ている。
「なんだよ、その顔」
「驚いてんのよ。どうしたの? 熱でもあんの?」
「熱ありゃ、休むっつーの」
「熱無くても休むくせに」
「うっさい」
「なーによ、人がせっかくノート写させてあげようと思ったのにぃ」
「いーよ。かったりぃから。それにおまえのノートなんて、どうせちゃんと書いてないんだろ」
「しっつれいねー。大丈夫よ、町子の写させてもらってんだもん」
「ああそうですか」
  うるさいのを片づけ、やっと教室に入ろうとすると今度は担任の教師がやってきた。
「おー、一樹ぃー、珍しいなー。熱でもあるんじゃないかー? 雨が降るぞ。雨が」
「はぁっ。もうそれ、ここに来る前に何回も言われた」
「おっ。そうかぁー。先生もまだまだヤングって事だなー。高校生と同じ事言うって事はー」
「高校生と同じレベルって事を喜ぶなよ、先公が」
「お、久々の一樹のツッコミだなー。いやー、いいなーやっぱり。うんうん。そうしよう、やっぱりそうしよう」
「何が?」
「2学期のクラス委員、お前な」
「なっ、何でだよーっ」
「照れない。照れない。さっ、授業始めるぞ」
  冗談なのか本気なのか分からないまま、担任は笑いながら一樹を教室の中に押し込んだ。
「マジ? 一樹、委員長なんの?」
  話を聞いていた幼馴染が一樹の顔を覗き込みながら言った。
「なるわけねーじゃん。」
  教室の真ん中で一樹の足が止まった。自分の席をすっかり忘れていた。それだけ学校に来ていないという事なのか、それとも一樹がいない間に席替えをしたのか・・・。それすらも分からなかった。
「一樹ぃー。お前の席はそこだぞー」
  担任が指を差した。差した方に目をやると、確かにそこだけ誰も座っていない。窓際から二列目の後ろから3番目の席------。一樹はほっぺをかきながら席に着いた。
  学校の椅子は家の食卓の椅子より冷たく小さかった。教室の雑音は聞いていないTVの音と似ていた。大きな窓から射す光が一樹のテーブルを温めていた。昼下がりのダイニングテーブルと良く似ていた。
「どうかした?」
  不意に声を掛けられ、一樹は驚いて窓側を見た。太陽の光が目に入った。眩しくて一瞬目を細めた。ゆっくり目を開けるとそこには女の顔があった。意志が強そうな眉、黒い瞳、ぎゅっと結ばれた赤い唇、白い頬、おかっぱの髪が風にさらさら動いている。見覚えのある顔だった。でも名前が出てこない。
「どうかしたって・・・何で? ・・・ああ、久しぶりに学校に来たから?」
  また言われるんだ。珍しい、雨が降る、熱がある・・・。
「え? あ、ううん。なんか、ちょっと悲しそうに見えたから」
  そう言うと黒い瞳は急いでノートに目を落とした。
  悲しそう? 俺が?
  いつもの自分を上手く演じていたはずだった。学校での自分。ふざけているくせに先生には好かれる----一番居心地のいいポジション。今日だって完璧なはずだ。哀しさの微塵もないはずだ。
  黒い瞳に聞き返そうと思った。でも黒い瞳の横顔はそれを拒んでいるように見えた。
「一樹ーっ、この問題解いてみろ」
  教師の声で授業に戻された。
  黒い瞳の名前が分かるまで学校に来てみよう、一樹はそう思った。

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