「私には明日はやって来ない。永遠に」
 そう彼女が言ったんだ。
「私にはいつまで経っても今日しか来ない。来る日も来る日もおんなじ今日ばかり」
 水面がキラキラルビーみたいに光ってた。いつの間にか季節は夕暮れに変わっていて、僕はかなり焦っていた。草むらにしゃがみ込んでいる彼女は不安げで僕を余計に焦らせた。不安げなくせに僕よりどっしりと未来を見据えていて、そんなとこが僕を一層焦らせた。
 図体ばかりデカくて何の役にも立たない僕は一体どうすれば良いの?
 どうすれば彼女の明日はやってくるの?
 どうすれば彼女と僕の時間を取り戻せるの?
 どうすれば?どうすれば?

 僕が通う小学校の裏庭にはミニチュアの川が流れている。川と言ってもミニチュアな訳だから、水は人工的に流れている。何て事はない、ただの水道水。寒い冬が来れば凍るし、水不足の夏ともなれば一気に枯れ果てる。そんな川だ。
 川は池に続いている。川がミニチュアって事は必然的に池もミニチュアだ。低学年の僕でさえもひとっ飛び出来てしまう。そんな池だ。
 水は池で留まる。循環する事はない。池に辿り着いた水は行き場を失い、蒸発するまでその場を漂う。
 でも僕はそんな裏庭が大好きだ。頭上には木々が覆い、優しい風が吹く。皆は校庭でのドッジボールに夢中で、誰も裏庭の存在に気づかない。
 木々から葉っぱがひらひらと落ち、川を流れ、滝に落ち、池に到着する。そしてゆっくりと旋回する。そんな様を見るのが好きだ。そんな裏庭が好きだ。
 僕はそんな裏庭で、今、地面に顔を押し付けられ、汚れた靴に踏み潰されてる。
「ほれ、ほれ、飲めよ」
「こっちのみぃーずはあーまいぞっ」
 僕は泥で滲んだ視界の透き間から同級生達の顔を覗き見た。嬉しそうな顔。腹を抱えて笑ってる者もいる。
「見んじゃねーよっ」
 鼻っ柱を強く蹴られた。地球が一回転した。鼻の奥がドクドクする。生温かい。
「うわっ、こいつ、汚ねぇ。鼻血出してるぞ」
「でくのぼうのくせに鼻血なんか出すなよ」
「きったねぇ」
 そうだ、僕は汚い。だから、お願いだから逃げてくれ。
「きったねぇーなー、鼻血拭けよ。そうだ、これで拭け」
 カシャカシャの葉っぱで鼻を強く擦られた。葉脈が僕の肌を傷つける。
「食っちゃえよ」
 誰が言ったのか分からない。僕の顔は何だか分からない液体まみれで、薄目を開けて覗き見る事すらも出来なくなっていた。ただ、冷たく、表情の無い声だ、そう思った。
 ボロボロになり過ぎた葉っぱは、新しい物と取り替えられた。新しい葉っぱは僕の鼻を塞ぐのに使われた。何で鼻を塞ぐんだろう。その答えはバカな僕にもすぐ分かった。僕の口を開けさせるためだ。僕に触れたくないんだ。僕は汚いから。
 鉄の匂いと泥の匂いがした。匂いを取り込めても、僕の肺を満たすには空気が足りなかった。苦しくなって口から大きく息を吸い込んだ。その瞬間、沢山の葉っぱが沢山の手によって僕の口に入れられた。限界以上に開けさせられた唇の端がキリキリと痛んだ。
 その時、僕の五感が閉じた。触覚も味覚も聴覚も視覚も嗅覚も全てに蓋がされた。
 何も感じないようにすればへーき。ほら、まさしく木偶の坊。人形になっちゃえばいいんだよ。人形は何されたって文句言わないだろ?
 音も聞こえない。何も見えない。何も感じない。ぬるま湯の暗闇の世界。
 感情も無い。記憶も無い。欲も無い。動きもしない人形。
 時が、歪む。
「あんたたち、なにしてんのっ。せんせい、よぶわよ」
 聞こえないはずなのに誰かの声がする。遠くから聞こえるのに、大きくハッキリとした声。
「やべ、大原だ。逃げろ」
 同級生達の声と足音が遠ざかる。
 途端に口の中に泥の味が広がった。僕は咳と唾と一緒に葉っぱと泥を吐き出した。
 口の脇がヒリヒリしている。鼻の奥がジリジリしてる。不味い。頭がズキズキする。くわんくわん耳なりがする。不味い。手のひらがぬるぬるする。眼球の裏側がゴリゴリする。不味い。不味い。何だこれは。不味い。僕は何で今まで平気でいれたんだ。
 僕は喉の奥から唾液を絞り出して、泥を必死に吐き出した。
「だいじょうぶ?」
 痛む瞼を無理やりこじ開けると、白い木綿のスカートが見えた。体のあちこちが痛くて、気持ちのあちこちが痛んで、顔が上げられない。でも目の前のこの白いスカートの持ち主は大原なんだろう。さっき、同級生がそう言ってたから。
「ったく、よしはらくんたち、ひどいね。かずきもちゃんといいかえさないとだめだよ」
 頷くのが精一杯だった。頷くのも必死だった。塞き止めておいた何かが出ちゃいそうで。
「はい、これ」
 狭い視界に薄水色のハンカチが映った。奇麗に折り畳まれたシャボン玉模様のハンカチ。
「ほら、なにやってるの?」
 ほら?
「かお、ふきなよ。よごれてるよ?」
 僕が何も出来ないでいると、業を煮やしたシャボン玉のハンカチが近付いて来た。僕はとっさに避けた。
「なにしてるの」
「だって……」
「だってじゃないでしょ」
 シャボン玉のハンカチは無理やり僕の顔を拭いた。ちょっと乱暴だった。
「みんな、かずきにヤキモチやいてるんだよ。うんどうはできるし、やさしいし、あたまいいし、おんなのこにモテるから」
 どこからか、独り言のような、呟きのような声が聞こえる。
 君は何を言ってるの?誰の事を言ってるの?

 僕はまだ、幼すぎて気付かなかったんだ。標的を失った狩人は新しい獲物を見つけ出すって事に。

 寂れた掲示板で彼女の名前を見つけた。有象無象の翔子の中から見つけ出した真実の翔子。
「幼なじみのあいつへ。私を置いて行っちゃった事、今でも恨んでる。」
 僕の心がグラグラ揺れた。抜けかかった歯みたいだ。
 それと同時にひどく安心した。
 やっと見つけた。ちょん切れた糸が手品で元通りに繋がったみたい。空白だったロールプレイングゲームのマップの一部が表示出来たみたい。犯人が分かったみたい。数学の証明の問題が解けたみたい。クロスワードパズルのマスが全て埋まったみたい。空っぽのブリキの体に心臓が収まったみたい。
 彼女の冷たい言葉は僕の道標だ。
 離れて改めて確信した。僕は翔子から離れてはいけない。彼女を悲しませる事になるし、何しろ、僕の中身が空っぽのままになってしまって困る。
 僕は翔子の書き込みをデスクトップに表示するように設定した。

 ある日、僕は佇んでいた。ブラックライトに照らされて、僕の制服が青白く光った。僕の顔がぼんやりと水槽に映ってる。水槽の中のクラゲ達は空に浮かぶシャボン玉のように漂ってる。青白く漂ってる。
 クラゲは何かを考えて生きているのだろうか。繊維みたいな細い触手がリズミカルに揺れている。風に揺れる彼女の長い髪の毛を連想させた。ずっと眺めていたい、そう思った。
 その時、僕は水槽の向こう側にいる彼女を見つけた。隣には背の高い男が立っている。男は退屈そうに彼女の髪を指で弄んでる。心臓が軋む。
 弄ばれた髪は気だるそうに翔子の肩にぽすんと落ちた。彼女の細い長い髪は、無風の世界ではリズミカルに揺れない。そう分かって僕は少し安心した。
 彼女の隣の男は、彼女の腰に手を回し、次の水槽へと急かす。彼女がその手を払う。酷く不機嫌そうに。
 その人は、君の好きな人ではないの?
 男は苛立った様子で彼女を置いて行った。そうすれば、彼女が慌てて付いて来ると思っているんだ。だけど、彼女は追いかけない。水槽の向こう側でクラゲをじっと見つめている。一瞬、僕と目があったような気がした。だけど、本当の所は分からない。ただ僕たちは、じっと青白く漂うクラゲを見つめていた。水槽のこっち側とあっち側で。

 ある日の僕。カラオケにいる。
 周りは皆盛り上がってて、僕も笑ったり、時々寒いギャグを言って皆をしんとさせたりしてる。楽しい。楽しいんだけれど、時々ふっと冷静になる自分がいる。僕だけ自分の世界に帰っちゃった、そんな感じ。
 そんな時僕は、誰も気付かないかもしれないけど、自分の部屋にいる。そして来るはずのない彼女からの電話を待つんだ。どこで何をしてるか分からない彼女の姿を想うんだ。ほんの、ほんの一瞬だけどね。
 次の瞬間、また僕はバカ騒ぎの最中にいて、手拍子始めたりするんだ。僕の部屋に帰らないようにするために。

 ある日、僕にとっての夏が通り過ぎている事に気付く。秋には沢山の葉々が舞い落ちる。そして、冬の氷の冷たささえ心地よく感じる自分に気付く。僕は遠い過去を探る。そして気付く。誰かと取引した事に。
「お願いです。翔子の側でずっと彼女を見守らせて下さい」

 ある日の僕、屋上にいる。

 夜が来て朝が来て夜が来て昼が来て朝が来て夜が来て。毎日毎日同じ事の繰り返しで、僕はいつか彼女が言っていた『私には明日はやって来ない』の意味をやっと理解する。周りの皆が僕を置いてどんどん成長していってしまう、そんな不安をいつも抱えながら時間が過ぎる。朝ぼらけの時を。
 そんなある日、僕は街角で彼女を発見する。空っぽの彼女を。彼女があまりにも空虚すぎて、僕は急いで後を追いかける。車がぶつかってきても気付かない位に大急ぎで。
 彼女があまりにも寂しげで、僕は声を掛けられずにいる。すぐ目の前に彼女の後ろ姿があるというのに。
 慰めてあげたい。髪を撫ぜてあげたい。後ろから抱き締めてあげたい。笑わせてあげたい。彼女の好きなようにさせてあげたい。
 でも出来ない。僕は彼女に触れる事が出来ない。
「なんで……」
 彼女の呟き。その後、彼女の口から僕の名前が漏れたように聞こえたのは気のせい? 声が小さすぎて良く分からないよ。
 彼女の長い髪が風になびき、方向転換。僕も慌てて角を曲がると、見慣れた風景が広がる。ここは、僕ん家だ。毎日見ているはずなのに、懐かしく感じるのは何故だろう。甘酸っぱい匂いが鼻の奥を刺激する。もう何十年も訪れていないような、二度と帰れない場所に来たような、そんなまどろっこしい想いがするのは何でだろう。
 彼女は僕の家の前を行ったり来たりしている。何をそんなに迷っているの? 昔は良く遊びに来てたじゃないか。さあ、僕と一緒に入ろうよ。
 俯いていた彼女が顔を上げた。僕が好きな強い眼差しだ。彼女は一歩を踏み出した。僕の思いが伝わったみたいで嬉しかった。
 彼女を迎え入れたのは僕のお母さんだ。なんだか、やつれたように感じる。
「ただいま」
 と僕が声を掛けると、一瞬目の奥が晴れた。でも僕に何も声を掛けてくれない。おかえり、って何で言ってくれないの?
 彼女が靴を脱ぐ。僕は見慣れたはずの玄関をぐるっと見回した。何でだろう。やっぱり、すごく懐かしい。このままずっと、ここで立ち止まっていたい、そう思った。
 それに……、さっきから僕の片隅で誰かが警鐘を鳴らしてるんだ。
 この先に進んではいけない。
 でも僕は彼女の後を追わなくてはならない。上がり框に足を掛ける。
 この先に進んではいけない。
 でも、この先に行けば、きっと彼女が悲しんでいる訳が分かるんだ。僕はおそるおそる一歩を踏み出した。
 この先に進んではいけない。
 彼女が入って行ったのは居間だ。扉は開いている。僕は居間を覗いた。
 この先に進んでは行けない。
 誰の言葉なのか分からない。もしかしたら僕自身の言葉なのかもしれない。居間を覗き込んだ僕はその言葉の意味を確かに理解した。
 彼女が泣いている。肩を震わせて、後ろ姿でも解る位に。そんなに自分を責めないで。そう、声を掛けたかったが、今の僕にはもう出来ない。もう、こうして彼女の後ろ姿を見守っている事しか出来ない。
 彼女の目の前にある仏壇には、とびっきりの笑顔の僕の遺影が飾られていた。死んだくせに笑顔の僕がいる。
 明日が永遠にやって来ないのは僕の方だ。

 どうだい? 僕の未来の代わりに君の明日はやってきたかい?

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