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スピシュ![]() オラヴァとスピシュの国民投票地域における郵便局 この地域の状況は東シレジアの混乱や不明確さと類似している。両者の違いは、 テッシェンほど戦略的重要性も注目も浴びていなかった点にあると思われる。 オラヴァとスピシュの国民投票地域はポーランド人の市民よりであった。 しかし、国境は国民投票期間には確定も成立もせず、1924年にもう一度修正が 決定された。 1919年11月にオラヴァとスピシュ国民投票地域の中央事務所の責任者Jブリアン氏がオラヴァとスピシュのコミッショナーと,プラハの郵便通信大臣とのオラヴァとスピシュの郵便局の日付印の国民投票期間におけるc.s.p.のイニシャルの新たな日付印の有効性に関する議論の早期化を望んだ。 1920年8月現在ではトルステネの郵便局だけがまだハンガリーの消印を使用していた。 1920年1月および2月にはおそらく国民投票地区の消印に引き渡された。 この動きはチェコスロヴァキア、特にスロヴァキアの政局の安定の証左である。 より詳細はJテクラ氏の稿「1920年のスロヴァキア国民投票地区における郵便関係の交換」に明示されている(フィラテリー1985年20号参照) オラヴァとスピシュの地区には下記の郵便局が存在した。(各消印の評価は8.4章で記述。) オラヴァ地区 ナムニェストヴォ、トレステナ オラヴァ地区には全部で25の国民投票郵便局と非営利郵便局が運営していた。 (加えて、当時はクルシェントニツァに郵便機能があった。) 地区内のそれらの場所は図8ーオラヴァに示す。 各局のアルファベット順に表39に挙げている。 最初がスロヴァキア語、次に以前の(すなわちハンガリー語)の郵便局名 1920年7月28日、これらの25の郵便局のうち7がポーランドに引き継がれた。 1924年6月2日〜5日、(クラコーヴェの会議の合意) によりチェコスロヴァキアとポーランドの国境は最終確定し、 フラドフカの名前はドルナー・リプニツァ市となった。 チェコスロヴァキア切手百科事典第5巻,POFIS
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