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 3月16日

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前回の絵日記で、

“人間の質”について言及していますが、

けっして「高級な人間と低俗な人間がいる」

といったような単純で差別的な意味を

指し示すものではありません。

人の品性の違いについて、と言ったほうが

私の言いたいことに近いかもしれません。

かつてこの絵日記で、品について語る画家、

堀文子さんの言葉を紹介したことがありました。

 

『そこで品とは何かということになるんでしょうけれど

品とはその人や物に本来あるものなんですよ。

本当であるとか、自然であるとか、そういうこと。

造ったものではなくて、生き生きと

本当に生きているものが品が良いと思うんです。

ごまかすとか、ぶるとかね、そういったものが

見え透くと、ゾッとするほど下品だと思ってしまいます。

だから人間、欲だらけになったら駄目。』

(たぶん堀文子さんが80歳頃の言葉かと思います。)

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前回の「人間の質」という言葉で言いたいことは、この“品性”をどの程度意識して生きている人か、という違い、と言い換えたほうがいいかもしれません。

 

私が子供の頃の漠然とした想像では「歳を重ねていくと人は皆、それなりに賢くなって(品性が身について)いくのだろう、と思っていましたが、

50歳を目前とした私の認識では、残念ながら必ずしも誰もが同じように賢くなるとは(品性が身につくとは)言えない、と思わざるをえません。

 

中学時代はまだ私たち自身が未熟でしたから、他人にあたったりすぐ暴力に訴えたりしたのも彼らだけの責任だったとは思えません。

(むしろ10代前半の人間性は、家庭の文化的環境の格差の影響が大きいと思います。)

しかし、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任をもて」という言葉があります。リンカーンの言葉だそうですが、もちろんそれは顔の造作の話ではなく、

自分の道をコツコツと歩んで経験を積み上げて自己を形成してきた人には(たとえそれが世間的に評価の低い道だったとしても)

その表情からはそれなりの自負心と悔いのない清々しさのようなもの(品性)が感じられ、好感がもたれる顔になる、といった意味だろうと思います。

 

今回、クレーマーの理不尽な攻撃に会い、その人物像を観察しつつ、拙いなりに50年近く生きてきた私が思うことは、

若いうちに(それもできるだけ早いうちに)、自分を見つめて、自己を客観的に判断する習慣をつけられるか否かの違いで、

人はその後の人生で大きく道を違えていく(長く生きれば生きるほど)ように思えてなりません。

若いうちに自分を偽って生きるクセがついて、その後修正する機会なく、(自分を偽る習慣がこびりついてしまうと、自己修正がいよいよ難しくなる)

何十年を生きた人と、自分の良い点悪い点を(まっすぐに)見つめながら歳を重ねてきた人とでは

(先の)品のよい人間性に辿りつけるレベルが大きく違ってくるということは間違いない、と思うのです。

 

自分の50年を振り返ってみると、良くも悪くも私は「絵」に育てられた、と思っています。

「絵」には嘘がつけません。現状の自分が赤裸々にそこに現れてしまうのです。「自分を大きく見せよう」とか自分に嘘をつきつつ描いた絵は、

そういう絵になってしまうのです。

だから絵を良くしようと思えば、自分自身をなんとかしなければならない、ということを絵から突き付けられつつ歩いてこれたことに

今は感謝しています。これからもこの道を、細々とでも歩いていきたいと思っています。

 

追記:私にとっては「絵」が自分を見つめる鍵でしたが、「絵」でなくとも何でもいいのだと思います。

辰巳芳子さんは道元の「典座教訓」の言葉をひいて「日々の食事をつくる、という雑事にも手を抜かず丁寧に行う」ことで磨かれるものがあると

いう意味のことを話しておられたように思うのですが、(イマイチ記憶が曖昧)「食事」にも作り手の現在が露骨に現れると思います。

そうとわかると、ただ野菜を刻むのにも気持ちを込めたくなります。