11月25日

「日本人はリアリズムを失いがちな民族なんです。これは三角だ、円だと、無意味な議論をする民族でして、世界性というものがありません。」

と司馬遼太郎氏は言います。この指摘は、今の日本の指摘としても、ピッタリだと思います。まったく進歩のないことです。

「リアリステックな認識」の反対は「観念的な認識」でしょう。「リアリティ」を強く感じとるためには、

その人自身の生活実感が背後になければなりません。

物事は理屈通りには運ばないこと、人を育てるにしても、次々に襲ってくる予想だにしない事態に対処していってはじめて形になる

、という前提を持てることが「リアリティ」のある認識であり、

「リアリティ」のない認識からくる判断は、的外れなものにならざるを得ません。(これが日本の敗戦の最大原因でした。)

今の政治や行政の方向性のほとんどは「リアリズム」を失った“単なる数合わせ”に過ぎないことを憂慮すべきです。

郵政民営化の反対議員に対する復党だか何だかの話も、タウンミーティングの国民の意思の尊重の実態も、いじめ問題での

文部科省学や教育委員会・校長も、気にしているのは「数さえあってりゃいいんだろ」という姿勢ばかりが目立っています。

 

各現場で「リアリズム」を持って最前線で仕事をしている人間には、そのトンチンカンさは目にあまるものに映るのではないでしょうか。

生活観がないために「リアリズム」を持つことも、持とうとすることもない(永田町の事情しか知らない)人間を過度に支持して

権力をほしいままにさせるべきではない、と私は強く思っています。