12月2日

自分で過去の絵日記を読み返しても、初めから結果のわかっている総裁選のあった9月頃から、権力者の暴走の危険について書いています。

しかし、その時は、「もし、権力者が国会の過半数を握っているのをいいことに、自分の都合のいいように振舞ったら、こういう危険がありますよ」

という警告を発しておくべきだ、というくらいの意図でした。私の取り越し苦労であってくれれば、それに越したことはない、と。しかし現状は、

私が思っていたよりも早く悪い方へすすんでいます。権力者は一度、自分の無理が通る経験をすると、次々にエスカレートしていくようです。

 

安倍政権は、自民党への復党議員にしたように、「国民を自分の言うことを聞く(文句を言わない)私兵にさせる」ことを、欲求の根底に

持っているようにと思えてなりません。かつて民主党西村眞吾氏が「国家のために死ねる人物を育てるのが教育の理想」といったように。

あるいは森前首相が、「無党派層は選挙の時に、寝ていてくれればそれがいい」といったことも消極的な意味で似ているように。

 (しかし復党のやり取りをみていると、国会議員たる者が、これほどまでに自分の信念も理想の国家像も持っていないことに驚きますね。)

彼は大臣の組閣にしても、各種の専門委員会でも、自分の意見に沿う論客ばかり集めています。

教育審議委員会の戸田忠雄氏をテレビでみましたが、自分だけが正しくて、他人の意見はただ叩くだけ、という視野も懐も狭い酷い人物でした。

こういう人が、教育の責任を現場の教師にすべて押し付けるような結論をまるで、世界の真理のごとく打ち出すのかと思うと、背筋が寒くなります。

 

司馬遼太郎氏は、「中国は科挙(試験)で官僚を選ぶようになってから凋落した」と書いていたように思います。

テストで一番をとることが生き残る唯一の道だとしか考えられない官僚達は、国民を人間的にやせ衰えさせても、競争に勝つためには弱者を切り捨てて

強いものだけを特化すればいい、と考えているように見えます。

しかしそれは、かつて“西洋文明の追従という明瞭なレール”があって、獲得すべき「力とルール」が単純な時代の話ではないでしょうか。

 

この時点において誰が見ても軍事力、経済力など、腕力最強のアメリカですら、好き勝手な振る舞いはできなくなってきている世界において、

一番でないものが生き残っていくには、一番の強いものものに媚を売ることではなく、人間的にそれぞれの魅力を磨いて豊かになることではないのでしょうか。

(生まれの違う者同士がお互いを理解しあう力、お互いに磨いた長所を尊重しあえるような形での対等な関係構築などこそが、これからの世界に必要な、

従って教育においても重視されるべき能力であって、自分の国家だけを上位のものと思わせることは、孤立と滅亡の危機を招くだけです。)

 

そう考える私にとって、政府や文部科学省、各教育委員会の権限を増して教師と生徒に首輪をつけるような今度の教育基本法の改悪や

場合によっては国家に都合の悪い発言をしただけで罪になりかねない(国民に首輪をつける)「共謀罪」の成立などは、

悪政以外の何ものでもありません。

 

ユニセフで仕事をしている杢尾雪絵さんの(NHKの番組「プロフェッショナル」での発言での)次のような言葉が印象に残りました。

「戦争を始めるような権力者に、戦争の後始末をつけられる人なんかいないんじゃないでしょうか」 まったく同感です。

 

願わくば小林多喜二の「蟹工船」が過去の話であってくれることを祈り続け、絶望によって諦念と無気力に襲われないようにしたいと思います。