11月18日

「美しいこの国を愛せ」という教育への転換が権力者によって行われました。 私にいわせれば「バカも休み休み言え」です。

 

私が「各地の自然・風土のもつ美しさ」を日々探し追い続けていることは、この絵日記を見てくださっている方々には同意していただけるかと思います。

そうしたライフワークから常日頃私が感じるのは、「美しさ」を感じるためには、“自分自身の心の状態がどのようであるか”という自覚ができて

(無意識であれ)初めて成り立つ、ということです。「美しさ」と「みにくさ・単調さ」は心理的に表裏一体であり、

裏があって表が引き立つ関係だと感じます。

具体的に豊かな表情を持つ大地の恵みのある場所へ行って刺激を受けることも大切ですが、行くだけでは心に響く「美しさ」を感じることはできません。

 

「いつまでも美しい」というものはない、と私は断言できます。「美しさ」は、はかないものです。移りゆくものです。だからこそ「美しい」のでしょう。

その対象が移りゆくだけではありません。それを感じとる自分の心こそが“はかなく、移りゆくもの”だという自覚が必要だと思います。

「闇(やみ)」を知らない者に「光」のありがたさはわからないはずです。

「つまらないもの」を知らない者に「魅力的なもの」の価値も感じられないはずです。

大切なのは、外界と自分の心の内にある「光と影」「美しさとみにくさ」などの両方の姿を

真っ直ぐに(見たくないからといって捻じ曲げることなく)見つめ、

一瞬の“対象の輝きや自分の心の輝き”の価値の大切さを知ることのできる感受性と価値観を獲得することのはずです。

 

人間世界の暗い側面が見えてくればくるほど、他意を持たない自然の営みに身を任せる動植物たちの生き様への敬意が増してきたりします。

それは不幸なことかもしれませんが、自虐史観とかいって「光」の側面だけを教え込もうとするなら、

何が「輝き」なのか理解できないのではないでしょうか。

 

「日本の風土は美しい」などと、“美しいもの・素晴らしいもの”を観念的に教え込まれる子ども達の感受性は、間違いなく鈍っていくでしょう。

「美しいものは何か」がすでに決まっている(!)のですから、別に自分自身で苦労して感性を研ぎ澄まし、心の状態を観察しなくてもいいのですから。

もしこの教育制度が広く日本中に定着するなら日本人の感受性は確実に低下し、しばらくの間、日本は文化的に間違いなく沈滞すると私は思いますね。

この教育制度の下で学ばされる子ども達がかわいそうです。こうした権力者寄りの政策を支える、私達の世代の愚かさを申し訳なく思います。