3月18日

入学・卒業の季節をむかえて、再び国歌斉唱強制問題や愛国心問題などが話題になっています。

子供達から公共心や人を思いやる気持ちが失われたことに対する行政側の政策ということですが、なんとまあ貧しい発想なのでしょうか。

政治家など国家公務員側が自分の地位と権威の維持を図るために、国民の組織への忠誠心を強化するあざとい計略、というならば人の欲望として

まだなんとか(うんざりしながら)理解できますが、「人の道に必要なのは国家への忠誠心だ」と本気で思っているのだとしたら救いようがないですね。

 

中国古典をかじり始めて分かってきたことのひとつに、かつて日本にあった道徳心の基礎は儒教を学ぶことによって維持されていた、ということです。

それを明治以降、思想・教育を西洋文明への追従へ全面的に切り替えたときに、その道徳面の教育カリキュラムもすっかり捨て去ってしまいました。

一方、欧米では個人主義や合理主義の背景にキリスト教精神が太く流れており、「人間は罪深い存在である」という意識が理解されています。

ところが日本では、欧米文化の輸入・吸収の際、そうしたキリスト教的精神をきれいに取り除いて、「自由(個人の権利)」ばかりを吸収しました。

 

つまり、儒教的な道徳意識教育を捨て去り、キリスト教的な倫理観も受け取らないまま、「自由の権利」のばかりを吸収した結果、

「法に触れなきゃ何をやっても個人の自由」という状態が生まれたのであって、国を愛する心が失われたからではありません。

(愛国主義者である国のリーダーがこの“免罪符をやたらと使ってみせることで、“愛国心”が「自由の暴走」の歯止めにはならないことを証明してます。)

 

「何でもあり」の社会の究極は、暴力が支配する動物的社会です。フィリピン戦で生き残った山本七平氏によれば(「私の中の日本軍」)

終戦直後、収容所に囚われ軍の階級秩序から開放された日本軍人収容所内の社会は、あっという間に暴力の支配する社会になってしまったそうです。

当時の米軍の捕虜と対比分析し、「日本人には、家を建ててその中に住むように、秩序を立ててその中に住む、という意識がない。」と書いています。

動物と異なり人間は、言葉を用いてルールを確立し、過剰な競争を抑制することで余剰になったエネルギーを生産に振り向けて文明を発展させてきたことを、

現代日本人はどのように考えているのでしょうか。それでも「無秩序に近い(しばりがない)ほうが自由になれる」という甘い考えを持っているのでしょうか。

 

儒教に帰れ、とかキリスト教に学べ、と主張したいのではありません。19世紀の中国、現代のアメリカを見れば、どちらも欠陥を内包しているのは明らかです。

年上への尊敬が形式的になって年功序列のような硬直化したシステムを生み出したり、絶対神を崇拝して他の神々に排他的になるべきではありません。

今、必要とされているのは全人類がそれならば従える、と思える緩やかなルールの創出であって、“愛国心のおしつけ”ではありません。

これからの時代はトランス・ナショナル(国境を越えた国家間関係)を模索することが私達の世代に課せられた課題なのであって、

国家至上主義を強める今のアメリカの政権やそれを真似る日本の政権の方向性は時代錯誤もいいところだと思います。

 

そもそも形ばかりの“愛国心”や天皇制維持ができなければ「日本の誇りは失われる」というほど、日本の文化、そして自我はそんなに貧弱なのでしょうか。

日本の風土が生み出し、いまでも生活に根付いて脈々と流れ続けている(自分が持っている)ものがあることを認知して評価しすることができないために、

大きな看板になりそうなものを後生大事に掲げ続けるのが最善と固辞して、世界から孤立してゆく様は、まさに枯れゆく国の姿を象徴しているようです。

 

このグローバルなモラル構想が「空想の産物」との批判を恐れる必要はありません。なぜなら、“理想を持たない人間が何かを創作したことはない”のです。

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