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3月18日
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他人(ひと)を誨(おし)うるがごとく もしおのれに 行ぜしめなば おのれ先ずよくととのい やがて他者をもととのえん
おのれをととのうる げに 難(かた)ければなり 「法句経 (遅くとも7世紀以前に成立) 第十二品 自己」より
仏教にしても中国古典にしても、東洋の知恵の中心は“修身”ですね。よく言われる日本人の礼節、というのは、こうした背景に支えられていたわけです。
ところが、文明開化以降の西洋文明を追従するにあたって、日本人は、それまでの“修身”の教育カリキュラムの一切をあっさり捨て去りました。
「個人の権利」は吸収しても、西洋文明の奥底流れるキリスト教的倫理観「人間は罪深い存在である」という前提を学ぶこともありませんでした。
そうして育った私達は、“人間はかくあるべき”ということを考えることもなく、自己の利益のために「自由に」「個人の権利」を振り回すようになったのであって、
国歌を起立して歌ったり、「愛国心」という言葉を覚えたりすることで荒れた世の中が改善されるという発想は、あまりに貧弱な思想といわざるを得ません。
(河津桜)
追記 : 私は戦前の学校に〈修身〉の授業があったことを知りませんでした。この旧制校の〈修身〉の授業の内容がどのようなものであったかわかりません。
優れた〈修身〉が実践されていたかもしれませんし、〈修身〉の名の下に〈国体〉教育がされていたかもしれません。
しかし、私がここでいう〈修身〉とは、字のごとく“みずから身を修める”という意味です。
司馬遼太郎氏は、本来の(小乗)仏教について、みずから修行して無我になる、解脱するという、凡人には到達至難の天才の道である、と述べています。
理想的な〈修身〉とは、おそらくそういうものであって、目標としてめざすものではあっても、通常、到達することは難しいところでありましょう。
しかし、完全になるのが不可能だからといって、〈修身〉の意味がうすれるわけではないと思います。
また、「国に尽くすのが真の〈修身〉だ」などという、権力者・組織に都合のいい解釈に利用されないよう、枝葉でなく幹を読むことも大切だと思います。