4月1日

デビット・ボウイが少しなげやりに「すべての作品は、なにかのコピーの寄せ集めにすぎないんだよ」と話すのを、むかし雑誌で読んだのを覚えています。

よくわからないけど、そうなのかなぁ、と、学生の頃私は信じるでもなく、疑うでもなく、受けとめていました。

一方、「人の一生はリレーのランナーのようなもので、前の世代からバトンを受けとって、(できれば質を上げて)次の世代に渡すこと」という

誰かの比喩表現をどこかで読み、近頃の私は、この考えに共感する気持ちが強くなっています。

ネガティブな捉え方と、ポジティブな捉え方の違いはありますが、この2つの意見は同じことについて言っているのではないでしょうか。

 

前回、U2とバッハを例に“作品の魅力をすべて作家の個性にみるのは少し違うのではないか”ということについて書いてみましたが、

その考察をさらにすすめてみると、「創作」というもののうち、その人のオリジナリティが創り生みだすのはたぶん1割くらいで、

残りの9割の部分はそれ以前にあったもののアイディアなり技術なりの継承(コピー)で、作品は組みあがっているように思うのです。

 

近年、このテーマが論ぜられる時、作品がオリジナルかコピーか、ということが問題とされます。

確かにゼロ(全くのコピー)か1割(オリジナル含)かの相違は、たいへん重要なことです。

しかし、ゼロか1かについてだけでなく、「1」は大切だけれども、残りの「9=継承」の質も「1=個性」を生かすために大切ではないか、ということや、

“オリジナリティの価値”とは「量」の問題ではないだろう”という二つのことが、私の心に引っかかります。

 

20世紀後半は“個性の尊重の確立”と“工業生産性における新しさの価値”を背景とした《独創性=1》が強調された時代だったのではないか、

逆にいえば、《独創性》に基準を置きすぎたために「1」という“量”を「4」とか「7」に拡大しなければならないとか、

ついには「全て=10」をオリジナルで埋めなければアートじゃない、という独創性至上主義が跋扈した時代なのではないか、と私は感じます。

 

だからこそ、デビット・ボウイは「所詮コピーにすぎないんだよ」などと、自分のやっていることを自嘲気味に語らなければならなかったのかもしれない、と。

独創性と共に、質の高い継承(コピー)の価値を考え直してみるのも面白い、一寸そんなことを考えてみました。

(木蓮)