6月4日

何事においても、本質を見抜くことのできない人ほど《カタチ》にこだわる、と思います。

ある行為の本質を理解し把握できている人間にとって、それがどのような形式によって存在しているか、ということは二の次の筈です。

例えば「誰かが、ある人のことを大切に思っている」ということの表現について思い浮かべてみれば、その《カタチ》は実に様々でしょう。

饒舌に「大切だ」ということを語る人もいれば、日常の態度の端々にそのことが現れているにもかかわらず全く寡黙な人もいます。

それらのうち、ある一つの表現(形式)こそが(他の表現より)深い気持ちの証明になる、なんてことはわからないことでありましょう。

《カタチ》にこだわるのは、そのことの意味がよくわからないのに、わかっているフリをしたい、という見栄がそうさせるのだと思います。寂しいことですね。