(2002.03.16)
老舎は諧謔味あふれる文章が魅力的なのだが、この作品では第一部の後半あたりから初めのころの軽妙さが消えて、だんだん深刻な雰囲気になる。そもそも「亡国」というモチーフ自体が深刻なものなのだが、それを真正面から書かれてしまうと、もう息苦しくってたまらない。魂を売って奸漢になるか、愛国者として生命を犠牲にするか、という二者択一を読者にも迫るような文章だ。この問題自体は重要だが、それは私が老舎に望むことではない。老舎に期待するのは、そうした状況の中でもへこたれずに生きる愛すべき人々の姿であり、瑞宣のように苦悩するインテリの姿ではない(うん?私が言うべきことではないかも?)。いや、『駱駝の祥子』も最後は決して…。
もう一つ面白いのは、北平の人間はほんの少しのものをもらっただけで、天ほど大きなことをしてくれる、ということ。これは北平人に限った話ではなく中国人全体の傾向のようだ。日本でも欧米でも、汚職の基本は特定の案件に対して不正な請託をし、不正の内容に応じた相応の報酬を支払うということだ。法的に立件する場合も、依頼された方に職務権限があることが必要だし、賄賂の授受などがなくてはいけない。いけないかどうかしらないが、報酬も受け取らずに便宜供与することはない、という大前提に立っている。
しかし、中国人にはこれは当てはまらない。『金瓶梅』の西門慶もそうだったが、報酬の有無にかかわらず、仲間から頼まれたことは聞いてやる、というのが基本だ。職務権限も曖昧なものだ。有力者に依頼すれば、その人の職務とは直接関係ないところまで話は通る。結局、密告一つで首が飛ぶような社会で生き抜くためには、目先の欲得を度外視したコネクションの広がりが必要なわけだ。報酬は金ではなく恩義そのものなのだ。だから、普段からずるずるべったり、ズブズブの関係を作ることに腐心する。有力者とコネがあることは千金よりも尊いことなのだ。
これを踏まえた上で、もう一度あのポジティブな人生訓を読むと、常識の裏側にあるものが透けて見える。つまり、悲観的で内向的で非社交的なことは決して悪ではない。少なくとも、奸漢は楽観的で明朗で社交的だ。前者が後者に対して道義的なコンプレックスを持つ必要は全然ない。悲観的な人間が即高尚ではないが、高尚な人間は往々にして悲観的だ。まあ、性格が暗くて友達がいなくても、心根が正しければ自信を持ちなさい、ということかな。そこまで達観するにはかなり多くの苦悩を経験しなければならないだろうが。