†貧乏カメラ館†

ズームコンパクトとブリッジカメラ

(2008.06.06)

先日、ごく初期のズームコンパクトについて調べていて、意外なことに気が付いた。現在の我々の常識から考えると、コンパクトカメラの発展は、次のような直線的なスペック向上の歴史と思いがちだ。

  単焦点→二焦点→2倍ズーム→3倍ズーム→高倍率ズーム…

また、一時流行ったブリッジカメラは、こうしたコンパクト本流の流れとは別の、言わばバブル時代の徒花だったと思っていた。しかし、この認識はどうも間違っていたようだ。少なくとも、二焦点から2倍ズームへの移行に関してはかなりの逡巡と屈折があり、ブリッジカメラも、コンパクトカメラの発展史の中から必然的に登場して来た存在のようなのだ。あえて、その歴史を直線的に表現すれば、むしろ、次のような順序になる。

  単焦点→二焦点→ブリッジ(垂R倍ズーム)→2倍ズーム→高倍率ズーム…

●ズーム機の意味−−2倍じゃしょうがない

ポイントは、二焦点機と比較して、当時の2倍ズーム機には実用的なアドバンテージが何もないということ。35-70mmなどという狭いレンジのズームであれば、35/70mmの二焦点と便利さは変わらないし、むしろ二焦点機の方が小型化・軽量化・大口径化・低価格化の点で有利である。

あえてズーム機を出すのであれば、35-105mmクラスの3倍ズームでなければ意味はない。そして、当時の技術で3倍ズーム機を出すには、ブリッジ機のような大きなボディが必要だった。それは、バブル時代の熱に浮かされて豪華に作ったというよりも、技術的に大きくせざるを得なかった故の、またコスト的に高価にせざるを得なかったが故の選択だったわけだ。

そうした時期を経たのち、小型化技術が進歩し、同時に高感度フィルムの品質向上により、レンズの小口径化が許されるようになり、ズーム機の圧倒的な小型化が可能になった。そうした時代になって、ようやく2倍ズーム機が普及するようになったのだ。その意味では、ブリッジ機こそがズーム機の初期形態であり、2倍ズーム機よりも早く普及したとも言える。無論、そうは言っても、やはり順序で言えば2倍ズーム機の方が先に発売されている。その辺りの事情を、具体的な製品を見ながら実証してみよう。

●ズームコンパクトの登場

世界初のズームコンパクトは、おそらく1987年発売のPentaxのZOOM 70だったと思う。きちんと調べたわけではないが、手許の資料には、それ以前のズームコンパクト機は存在しておらず、また、当時の状況から言って、海外メーカーが日本メーカーに先んずることも考えにくい。ということで、このPentax ZOOM 70を起点に考えてみる。

このZOOM 70の特徴は、まず、重量が480gもあること。一眼レフのボディ並だ。また、レンズが35-70mm/F3.5-6.7と比較的明るいこと。さらに、マクロモードや逆光補正、日中シンクロなどの機能を持つこと。初代ZOOM 70ではストロボ発光禁止こそできないようだが、巨大な外観、大口径レンズ、多機能と、スペック的には既にブリッジカメラに近い存在になっている。形状こそオーソドックスなカメラスタイルだが、コンセプトとしてはブリッジの先駆けと呼んで差し支えないだろう。

●他社の追従は…?

では、このカメラはどの程度売れたのだろうか? 残念ながら資料がないのでよく判らない。しかし、必ずしも爆発的な売れ方はしなかったと思う。というのは、他メーカーの追随の動きが鈍いのだ。まともな対抗機種を出したのはオリンパスだけだったと言ってもよい。OLYMPUS AZ-1 ZOOMは35-70mm/F3.5-6.7で重量430g、マクロ機能付きと、ZOOM 70とほとんどまともにスペックがぶつかっている。

しかし、オリンパスの追従姿勢はむしろ例外的で、ニコン、キヤノン、ミノルタ、富士といった他の有力メーカーは、少なくとも直後に直接の対抗機を出すようなことはしなかった。コニカはZ-Up80(40-80mm/F3.8-7.2)を出したが、これは少しコンセプトが異なっている印象だ。むしろ目立った動きは、京セラがいきなりSAMURAIを出し、チノンがGENESISを出して来たこと。ともに、レンズ固定式一眼レフタイプのブリッジ機だ。

つまり、オリンパスを除く各社は、2倍ズームコンパクトを無視するか、飛び越えてブリッジに走るかの両極端の態度を取ったのだ。この当時、各社とも35mm/70mmクラスの二焦点機をラインナップしていたので、2倍ズームというスペックに逡巡があったのだろう。前述の通り、二焦点機を出しているメーカーにとって、2倍ズーム機は何のメリットもないように思われたからだ。その判断自体はしごくまっとうなものだと思う。

●ブリッジカメラの本格登場

だが、少なくともユーザーはそうは考えなかったようだ。これは、他の技術についても言えることだが、実用性云々ではなく、それがユーザーにどんなイメージを与えるかのがセールスを左右する。そして、ズームは二焦点に対してセールスで優位に立ったのだろう。しばらくすると、キヤノンもニコンも2倍ズーム機を発売するようになった。その一方で、先んじたOLYMPUSは逆にIZM 300を、リコーはMIRAI/MIRAI 105を、ミノルタも38-90の3倍に近いズーム機を出して来た。ニコンも35-80とやや倍率の大きな機種を出した。

つまり、ズーム機のセールス上のアドバンテージを認めつつ、2倍ズームの限界を初めから感じていたのだろう。ズームは3倍クラス以上でないと意味はないと。そして、この時期の技術では、3倍ズーム機は巨大化せざるをえず、必然的にブリッジへ走るワケだ。オリンパスのIZM、L、キャノンのAutoboy Jet、ミノルタのAPEX 105、富士のZoom Cardia 3000、チノンのGENESIS、リコーのMIRAIなど、ほとんどのメーカーがブリッジ機を出した。ニコンとペンタックスは明確な形のブリッジ機を出す事はなかったが、しかし、スペック的には明らかにブリッジと呼べるような大型コンパクトを出していた。

●ESPIOが全てをひっくり返した

そして、1992年、突然ペンタックス(またもペンタックス!)は、潮流を180度変えるような超小型ズーム機を発売した。それがESPIO。以後、各メーカーとも雪崩を打ってズームコンパクトの小型化・高倍率化に走ることになる。つまり、初期のズームコンパクトはブリッジの素形として登場し、ブリッジという形で花を咲かせたあと、小型化され爆発的に普及したのである。ブリッジ機はズーム機の高機能版なのではなく、実はズーム機の祖先だったわけだ。


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