ながやま的 釣りのはなし
(2)
日本人の心を知る上で、「食」を抜きに何を語ろう。ましてその核にある「刺身」無くして何を語ろうか(ガリレオ・ガリレイ)
ということで
いきなり大嘘から始まりました第二回は「刺身」についてつづろうかと思います。
まぐろ、鯛、ヒラメ、イカなど 豪華な盛り合わせが想像されますが、あくまで「釣り人」にとっての、ひいては私にとっての刺身観を語ろうかと思います。釣りに行った日に「刺し身で食ったぞ」と言えば、それはすなわち「それくらい大きなサカナを仕留めたぞ!」と言うに等しいかと思います。
つまり釣り人が言う「刺身」はイコール「大物」と言う訳です。そこには、そこはかと無い幸福感があり、
実際釣りからかえってきた人に「刺身にして食ったよ」と言われると、よほどの大物だったのだな・・と、イメージのみが膨らみます。しまいには船盛りされたサカナが華やかに頭を巡ったりもします。
そして「自分も釣りたい」と心焦がすのです。
なので、そんな刺身サイズの大物を釣ってしまうと もう大変。ここぞとばかりに悲しいほど雄弁になってしまい
その日の天気、釣れたときのエサ、時刻、仕掛けに至るまで、事こまかに語りはじめます。
そう それはただの「釣り自慢」でしかないのですが、分かっているのに止まらない。
ついつい全てをさらけ出してしまうのです。ああ なんて孤独な栄光なのでしょう。
しかし、そんな釣り人の理屈を、聴いてくれる人がいます。
いい釣りをした夜に、快く受け止めてくれる彼らは、まさに神のごとし。実にまぶしい存在です。
どうでしょう 皆さんも大物をしとめて、儚くも美しい「釣り自慢」をしてみませんか?
そして私の釣り話を、あふれる慈悲をもって受け止めて頂けないでしょうか。
この想いー届けー
ということで 「刺身」にするには「大物」と申してきたのですが、一般的にはどんなお魚も
たいがいが刺身になると言うのが通念のようです。
この季節、松島湾の海で、ハゼが釣れ始めます。三枚におろし 皮を引き、氷水にくぐらせる
「洗い」などで食べたりします。ぜひ。
(つづく)