モーツァルト工房 HOMEへ


音質の問題

〜〜聴き手の想像力と音楽の関係について〜〜

 私が発表しているCDの演奏について、主として音色的な面を問題としてかなり厳しくご批判をいただく(ないし音楽演奏と認めることを拒否する旨の通告を受ける)ことが、過去に一度ならずあった。実際、私自身、自分のCDをあまりよいオーディオ装置で聴くと音質や音色の悪さが気になってしまって、鳴っている音たちを音楽として味わうのに支障を感じることがある。

 この問題を手がかりとして、現状ではどうやらMIDIによる演奏を楽しんでいただく上で避けて通れない問題である、「音質」の問題を考えてみたい。そして、音質の問題は、主として「音色」に関係してくるので、けっきょくのところ、以前に一度論じた「音色」の問題を再度取り上げることになる。





1 電子楽器のピアノ音における音色

 かつて私は 別のエッセーにおいて、「音色はフォルムに奉仕する従属的なものである」と主張した。これは言わば、「音楽表現の内容とは結局のところそのほとんどがフォルムに集約される」と言っているようなもので、この考え自身には現在も大きな変化はない。だが、上記エッセーでは、 MIDI音源(電子楽器)が音色上の大きな制約を持っているにもかかわらずこれを用いた音楽表現は可能だ、ということを言いたいあまりに、音色の地位について掘り下げ切れなかったきらいがある。そこで、まずこの点を補足することから始めたい。

 音色がフォルムに奉仕すべきものであるとは、たとえば弱音でやわらかな表情の旋律が奏されるときにはそれにふさわしいやわらかな音色が望ましいとか、感情の高まりの頂点にあたるような音には単に少し大きいというだけでなく豊かな響きの音が欲しいとか、きびしい表情の強音の箇所では単に大きいだけではなく硬質な音色がふさわしい、といった類いのことである。

 ふつう、ピアノでは、弱音は音がにぶくやわらかくなるし、強音では自然と硬質な音になる。これが、電子楽器において完全に忠実にサンプリングされていれば、電子楽器による演奏でも、「音色の変化」は、かなりの程度表現されるはずである。

 しかし、それに加えて、私の考えでは、指の形やクッション効果の与え方の違いによって鍵盤が本体に当たる音の具合が操作され、それが弦の発する音と合成されることにより、音色には微妙なちがいが出てくる。そして、それよりもはるかに重要な要素として、他の弦のダンパーの解放の具合(つまりどの音の鍵盤が押さえられているか)と、ペダルの操作によるダンパー解放がある。これによって、共鳴が変化し、音色にかなり大きな変化をもたらす。一口に言えば、他の弦の共鳴が大きくなるほど、減衰の早さが緩和されて「よく伸びる音」になると同時に、響きの豊かな、うるおいのある音色になる。このあたりは電子楽器では今のところ得られない効果である。

 さて、そこで、電子楽器でピアノ作品を演奏する場合には、「音の強さに応じて音色サンプルが切り替わっていき、弱い音はやわらかな音色、強い音は鋭い音色で鳴ってくれるようになる」という特性を生かすことで、演奏に音色の「自然な」変化を取り入れることができるはずなのだが、実は、現在までのところ、この点で満足な性能を持つ楽器をまだ私は手にしていない。

 私がNo1のCDに収録した演奏などで用いた「SC-88」程度の楽器だと、音色サンプルの切り替えはかなりおおざっぱであって、この楽器の場合で言えば、ベロシティー(鍵盤を叩く速度=音の強さ)値70を境目にして、突然、非常に固い音に変わるようになっている。私はこの切れ目が音楽をぶちこわしにすると感じることが多いので、ほとんどベロシティー70以下の音のみを使うようにして演奏を構成した。相対的な音量幅と音量変化のキメ細かさはこれでも十分に確保できるからである。

 しかし、その結果、私が演奏したモーツァルトのソナタは、いずれも音色的に極めて単調な、非常に地味なものとなった。音のタイミング管理(各音の鳴るタイミングや長さ)はもちろん、音の「大きさ」についても可能な限り自己の表現意図を実現するために一音一音煮詰めて精細を極めようとしたが、そのさいに、音質が貧しいことや音色の変化があまりともなわないことに対しては、目をつぶったものになっていると言ってもよい。

 だが、それにもかかわらず、こうして出来上がった演奏は、私の耳には、制作環境で鳴らしてみる限り、モーツァルトのソナタの演奏として音楽的なものだと聞こえた。楽曲演奏だと認められるのに必要なだけの表現内容は備えていると思った。そして、演奏のかなりの精密さと表現のかなりの緻密さ(ただし私は大袈裟な崩しが嫌いなので非常に控えめなものだが)とそこそこの流れの良さが共存している、などの点で、それなりに、他のピアニストの演奏にはあまり見られない独自の美質を持っていると思った。総合的には、好き嫌いは別として、音楽表現としてある程度の魅力を持つものができたと考えた。

 上記の私の「自画自賛」が、少なくとも「まったくの一人よがり」ではないということは、発表から半年ほどの間に No1のCDに対して寄せられたご感想 をごらんいただければ明らかであろう。

 しかし、パソコンの内蔵スピーカや CDラジカセ、私のおんぼろオーディオ装置などで鳴らしている間はいいのだが、ある程度以上の品質を持つオーディオ装置で鳴らすと、その音質的貧弱さや、何よりも音色的単調さが強く感じられて、自分でも「思ったほどいい音楽に聴こえない」と感じることがあった。単に音質が貧しいと感じるだけではなく、演奏も精彩を欠く、生気のとぼしいもののように聴こえるのである。

 この奇怪な現象はなぜ起こるのであろうか。



2 再生装置の品質と人間の耳

 私は、かつてこういう経験をした。

 中学1年のころ、私は語学用のカセットテープレコーダーを使用して FM放送を安物の120分カセットテープに録音して鑑賞していた。夜な夜なそうしたテープのあれこれを、競馬中継を聞くのにおじさんたちが使うような白いモノラルイヤフォンで聴きながら寝たものだった。アルフレート・ブレンデルやクララ・ハスキル、スヴィアトスラフ・リヒテル、ワルター・ギーゼキング、フリードリヒ・グルダ、グレン・グールド、ウラディミル・アシュケナージ、クリストフ・エッシェンバッハなど、当時の私を魅了した数々のピアニストたちは、そのほとんどが、語学用カセットテープレコーダーから、「白いモノラルイヤフォン」を通じてそのすばらしい音楽を語りかけてきてくれたのである。

 こうして愛聴していた演奏のうちのいくつかを、私は、のちにLPレコードで手に入れたことがあった。テープはそう何本もないので、別な録音をするために次々に「上書き」されてしまうし、やがてテープ自身が何度も切れたりレコーダーに巻き込まれてしわくちゃになったりで、使用に耐えなくなってしまったりもしたので、中学1年のころ愛聴していた演奏のほとんどはすでに手元になかった。そこで、そうした演奏をレコード店でたまたま安く見つけたりすると、「あっ、これはきっとあの演奏だ!」と思って、矢も盾もたまらず、財布をはたいて買ってしまったりしたのである。

 だが、それほど上等ではないものの、一応はオーディオ雑誌を参考にしながらコンポーネントステレオを揃えてもらっていた中学3年か高校生ごろの私が、新品のLPレコードを買ってきて鳴らしたそれらの「懐かしい演奏」を構成する音たちのうち、もともとのソースが古い(つまりあまりよい録音ではない)ものは、奇妙なことに、なぜか、むかし白いモノラルイヤフォンで聴いたときほど美しい音だとは思えなかった。演奏は確かに聴き慣れた「あの演奏」に違いない。だが、私には、どうしても、「これなら中学1年のときに白いイヤフォンで聴いていたときの音色のほうがずっときれいだった」としか思えなかったのである。

 この経験もまた、いま問題にしている、「No1やNo2のCDに収録した演奏は、あまりいい装置で鳴らすと、その魅力が減少する」というのと、同じ現象を示しているのではないかと私は思う。

 では、「録音ソースの品質がよくない(古い録音の)演奏は、貧弱な装置で聴くほうが美しく、いい装置で聴くと、かえって音色や音質が美しくないと感じられる」という、この逆説的な現象は、なぜ起こるのであろうか。これは、再生装置の品質がよくない場合、人間の耳に、次のような二つの作用が働くからではないか、というのが私の考えである。すなわち、

1 再生装置の品質が低いことを察知して、音質・音色について補正する作用

2 そのさい、音楽が持つ力に導かれて「その表現内容にふさわしい音色」を想像で補って聴き取る作用

 という、二つの作用である。1と2は、同じことを言っているようだが、2は1を前提としつつ、「音楽表現内容との関連」を持つ点で少しちがうのである。

 まず、1の「再生装置の品質が低いことを察知して、音質・音色について補正する作用」について考えてみよう。たとえば、甲子園球場で行われている高校野球中継を「ちょっと電波が悪いな」などと思いつつ小さなポータブルラジオで聴く場合。アナウンサーの声も球場の歓声も、音質的に途方もなく貧弱なものであって、「声のプロ」であるアナウンサーの美しい生の声や、球場で実際に聴かれる大歓声とは、月とスッポンほど違う。「キーン」という雑音や「ザー」という雑音などもほんとうは鳴っていて、聴きはじめたときは気になったりしている。しかし、試合の経過を追いながら必死で耳を傾けて聴いているわれわれは、アナウンサーの声を目の前でしゃべってくれているほどの臨場感ある声に感じたり、球場の大歓声をまさに大歓声と感じながら聴いたりすることもできるのである。

 このように、人間の耳は、「アナウンサーの声」や「球場の歓声」をおよそどのようなものか知ってさえいれば、聞こえてくる音に、いわば「バイアス」をかけて補正を行い、「実際に聞こえているよりもうんと本物らしい、本物に近い音」に「変換」しながら聴く、という能力を持っているのである。

 これが、音楽を聴く場合においても起こる。実際のピアノの音とは非常に違う波形を描いているはずの「ポータブルラジオで鳴っているピアノの音」が、聴いている人の誰にもはっきりと「ピアノの音」と感じられるのは、耳で聴かれたさいに、かなり大きな「補正」が行われているのでなければ説明がつかないと思う。

 しかし、ならば、その補正の必要性そのものや、その範囲・程度などを、耳のほうは、どのようにして認識し、どのようにして「補正」のスイッチが入るのであろうか。この点が、本当のところ、私にはよくわからない。ここでは、一応、自分自身の経験を元に推測を述べてみる。

 私は、耳の「補正スイッチ」が入るについては、「周波数特性の狭さ」に対する認識と、「情報の細かさ、情報量」が大きく関係しているように感じる。

 まず周波数特性の問題。「周波数特性がよい」とは、どの周波数の音もソースが持つ音の強さをそのままに再生する能力が高いことなので、「周波数特性が悪い」とは、その逆に、周波数帯域によって再生の大きさに差別が生じてしまうことである。だが、「再生し得る周波数帯域の範囲」もここに含まれる。ポータブルラジオなどにおいては、最低はおそらく百数十Hzであり、最高は7千か8千Hzというところであろうか。ここでとくに大きく影響するのは、この「再生周波数帯域の広さ・狭さ」ではないかと思う。すなわち、周波数特性が劣悪である結果、「低音や高音が非常に貧しい」と感じると、その程度に応じて、補正のスイッチが入り、低音を増強して聴き、高音を増強しさらに高い倍音を「想像で付加して」聴くようになるのだと思う。また、「ある周波数帯域の音が強く(別な周波数帯域の音は小さく)出る傾向がある」ことにより、「音にクセがある」と感じた場合も、同様であろう。「千Hzあたりが強く出すぎたクセのある音だ」と耳(脳)が感じると、その点に関する補正スイッチが入り、千Hz付近以外の音を増強して聴くようになるのではないか。

 もう一つ、たぶんより重要なのが、「雑音の非常な小ささと密接な関係のある、音としての情報量」である。同じソース(つまり波形)を元にしていても、それの細かな部分は、機械装置がどれだけ忠実に再生する能力を持つかによって、出てくる音が持つ情報量(情報のキメ細かさ)は雲泥の差となる。また、装置が雑音(ヒスノイズその他)を持っていると、音が持つ情報の細かい部分(微小な音と言えばよいか)は、ノイズにかくれて聴こえなくなるはずである。※(注)そこで、「情報量が少ない」と耳が感じたとき、人間の耳は、「情報不足を補う」ためのスイッチが入り、不足している情報を補いながら聴くようになる。実際には不足している、音の生気、音の透明感、音の分厚さ、音の力強さなどを補い感じながら聴くようになるのである。

※ そのノイズそのもののほうは、人間の耳は、最初は気になっても、やがて無視するようになる。実際には鼓膜は振動しているのだが、脳のほうでそれをオミットするようになるのである。長時間つけてあったエアコンやパソコンを切った瞬間に、「おや、さっきまではこんなにうるさい音が鳴っていたのか」と初めて気づくのはこのためである。

 
そして、さきほどは「甲子園球場の高校野球」の例を挙げたが、ここでは問題は音楽演奏であるので、音楽演奏の場合に、この「補正」がどのように働くかを、音楽の側から眺めてみよう。これがすなわち、さきほど「2」としてあげた作用について検討してみることである。

 「音楽の表現内容とは、けっきょくのところフォルムにほぼ集約される」と私が言うとき、「フォルム」という言葉には、「それぞれの音を、いつ、どのような高さ・強さ(大きさ)・長さで、どのような音色で鳴らすか」ということが含まれている。いいかえれば、アクセントを含むあらゆるダイナミクスの問題と、音のタイミングに関するあらゆる要素(つまりリズム感の問題やルバート・アゴーギクなど)が含まれていているし、さらに、それに付随あるいは従属して、「それぞれの場面にふさわしい音色(とその継時的変化)で奏すること」という問題も含まれているものと私は考えている。

 重要なことは、音楽表現に関わる要素が上記のものに尽きるとすれば、どんな安物の再生装置も、「音色」以外は問題なく再現できると考えてよいということである。
(注)音楽表現に関わる要素は、上記のものに尽きる、というのは、必ずしも自明のことではない。たとえば奏者の容貌や身振り手振り、表情の変化、舞台上の演出などの視覚的要素や、お客さんの反応を重要な契機とするその場の「雰囲気」のようなものも不可欠のものとして含まれる、という立場もあり得る。ライブ演奏のみが真実の音楽だと考える人たち、すなわち私が言う「音楽はライブだ派」の人たちは、きっとそう思っているはずだ。だが、言うまでもなく私は「音楽はライブだ派」ではないし、この派に属する人は、当ページにとっては縁なき衆生であろう。
 と言うと、「ポータブルラジオで、ブルックナーの交響曲のフォルム表現に必要なだけのダイナミクスが得られるのか?」といった疑問が、あるいは出るかも知れない。だが、これに対して私は「得られる」と答えよう。ただ、できればスピーカに耳を押し付けて聴いたほうがいいと思うが、そうすれば、きっとブルックナーの交響曲も雄大に鳴り響き、ホルンの咆哮にアルプスの峰々をくっきりと思い描くことだってできるはずだ。むかし、山本直純氏が、あるラジオ番組のインタビューで、音楽における音量による効果について、それが「相対的なものであること」、すなわち「音の小さな部分と大きな部分との幅に依拠して表現するものであること」を、芸術的な取り扱いの最大にして唯一の属性として語っていたことがあった。だから、ひたすら絶対的な音量の大きさでもって人を圧倒し、強い「感動」を呼び起こそうとするような者があるならば、それは芸術的な手法ではない、と山本氏は述べていた。私はこの意見に全面的に賛成である。マーラーもブルックナーも、その交響曲のクライマックスにおける大音響を得るために、管弦楽の編成を大きなものへと拡大した。だが、かれらは同時に、必死で耳を傾けなければ聴こえないような、極小のピアニシモを管弦楽団に要求した人たちでもあった。つまり、かれらはいたずらに「大きな音そのもの」で聴衆の心を捉えようとしたのではなく、自分の音楽の表現のために、従来よりも大きな、ダイナミクスの「幅」を得ようとしたに過ぎないのである。だから、その「幅」を感じることさえできれば、物理的に「大きな音」が鳴っている必要は、さらさらない。

 そこで、残る問題は「音色」だということになる。再生装置によって「音質」が大きく異なるものである以上、「音色」は、再生装置によって、それぞれまったく違うものとなっている。場合によっては、実は似ても似つかないほど違うものになっているのである。

 しかし、ここに、われわれの耳の「補正能力」が関与してくる。そして、この場合、聴いているのが音楽である以上、われわれの耳は「物理的な音そのもの」を聴いているのではなく─── いや、そうなのだが、それを通じて───「音楽」を聴いているのである。

 そこで、いま仮に、石田が弾いたモーツァルトのソナタを、 CDラジカセで聴いているとしてみよう。再生装置の性能が十分でないために、ノイズもあり、周波数特性も十分ではないし、スピーカーの能力の限界もあるから、音色に関する情報が「少ない」と耳が感じる。そのとき、われわれの耳は、何をするか。音楽から感じ取れる表現内容にもっともふさわしい形で音色に関する情報を補おうとするのではないか。鳴っている音楽に共感があればあるほど、自分が思い描き得る最高に美しい「音色」となるように、情報の補正を行うのではないか。

 たとえばいま、音楽に盛り上がりがあり、フォルテで和音が打ち鳴らされた。聴き手がその盛り上がりに強く共感していたら、聴き手の耳は、その和音を構成する諸音の音色に対し、その場合に期待される、しかし実際には鳴っていない、「硬質で鋭い音色」へと、音色の変換を行いながら聴くのではないか。たとえばつぎに、音楽はピアニシモとなり、そっと羽根で触れるようなやさしいささやきを奏でた。聴き手がその音楽のやさしさに強く共感していたら、聴き手の耳は、そのささやきにふさわしい透き通ったやわらかな音色への変換を行いながら聴くのではないか。

 そして、おそらく、こうした「変換」が、弾き手である私自身において、もっとも強く起こっていたのである。私の制作環境におけるモニター用システムは、フォステクス製の3千円ぐらいの10cm口径のフルレンジスピーカーユニットを使用した自作バスレフレックス・スピーカーを、アイワ製の古い20W+20Wの普及機アンプで鳴らすというものであって、お世辞にも高級なオーディオ装置とは言えない。もっとも、死んだ親友のビオラ奏者の西田という男は、彼が所持していたミニコンポと比べて私の装置が格段によい音質だと言って驚嘆してはいたが、これは言ってみれば本当に五十歩百歩であって、私の装置は、値段で言えば十万円そこそこのオーディオ装置に比べてすら、おそらく劣るものであろう。

 私は「音色はフォルムに比べて重要ではない」というに近いことを何度か書いたような気がする。だが、だとすれば、これは訂正を要する。音色はフォルムを構成する(あるいは音楽表現を構成する)重要な要素であると言わなければならない。そして、私は、かつて論じた「音色の相対性」についての考察をもっと掘り下げ、「聴き手の耳が音色を補正しながら聴く」という現象について、もっと考えてみるべきだったのであろう。自分が「貧しい音質」の環境で制作していることが、私が作る演奏に対する自分の評価、ひいては私が作る演奏の品質に、どのように影響するかという事情に、私は(うすうすとは感じながらも)はっきりと気づいてはいなかった。(もっとも、気づいた今となってみても、この点、すぐにはどうしようもないのだが。)



3 音質・音色の補正に関する個人差

 こう考えてくれば、私の演奏に対して、「音色の貧しさに耐えられない」とおっしゃるかたがいらっしゃるのは、無理もないことである。それはおそらく、オーディオ装置が高級すぎるか、または、音色の魅力というものを音楽鑑賞のさいに重視されるかたであるか、またはその両方であろう。前者のかたに対しては、私は「ラジカセぐらいで聴いてみてください」と(いかに滑稽な提案に見えようとも)お願いしてみようかと本気で考えているのだが、後者のかたについてはどうしようもないような気もする。

 だが、せっかくここまで考えてきたので、この問題を、「音色の補正に関する個人差」という観点から、少しだけ掘り下げてみようと思う。

 耳の「音質・音色の補正能力」には、きっと個人差があるに違いない。そして、別に自慢でも何でもなく、私などは、おそらくその補正能力が高い方なのではないかと思う。

 なぜなら、私は、上述のような、「若いときから劣悪な装置で音楽を一生懸命に聴いてきた人間」であり、他方、「ピアノなど生楽器の演奏については、一時期はかなりのめり込んだものの、これまでの人生でそのために費やした時間は(たとえばプロや高級アマチュアの楽器奏者などと比べれば、比較にならないほど)少ない」という人間だからである。最も吸収力があり多感であった時期に、語学用カセットテープレコーダーにぺらぺらの120分テープ、白いモノラルイヤフォンで音楽を聴いていた私は、もっぱら音楽のフォルムを追い、そこに、自分が感じ取った表現内容に応じて音色の補正をしながら聴く、という聴きかたが、いわば、染み付いているのである。私が自分のことを「音質音痴の音色音痴」というとき、実は、「音色補正聴き取りの名人」の裏返しというわけで、半分は自慢の気持ちをこめてこの言葉を使っていた気配すらある。もちろん、私とて、たとえばシューベルトの弦楽五重奏第二楽章の内声部の「音色」に陶酔することも知っている。だが、音質については我慢できる。貧しい音質の装置でも私は音楽を楽しめる。それは、少年のときから、そのような「訓練」を行い、自分の耳の「音質・音色の補正能力」を鍛えてきたからなのにちがいない。

 では、私などの逆に「音質・音色の補正」をあまり行ってくれない人たちがいるとすれば、それは、どのような人たちであろうか。高級オーディオ装置を当然のように使っているオーディオマニアもそうかも知れない。だが、そういう人たちをも超える、この種の人の筆頭は、「毎日、自分の奏でる音色に耳を傾け、研鑚を続けている演奏家」ではなかろうか。私のCDについていえば、モノがピアノであるから、誰よりも、ピアニストたちこそが、私の演奏における「音質・音色」を大きな問題と感じる可能性の高い人たちなのではないか。

 それというのも、かれらが毎日、自分で発し自分で聴いている音の「音質」は、言うまでもなく、どんな高級なオーディオ装置からもけっして聴くことのできない、いわば「完全な音質」である。その「完全な音質」による、微妙な音色のちがいに常に耳を傾け、いつも、表現力豊かなフォルムと同時に、それに奉仕する美しい音色を求めてやまない彼らの耳は、「音色・音質の補正」の能力など必要としないし、それどころか、むしろ、「音色の補正をけっして行わない」方向へと鍛えられていくであろう。なぜならば、生楽器演奏家であるかれらにとって、「現に鳴っている音をありのままに聴き取り、その良否を判定する」ことが、何よりも重要だからである。



4 若干の結論

 以上のように、人間の耳には、再生装置の品質が低ければ低いほど、音質・音色に対する補正を行いながら音楽を聴く力が(その程度にかなり大きな個人差はあるが)備わっている。そして、私がこれまでに発表したCDは、音色の変化にとぼしく、音質においてもかなり貧弱なものである。だが、奏者である私は、その貧しい音質・音色の範囲内で、自分に可能な限りの音楽のフォルムの彫琢を行って演奏制作を行った。そこにはもちろん音の強さの変化が含まれる。そして、めざす音楽表現を実現するために一つ一つの音の強さに耳をこらし、くり返し聴いて、ある音の弾きかたを確定していく作業を行っているとき、私の耳は、そこにおいて実現したい音楽表現のために必要な「音色の変化」を、言わば「欄外に書き込んでいる」のである。

 私のモニター環境は、あまり高級なオーディオ装置ではない。そこで、「欄外に書き込んだ音色的要素」は、私の環境をあまり大きく超えない程度の品質の環境でお聴きいただいて、耳の「補正スイッチ」をオンにしていただき、音質・音色に関する「補正」を耳で行いながら聴いていただくときに、初めてあぶり出されてくるのであろう。したがって、少なくとも私のNo1やNo2のCDなどを聴いていただく場合には、あまり高級なオーディオ装置で聴いていただくのではなく、 CDラジカセやミニコンポ程度の装置で聴いていただくようにお願いする。実に奇妙なお願いなのだが、言わば、それが「分相応」な聴いていただきかただということだ。ただ、そうしていただいても、聴き手の耳が「演奏内容に心を寄せながら想像で音質・音色を補う聴きかた」をしてくださらなかったら、あるいは、そういう聴きかたをご自分に禁じていらっしゃるようなかたであったら、私の演奏は、きっと「音楽以前」のものに聴こえてしまうに違いない。

 その意味では「好意的な聴き手」であるかどうかによって、私の演奏に対するご評価はきっと違ってくると思う。音楽を楽しもうと思って耳を傾ける姿勢で聴いていただけるのと、逆に「どの程度のものか、その限界を嗅ぎ取ってやろう」と思いながら聴いてくださるのとでは、耳による「補正」のはたらきかたも、おそらく大きく違ってくるに違いない。後者のようなかたの心に「MIDIピアニストの音楽が届くことはけっしてあるまい」と、私は以前にも書いたことがあった。

 私は「少なくともNo1やNo2のCDについては」と言う。遠からず発表する予定の「No3のCD」の一部の曲については、使用楽器が違っており、若干の音質的な改善はある。だが、それにしても、本質的・飛躍的な改善ではない。音質的・音色的な要素について「耳による補正」を期待せずにすむような演奏を制作できるようになるためには、私の演奏制作環境の革命的な変化が必要なのは間違いないのだろうと思われるのである。

2001年7月30日



「論文」メニューにもどる


HOME


e-mail
ishida_seiji@est.hi-ho.ne.jp

Presented by Ishida Seiji


All rights reserved





Since 1999 Nov.1