一夜にして雪崩の巣と化したザトルワラで僕たちにできることは、 お金の計算とトランプだった。
4月10日 言葉がない時
一昨日、昨日とルクラの街には雨が降り、ザトルワラはすっかり 雪化粧。高所順応活動中は雪崩の心配など全くなし、であったのに そういうわけには行かなくなった。心配事が一つ増え、少々重苦しい 気分でキャラバンIIの初日を迎える。
ポツリポツリとパサンのコーヒーショップの前にポーターたちが 集まってくる。賃金の前借りをして、靴や服などの装備を買い揃えて から歩き出すポーターもいて、全ての装備が動き出したときには 昼を過ぎていた。
パサンにもう一度お礼を言って出発したのだが、こんな時、語学力の なさがくやしい。言いたいことはたくさんあるのにすべて、 サンキューの一言になってしまう。通いなれたチュタンガへの道を 進みながら、あんな事言えば良かった、こんな事言えば良かった、等と 考えながら歩く。
夕刻からしとしとと雨が降り出し、明日からのザトルワラ越えの 不安がのしかかる。
4月11日 思わぬ停滞
朝、堀川に食欲がない。天気も余り良くないがとりあえず登り出す。 皆それぞれ自分のペースで登るが、堀川がいつまでたっても 登ってこない。心配になって自分が様子を見に行くと、堀川は下痢と 腹痛のためチュタンガに下っていた。この日は堀川、自分と クライミングシェルパのニマがチュタンガに、他のものはカルカテンに 泊まることとした。その後の連絡は無線を使用した。ザトルワラは 凄い雪と言うことであった。
翌日は、堀川の体調の回復を待つためと、ザトルワラの雪崩を 考えて停滞とした。
4月12日
堀川の下痢と腹痛はだいぶ良くなったが、微熱があり、この日も 無理をせずチュタンガで停滞とした。クライミングシェルパのギルが 食料を持ってきてくれて、この日は4人でチュタンガで泊まる こととなった。
カルカテンではポーターたちが雪をいやがり騒ぎだしたそうだ。 結局10人のポーターがルクラに帰ってしまった。サーダーのダワは、 ザトルワラ越えが雪道になったためサングラスの調達と日本への連絡に ルクラまで往復をしてくれた。凄い体力である。
昼過ぎから激しいあられが降り出し、ますます不安はつのる。
4月13日 キャラバン停止
堀川の調子も良くなり、カルカテンへ上がる。標高3800m辺りからは 一面雪景色で、高所順応活動の時とは違う場所のようである。
カルカテンでの4人は、朝方ルート工作に出かけたが、100m程登った 所で弱層テストをしてみると、発泡スチロールのようなさらさらの層が 25cm程もある。この層が落ち着くまではしばらく停滞だろう、 ということで、ポーターをすべて解雇した。
2日ぶりの6人再会と言うのに、計画が振り出しに戻ってしまい、 ポーターの事、雪崩の事と気分は重く、電卓を叩いてお金の計算をやり直す。
4月14日 雪崩の巣
カルカテンで停滞をして、雪の落ち着くのを待つ。時折、ザトルワラを 雪崩が流れて行き、余りよい心地ではない。終日トランプをする。 昼過ぎにイギリス隊がカルカテンに登ってきて雪合戦をする。タムオらは はしゃいで雪合戦に興じているが、自分はどうもそんな気になれず、 うらやましそうに見ていた。
翌日は、松岡とダワがルクラへ下りてポーターの再雇用に行き、他の 5人はルート工作へ行く予定。
4月15日
朝、6人で弱層テストをする。雪は徐々に締まってきているが、 まだ不安なためルート工作はやめる。ポーター雇用のためルクラへ下りた 松岡らは、パサンのコーヒーショップで盛大な日本食パーティーが 行われたそうな。
4月16日
松岡を除いた5人で標高4300m程までルート工作に行く。ルートは 標高4300mから東へ向かって沢をトラバリ、そのまま岩峰の基部を トラバって小尾根に乗るのだが、沢と岩峰のトラバりが一番雪崩の 恐そうな所である。弱層はまだ残っていたが、翌日の通過なら大丈夫で あろう、ということで、ルクラの松岡に無線連絡をしてポーターの雇用を してもらう。
昼過ぎ、松岡とダワがポーターを連れ、ぞくぞくとカルカテンに 登ってきた。準備は整い、いよいよザトルワラ越えである。
停滞が続くにつれ「いい休養だなぁ」から「そろそろやばい・・・」 へとあせりを感じ始めた。数日後のキャラバン再開は可能か? とりあえず松岡をルクラに下ろした。しかし、ただの使いっ走り という説もある。
4月15日 パサンという人
朝、少し谷に入って弱層テストを行なう。大分雪が落ち着いてきた。 久々みる太陽がまぶしい。明後日キャラバンを再開することにし、 ポーターを再び雇用するため、ルクラへダワと共に下りることにした。 みんなから買い物や絵はがきの投函を頼まれる。雪がついた道を ルクラまで。 ルクラもずっと天気が悪かったらしく、多くの観光客が フライト待ちをしていた。やっと帰れるからか、子供ははしゃいでいる。 ポーターの雇用はうまくいった。
無線でカルカテンへ連絡していると、ポーター達がもの珍しそうに 集まってくる。ダワが無線機というものを説明してやっているみたいだ。 こういう時はどのような態度をとったらよいのかなと悩むが、彼らに 貸す訳にも行かず、表情にも困り、さっさと逃げる。ネパールでは 何もかもが楽しかったが、貧富の差を否応なく認識させられるときは どうしてよいか困った。
夜にトレッキングを終えたアメリカ人パーティーの打ち上げがあり、 シェルパダンスが見れるということで、パサンが特別参加させてくれた。 ゆっくりと低い歌声のなかで男達が踊る。アジアという言葉で連想する イメージそのままという感じの踊りだった。
夜遅くパサンの知人達が集まってきた。夕方ルクラ村の話し合いがあり、 その慰労会だという。みんなネパール人の中では上流階級の人々だ。 彼らは税金以外にも、自主的に村の公共設備のために寄付をしている という。それは自分達はたまたまラッキーなことにリッチになれただけで、 昔の苦しさを思うと他の人々をほっておけないからだという。 シェイシェイとつがれるチャンとともに夜は更けていった。
4月16日
お昼前、やっと集まったポーターを連れて出発する。パサンがわざわざ カトマンズから焼きたてのパンを取り寄せてくれた。本当に親切にして もらっている。頭が下がる思いだ。ゆっくりとカルカテンへ。明日は 斜面に日の当たる9時までに斜面を抜けるため、早朝出発とする。 明日の朝は冬山装備で出発だ。緊張しながら準備する。
4月17日 キャラバン再開
5時起き、6時半発。北向き斜面のザトルワラに日光が当たる前に 通過してしまおう、ということではやめに出発する。
テン場から大きくトラバって沢沿いに登るルートを行く。ポーターの 登るスピードは早く、先頭でステップを切るのは一苦労である。
ポーターはズック靴か靴下に縄を巻き付けただけの装備だが確実に 歩いている。核心部も無事通過し、ザトルワラ手前のコルで一息付く。 しかしその後も気を抜けない道が続く。急斜面に沢が突き上げ、 3点支持が必要なところが何カ所かあった。
午後3時頃、沢沿いのテン場、タクトゥに着く。高所での行動が 長かったためか、テン場に着いても頭痛がするので、原真式、肺に 圧力をかけながらの腹式呼吸をしゅーしゅーすると、かなりよくなった。
4月18日
8時発で、樹林帯を沢沿いに下る。この辺りの道は、地図とかなり 違っている。コーティーよりもかなり下流でヒンクコーラにぶつかる。 ヒンクコーラとの出合をタルシンディマといい標高3300〜3400m程で ある。核心部を抜け、シャッターを切る余裕ができた
ここからはヒンクコーラ沿いの道をのんびり歩く。森の中の散歩道と 言った感じで、気分がよい。大きなシャクナゲの花(ネパール語では ラリグラス)がたくさん咲いている。途中、コーティーで大休止。 なるほど、ヘリの発着には都合のよい、広い河原である。ここからは メラの南壁がよく見え、気持ちが高ぶる。ヒンクコーラの冷たい水で 頭を洗ったり洗濯をしたりしてのんびりした。
標高4000m程から樹林がなくなる。予定では、明日ターナに着く予定で あったが、調子がよいので今日中に行くことにする。それを知った ポーターはゆっくり歩いたり、休憩をたくさんしたりと抵抗を試みるが、 ダワらネパール人スタッフが尻を叩いてくれたおかげで、なんとか ターナに着くことができた。
ターナは、周りを山で囲まれた広い河原。ヤクの放牧のために、石で できた家の一軒だけに人がいて、ここでジャガ芋と、その他登山隊が 残していったものが手にはいる。スキーが一本だけ置いてあった。 明日は休養日。のんびり起きて散歩でもしよう。
4月19日
数日ぶりの休養日。ゆっくりしようと思うものの、明日からの順応の 事も気になり、9時頃にはみんな散歩に出かける。自分はベースキャンプの 方に向かって歩き出す。休養日なので、疲れないように、呼吸が 乱れないように、とゆっくりゆっくり歩く。2時間ほど歩くと、真正面に 美しい山が現れ、きれいに描いて報告書のイラストにでもしようと スケッチを始める。しかし10分もするとすぐに飽きてしまい、テン場へ 帰った。明日からはベースキャンプへの順応。みんな揃って気分良く 順応したいものである。