3/17、新千歳空港より出国した先発隊(秦・松岡)は翌日カトマンズに 入った。右も左も分からないままネパールの洗礼を受けた2人は、孤独で 不安な日々をトイレで哲学しながら送った。
3月17日 緊張の出発
9時50分、桂井荘を出発。大勢の見送りを受ける。いよいよ始まるという 期待感と緊張感で胸がいっぱいになる。新千歳空港に着いて大韓航空に 機内預かりに荷物を預ける。超過料金を取られるかと心配したが、 まけてくれた。15時、離陸。これからしばらく松と二人だ。眼下には白い 日高山脈が見えた。
大韓航空でソウルを経由してバンコクへ。夜中の3時だというのに 空港内はやたらと人が多い。プラスチックの椅子で寝ようとするが、 ガタガタなので寝づらい。蒸し暑く蚊がぶんぶん飛んでいる。周囲を見ると 自分が外国にいることを強く感じる。言葉があんまり通じないと言うのは 不安なものだ。
3月18日
ロイヤルネパ−ル航空では身につけれるだけ身につけて乗り込もうと したが、失敗して超過料金を取られてしまった。20kgぎりぎりで機内 預かりを通し、残りは機内持ち込みにするべきだった。周囲の旅行者から 好奇の目でみられ、写真をパチパチと撮られてしまった。
10時40分離陸、13時40分カトマンズ空港着。飛行機を降りると暑い。 着ぶくれした背中を汗が流れる。税関で並んでいると、男達が寄ってきて 荷物を持っていこうとする。胸に写真入りのネ−ムプレ−トをつけ どうやらポ−タ−らしい。しきりに金を要求するので無視する。 怪しげである。松は無線の通過で手間取る。迎えにきてくれたサ−ダ−の ダワが持ってきた書類を渡し、ようやく外に出られた。ダワはレイをかけて 迎えてくれた。ダワが所属するエ−ジェントであるアバブザクラウドの バンで市街地タメルのホテルまで。初めて見るネパ−ル。香辛料と線香と 血と牛のふんの臭い。歩いて行く人々。凸凹の道路で昼寝する牛。 そして、今まで見たこともない町並み。僕達2人はいきなり圧倒されて 「うわあ−」とか「へえ−」とか驚きの声をあげっぱなしだった。 タメルに着いてホテルカルマの5階の部屋へ入る。シャワ−を浴びてやっと 一息である。15時30分、ロビ−でダワと打ち合せ。その後、ダワの家で ドゥッチャ(ネパ−ルのミルクティ)をご馳走になる。初めて飲む ドゥッチャはかなり甘く、うまかった。17時30分、出張で来ておられた 在田先生とダワと我々の4人で食事。案内されて通りに面したUTSEという チベットレストランに入る。中は薄暗い電球がそれぞれのテ−ブルの上に 灯るだけで怪しい雰囲気だ。ご馳走してもらって初めて食べたチベット 料理は、ジャコックという鍋料理だった。何の肉かは分からなかった。 だが、トロリとして柔らかくすこぶるつきでうまかった。
3月19日
8時、ダワとミ−ティング。昼食後、食料品の値段を調査に行く。 ダワが運転するバイクの後ろに乗っけてもらって行く。後ろは、 ヘルメットを被らなくていいそうだ。狭い路地の隅ずみまで知り尽く しているダワは自分の家の庭のようにバイクを走らせる。僕はどこを どう走っているのか皆目見当もつかず、ただただ周りの景色に 見とれていた。そして、バイクは1軒の駄菓子屋のような店の前で 止まった。そこが食料品店であった。おじさんとおばさんはニコニコと 愛想がいい。2〜3坪の小さな駄菓子屋という感じだがなんでも 揃っている。食料品とその値段をノ−ト2ペ−ジ分チェックする。 卵を持って行くのに、鉄製の卵ケ−スが必要ということでコスモに 行くが無かった。ダワが言うには、温度が低い山の中では2カ月も 日持ちするということであった。いくら有精卵とはいえ、卵が2カ月も 持つのかどうか半信半疑であった。コスモから歩いて帰ろうとするが、 1時間くらいウロウロと迷ってしまった。ようやくホテルに たどり着くと、今日はタメルが停電ということである。 カトマンズの半分づつが1日おきに停電になるらしい。蝋燭だけの 夜なんてまるで山の中にいるようだ。
3月20日 おもちゃ箱
食料買い出しリストを作りダワと最終チェック。その後 アバブザクラウドへバスとテントのレンタル料を聞きに行く。 リストを昨日の食料品店に持って行くと明日までに全部揃えて くれるという。有難い。その後、街をブラブラ。
カトマンズは人がすごくたくさんいる。その中をリクシャ− (自転車改造人力タクシ−)やタクシ−がクラクションを鳴らしながら すり抜けて行く。目が回るくらいにぎやかな街だ。僕は一目で日本人と わかるのか物売りが「ちょっと待って!!」と声を掛けてくる。 おもしろい街だ。いくらでも歩きたくなってくる。
3月21日 恐怖の夜がやってきた
早朝、街の西、小高い山の中にあるスワヤンブナ−ト寺院まで 散歩に行く。地図を片手に歩く。街はまだ眠っている。3〜4階建ての 天井の低い建物は歴史を感じさせる。サルが遊ぶ森の中、急な石段を 登って行くと、四方に大きな顔のペインティングがある塔が立つ 境内だった。朝もやに霞むカトマンズの街が一望に見渡せる。満足。
9時30分、食料品店へ。35021ルピーだという事なので両替に行く。 手数料の安いイミグレ内の銀行で両替。料金を払い、2台のリクシャ−で アバブザクラウドのガレ−ジへ。品数をチェックした後、竹で編んだ 背負いカゴに荷作りした。登山用品店でEPIガス12本購入。カトマンズで 大抵の物は揃う。登山用品店も多い。
16時、ネパ−ルへ来ていたOBの太郎さんと落ち合う。ステ−キを ごっつあんになる。夜、恐れていた下痢がついにやって来た。激しい腹痛と、 ノンストップの***は正露丸で治まらず、ベッドとトイレをひたすら 往復するうちに夜は明けた。長い夜だった。
3月22日
腹痛はないが体力を使い果たしたらしく、立つとくらくらするので 寝ていた。何とも言えぬ不快感である。動きたくない。
16時、GPO(郵便局)とGTO(電信電話局)へ行く。とにかく人が多く 賑やかな町だ。こちらにまでそのエネルギ−が伝わってくる。GPOへは 歩いて30分ぐらいかかる。リクシャ−で行っても良いくらいだ。建物は 2階建てで1階は5つぐらいの窓口がある。旅行者が多い。国名と料金の 一覧表とポストがあり日本まで9ルピーである。裏から2階へ上がると 記念切手販売の部屋がある。壁に掛かった額の中から好みの物を選ぶと 係のおじさんが金庫からシ−トを出してくれる。やはり山をモデルにした 物が多い。それ以後もここへちょくちょく切手を買いに来たのですっかり 顔なじみになってしまった。GTOで日本へ電話し現況報告。 ロイヤルネパ−ル航空の荷物持込み対策などを連絡する。
結局この日の食事はチョコバ−1本のみ。夕方頃から今度は松の調子が 悪くなる。ひどい下痢、それに熱もあるので抗生物質を飲ませる。 びっしりと汗をかき、かなり苦しんでいた。
3月23日
ホテルのロビ−でダワと待ち合わせてコスモへ。ようやくカトマンズの 地理が分かってきた。
コスモで緊急連絡のシュミレ−ションとして実際に日本に連絡して みるように依頼し、レンタルの皿とスト−ブの値段を聞く。ルクラの パサンシェルパに出した手紙の返事はまだだった。
この日、松は1日中ダウン。GPOでお礼の葉書用に切手を購入。 絵はがきを大量に購入し、ホテルでひたすら切手を貼る。200枚ちかく 貼って舌がおかしくなった。
3月24日
コスモでルクラのパサンシェルパからの手紙を受け取る。GPOで切手を 購入。夕方、近くのカトマンズゲストハウスでラフティングのスライド 上映会があったので二人して見に行く。ラフティングとは急流、激流を ゴムボ−トで下る遊び(スポ−ツ)である。ネパ−ルは山がでかくて 急だが川も当然でかくて急なのである。スリルがあっておもしろそうだ。 3〜4日のコ−スと10日のコ−スがあり100-200ドルで行けるらしい。 行ってみたいなと思った。
ちなみにスライドを上映しながらガイドが英語で説明していたのだが、 僕には速すぎて半分ぐらいしか分からなかった。松は殆ど全部分かって いたようでしきりにフンフンとうなずいたりガイドが飛ばすギャグ?にも 反応していたようである。『なかなかやるな』と思った。
3月25日 後発隊がやってきた
どんよりとした曇り空、カトマンズはあいにくの雨である。空港へ 後発の4人を迎えに行く。ダワの友人にタクシ−になってもらう。
(バン1台1日で1000ルピー払ったが多かったかも・・・。後で分かった ことだが実は彼もアバブザクラウドで働いていた。まあここは好意的に 解釈しようか。人を疑ってはいけない。)
さて、12時35分到着のはずが飛行機が着いたのは16時25分。いい加減 待ちくたびれた頃、やっとガスの間に機体が見えた。バンコクも天気が悪く なかなか飛ばなかったらしい。しかもかなり揺れたとか・・・。 まあとにかくこれで6人無事に揃ったわけだ。ホテルへ戻り荷物を 下ろした後は、お互いに情報交換しながら、にぎやかな夕食となる。 一週間しか経っていないのに随分会っていなかったような気がして 妙に懐かしかった。
3月26日
コスモにビザ延長を依頼し、雨の中、市内を観光。アサン広場の方へ行く。
夕食はまたまたUTSEにて。明日からの旅の成功を祈って、ジャコック鍋で シ−ハイル。やっぱり何の肉かは分からないがうまい。満腹の腹を 抱えながらホテルへ帰る。
さあ、明日から旅の第2章の始まりだ。