中国歴史教科書における近現代日中関係史


趙  軍

一、概観と特徴

 近年、改革開放政策のもとで、人文社会科学の地位と意義が中国では再認識され、歴史教科書の編纂や著作を含む歴史教育環境も大きく変わった。本稿は、以下の4種類中等教育用歴史教科書を例として、その中の日中関係史に関する記述を検討してみたい。


@ 九年義務教育三年制初級中学教科書『世界歴史』第一・二冊、人民教育出版社歴史室編、人民教育出版社1995年4月・10月第1刷。(以下、教科書@のT・Uと略す)
A 九年義務教育三年制初級中学教科書『中国歴史』第一・二・三・四冊、人民教育出版社歴史室編、人民教育出版社1992年10月・1993年4月・10月・1994年4月第1刷。(以下、教科書AのT・U・V・Wと略す)
B 高級中学課本『世界近代現代史』上・下冊(必修)、人民教育出版社歴史室編著、人民教育出版社1995年12月・1996年7月第2刷。(以下、教科書Bの(上)(下)と略す)
C 高級中学課本『中国近代現代史』上・下冊(必修)、人民教育出版社歴史室編著、人民教育出版社1995年6月第2刷。(以下、教科書Cの(上)(下)と略す)

 全体的な特徴といえば、主に以下の数点にまとめることができると思う。
第一には、教科書@とAは「中国国家教育委員会中小学校教材審査委員会の審査を経て試用する」という記載があり、教科書BとCの両種も「必修」と明記している。歴史教育は中国の各レベルの学校で大変重視されている科目の一つの関係で、たとえ大学入試範囲に入っていなくても、学生全員に修得を要求しているのである。
 第二には、デザインと装丁の面では、昔の教科書と大きく変わった。記述文の中に第一次資料の原文がそのままたくさん使われていることである。一方通行的な説教ばかりではなく、こうした資料との接触によって、生徒の第一次資料に対する分析力を育成しようとする狙いが見取れる。
第三には、政治的彩りが依然として強く保っていると同時に狭隘な民族主義・大漢族主義・盲目的排外主義などの偏向に影響されないように努力している姿勢が、多くの記述から読みとれる。昔のようにイデオロギーに強く拘束され、史実の分析より結論が先行している欠陥はだいぶ克服され、事実関係の紹介が中心となっていると言える。

二、日中関係史に関する記述


1,日中戦争の起因に関する記述

 教科書@のUでは、「1929-1933年までの経済危機は、(ドイツと同様に)日本に対しても大きな打撃を与えた。……(中略)厳しい政治・経済危機から抜き出すために、日本では軍部を中心としたファシズム好戦的な勢力は迅速的に台頭し、対外的侵略・拡張を積極的に煽動した。1931年9月18日、日本は前々からたくらんでいた中国侵略戦争を引き起こし、まもなく、中国の東北全域を占領した。アジアにおける世界大戦の策源地はこれで形成された。……(中略)(2・26事変は)成功しなかったが、軍部の勢力はますます強大になり、新内閣は完全に彼らの言いなりになり、急速に全面軍国主義化された。日本の軍部によるファシズム独裁はほぼ成立された。1937年7月7日、日本帝国主義は全面的な中国侵略戦争を挑発した」 。戦争は政治の延長であり、政局変化の起因は経済という基盤の中から見いださなければならない。経済危機とファシズムの台頭から、中国侵略戦争の原因を説明したこの記述は、歴史唯物論運用の典型例とも言える。しかし、こうした分析はあまりにも単純明快で、当時の主要資本主義諸国はだいたい同じ危機に晒されていたにもかかわらず、なぜ日本だけが軍国主義・ファイズムの道に乗り出したのかについての説明は無力感がある。
 教科書Bの第4冊では、関東軍参謀本部が作成した「満蒙問題解決案」の中身を3項目に分けて紹介した。陸軍の手によって作成されたこれらの文書は後に戦争特に中国の東北地方(旧満州)侵略の指導方針となった場合が多く、戦争起因の一つとして指摘されたことは正解であろう。しかし、これと関連して日本ではかなり盛んに議論されていた「戦争責任」問題は、中国ではほとんど問題にされなかった。

2,「大東亜共栄圏」と日中戦争・太平洋戦争に関する記述
 「大東亜共栄圏」あるいは近衛内閣によって提起された「東亜新秩序論」に対して、中国側の教科書は例外なく激しい批判を展開した。「全面的な中国侵略戦争に突入した日本侵略者は、数年後、すぐにも中国軍と民衆による抗日戦争のおう洋たる大海に陥った。しかし、日本侵略者はさらに侵略を拡大し、東南アジアと南西太平洋にわたる広々地域を自分の植民地にしたく、『大東亜共栄圏』を作ろうとした。そのため、米英との矛盾もますます激化した。機先を制するために、1941年12月日本は太平洋上最大のアメリカ軍事基地真珠湾を襲撃し、太平洋戦争を引き起こした」 。ここには、注目すべきところが2点ある。1つ目は、「大東亜共栄圏」の侵略性・虚偽性に対する指摘であり、2つ目は太平洋戦争の帝国主義戦争性に対する指摘である。つまり、日本と米英との関係で言えば、太平洋戦争は帝国主義国家同士間が戦利品の奪い合いをめぐって展開した戦争である。
 中国では、抗日戦争(日中戦争)と太平洋戦争を、連結があるが性格は違った二つの戦争としてとらえるのは学界の大方の意見である。抗日戦争の全体の歴史的意義について、「中国の抗日戦争は世界的反ファシズム戦争の重要な一部分であり、中国戦場は日本ファシズムによる侵略と対抗した主な戦場である。中国の抗日戦は、ヨーロッパ及びアジアその他の地域における反ファシズム戦争の勝利に対して重要な戦略的な協力作用を果たした」と、高校用の教科書では主にその「反ファシズム戦争」という側面を強調した。

3,日本軍の暴行について
 世界史を中心として述べた教科書@のUでは、「ファシズム国家の暴行」を題として、「ドイツ・イタリア・日本のファシズムは、戦争を多くの国に押しつけたと同時に、聞く人を驚かす罪を犯した。彼らは……(中略)平和な住民を多く殺戮し、民族絶滅政策を実施した。」 と述べた。自国史と世界史教科書の取り扱い分野の分担のせいであろうか、ここでは、ファシズムドイツによっる国家犯罪の虐殺人数が挙げられたが、南京大虐殺の犠牲者人数が挙げられていない。
 南京大虐殺に関する記述は、中学校と高校用の中国史教科書には、詳しく載せられた。教科書Bの第4冊には、「南京大虐殺」という小見出しを設け、「日本侵略者の行ったところ、住宅を燃やしたり、人を殺したり、女性に暴行を加えしたり、略奪したりして、悪事の限りを尽くした。日本軍が南京を占領した後、南京人民に血生臭い大虐殺を行い、滔天たる罪を犯した。南京の平和な住民たちの中に、射撃の的とされた者もいるし、銃剣に突き刺された者もいるし、生き埋められた者もいた。戦後極東国際軍事裁判の統計によると、南京陥落後の6週間、無抵抗な一般住民と武器を放棄した軍人など30万人が虐殺された」と記した 。さらに、同教科書は挿し絵2枚と具体的な虐殺ぶりを示した事例4例をも紹介した 。この事件の重要性を強調するために、同節は最後の練習問題のところ、穴埋め問題として「1937年12月、日本侵略軍は国民政府所在地である___を陥落し、そこで身に寸鉄を帯びない中国住民_____万人を虐殺した」と設定した。
 意外なことと言えば、「三光政策」に関する記述である。どの教科書の中でも「三光政策」に関する直接的な言及はなかった。なぜか知らないが、おそらく日本軍自身が作った言葉ではなかったので、歴史主義の見地からこの言葉をわざと避けたと考えられる。しかし、南京以外の中国各地で日本軍が犯した暴行そのものは避けていなかった。教科書Aの第4冊では、「日本侵略者の残忍なる支配」という節を設けて、大きなスペースを割いて731部隊の生体試験などの具体的な事例を通して、占領地域における日本帝国主義の支配の残虐ぶりを紹介した 。

4,終戦に関する紹介
 日本ではいつの間にか、「敗戦」という言葉はすっかりと「戦後」という言い方に取って代われてしまった。しかし、中国では毎年の8月15日、「戦後」を記念するのではなく、「戦勝日本法西斯○○周年(日本ファシズム戦勝○○周年)」の記念式を行い、戦勝者と戦敗者の切れ目をごまかそうとした動きを許そうとしない姿勢が強調されている。
 教科書@Uには「ポツダム宣言と日本の投降」という節があり、日本敗戦までの歴史を次のように述べている。「1945年8月の始め、日本は未だ投降の意思を表明していないので、アメリカはこの時日本の広島と長崎に前後して2発の原子爆弾を投下した。この期間、ソ連は日本に対して宣戦し、赤軍は中国の東北地方と朝鮮に入った。アジア諸国の人民も同時に奮起し、日本帝国主義に対する最後の一撃を与えた。日本帝国主義はすでに絶体絶命に瀕した。8月14日、天皇は御前会議を開いた。会場には痛み悲しむ空気が溢れ、日本の困窮した状態を見て、発言者はみな声涙ともに下り、投降を決定した。みだりに武力を用いる侵略者はついに自業自得の悪果を嘗めた」 。アジア諸国の民衆の反日闘争はもちろんのこと、アメリカの原爆投下を含めた日本に対する戦争行為をも反ファシズム戦争の一環として捉えた姿勢が明白である。
 しかし、「日本帝国主義」「侵略者」など概念の内包は、かなり限定された者であると伺える。アジアへの加害者は「日本国民」や「日本」そのものではなく、あくまで「日本帝国主義」「日本ファシズム」である。日本国民の大半はむしろ「被害者」として扱われ、中国人民と同様な苦難を嘗めてきたと紹介されている。

5,戦後の日本に関する紹介
 アジア諸国の戦後日本に関する紹介は、普遍的に不足と言わざるを得ない。戦後日本の高速度成長に対して改革開放政策実施開始以来の中国人も大きな興味を持っていて、アメリカ人研究者が書いた日本研究書を何冊も翻訳・出版したが、それはほとんど経済・技術問題に集中していて、戦後日本の政治・文化・社会問題などに関する紹介はむしろ貧弱である。そのため、最近のことになればなるほど、中国における日本像は不明瞭化になる傾向は著しい。歴史教科書も例外ではない。
 アメリカの日本占領政策及び日本に対する影響力は、戦後東アジアにおける冷戦構造の柱となっていた存在なので、敵視されてきた中国にとって痛烈に批判しなければならない対象である。教科書Bの下冊は、「日本が投降後、東アジアでの勢力を拡大するため、アメリカは『同盟軍』という名目で軍隊を派遣して、日本を占領した。アメリカ将軍のマッカーサーは同盟軍の総司令官となり、日本は実際にアメリカに単独占領された。1946年、日本のファシズム戦犯に対する極東国際軍事裁判は開かれ、自身の利益に関する考慮から、アメリカは多くの中国人を虐殺した一部の日本人ファシズム戦犯に対して起訴免除の処分を下した。アメリカはまた日本の天皇制を温存した」。「アメリカは日本を占領するチャンスを利用して、日本を永遠にアメリカに臣服させ、さらに全東アジアをコントロールしようとした。そのため、ソ連を強い反対を押し切って、日本を単独で占領した。……アメリカは自分の意図で日本を改造し始め、マッカーサーは日本の太上皇となった」と 、と実際に40年代から50年代までのアメリカの対日政策を批判した。

6,日中戦争までの歴史に関する紹介
 明治維新を紹介する時、明治政府のアジア政策と日本の「大陸政策」の策定は取り上げなければならないテーマである。「明治維新以後、日本では資本主義が迅速的に発展してきた。日本の支配者たちは、ブルジョア階級の貪欲を満足させるために、また民衆闘争の矛先を海外へ逸らすために、極力的に対外の侵略拡張活動から出口を見出そうとした。そのため、朝鮮と中国を侵略することを中心としたいわゆる『征韓侵華』の大陸政策を制定し、侵略戦争の準備を積極的に取り込んだ」 。このあたりの記述はかなり大ざっぱ的なものであるが、「日本の支配者たち」などの限定語はやはりマルクス主義の階級分析法の活用であり、明治政府の対外政策に対する批判的な態度ははっきりと現れてきた。
 しかし、明治維新そのものに対する評価は基本的には肯定の傾向である。特に明治維新自身の歴史的な役割に関する次のような記述を注目したい。教科書Bの上冊では、「明治維新は日本の封建的時代遅れの状況を変えて、資本主義が発展できる道に導いた。しかし、日本の封建的残余勢力はまだ強かった。日本は早い発展を遂げたと同時に、徐々に不平等条約を廃止し、国家主権を回収し、民族危機から抜け出した。アジア初めての独立にして発展する道にたどり着いた国となり、まもなく、アジアの強国となった。自民族的立ち後れ状況を変えて、民族の新生をはかろうとしたアジア諸国の一部の人々にとって、明治維新もある程度の経験を提供した。明治維新後、軍事と経済力の成長につれて、日本は軍国主義の実行に全力を尽くして、アジアの隣邦を侵略し始め、新興の帝国主義国家となった」 。近代欧米列強諸国の対内政策の主流を肯定的に、対外政策の主流を否定的に二分して評価するマルクス主義階級分析式の価値観は、近代日本に対しても適用された。
 謎のめいた田中上奏文の真偽問題は、日本と外国研究者の中でいろいろと議論された疑問点の一つである。高校教科書である教科書Bは、「1929年、中国の新聞・雑誌には一通の『東方会議』に関する秘密文献が掲載された。いわゆる田中上奏文である。その中に、『支那を征服すると欲せば、必ず先ず満蒙を征服しなければならない。世界を征服すると欲せば、必ず先ず支那を征服しなければならない。……』と書いていた」と紹介した 。つまり、「あった」という説を採っていたのである。日本の学界でほとんど「なかった」と考えている状況を配慮して、同教科書の「脚注」のところに、学界での論議を紹介した形で、田中上奏文の真偽問題にも触れた。定説がまだ出ていない問題に対して両説併存という形を取るのは、中国の歴史教科書の編纂史上、おそらく初めてのことだと思う。
 侵略と侵略される歴史で織り上げられた近現代日中関係史上、民間人による真の友好とロマンもあった。高校用の教科書である教科書Cは、こうした民間に存在していた友好史をも紹介した。「1897年、孫文は日本人友人である宮崎寅蔵(滔天)らと知り合って、彼らと同志関係を結んだ。その後、宮崎寅蔵は終始、孫文の革命事業を積極的に援助した」 。宮崎寅蔵に関するこの部分の紹介は写真付きのもので、かなり詳細である。

三、教科書以外の歴史教育


中国政府が小中学校の教科書を国で決めるという「国定体制」を取るのは、教育システムを中国共産党と政府が決めた教育方針の枠組みの中に運営していこうという思惑が働いているからである。「教育はプロレタリア階級の政治に奉仕しなければならない。教育は生産労働と結び付けなければならない」。教育に関する中国共産党のこの基本方針は、この傾向を最も端的に示している。さらに、中等教育における歴史教育の方針について、政府と共産党は「学生の素質を高めることに着目し、特に国情に関する教育から着手し、生徒に対して祖国を愛し、中国共産党を愛し、社会主義事業を愛し、4つの基本原則と改革開放政策を堅持する教育を行う」ようと規定した。つまり、愛国教育と歴史主義教育の合体である。
しかし、教育方針と教科書だけでは、歴史教育の全体を規制することはやはり無理なところがある。特に注目に値するのは、教育現場の歴史教育現状である。教師たちの歴史認識、そして父母たち及び中国社会全体の日本に対するイメージ・不信感・警戒感などは、教科書の内容そのものを遙かに越えていて、学生を強く影響している。また、親からの影響、小説・歴史人物伝記など書籍からの影響、映画・テレビなど現代マスメディアからの影響、いずれも大きな力を持っている。時には、教科書以上の影響力を持つといっても過言ではない。
 一つの例として、1995年8月29日ハルビンの地方紙である『新晩報』の記事を紹介したい。「今日午前、当年日本侵略軍が残していた一発の砲弾は意外に爆発して、村民1人死亡、2人負傷の大惨事となった。……ある住民の紹介によれば、当年日本帝国主義が中国に侵略した時、周家鎮郊外に弾薬倉庫を建てた。解放後、周家鎮の村民は農作業を行う時、よく日本軍が残した砲弾を見付かり、爆発事件も3・4件発生した。地元の農民たちの生活と生命安全は常に脅かされている」。この記事のタイトルも「砲弾が50年も残留され、日本軍は新しい罪を犯した。周家鎮郊外砲弾が爆発、村民は1人死亡、2人負傷」となっていた。日本では、大勢の住民がダイオキシンなどの「現代社会病」で悩んでいる時、当時戦場と化した中国地元の住民はまだ旧日本軍が残した砲弾や毒ガス弾の破壊力に曝されている。彼らにとっては、昔の戦争は現在でも続けているのである。両国国民間のこうした落差は、相互理解や経済交流などにも暗雲を落とし、近年来の日中関係に対し、不安定的な影響を与えた要因に一つと考えられる。これは歴史教科書以外の歴史教育と言ってもよかろう。

 注:これは『駒沢女子大学紀要』第4号で発表された論文であり、正式発表したときかなりの訂正と加筆を加えたが、ここで公表したのは、その元々の原稿です。

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