中国観の分裂と悲劇

ー「後書き」の後書きー

趙 軍


 一部の日本における大アジア主義の発展史は、同時に日本人のアジア観特に中国観の変遷史でもある。実例を通してその変遷の全体像を整理しようとするのが、拙著の目標の一つである。個別で見てみると、明治30年代の宮崎滔天は、「我邦人従来余り支那人民を軽侮するに過ぎたり。此人民は決して軽侮す可き人民に非ず。寧ろ英露の強よりも恐る可き人民なると信ず。今や支那国の存亡興廃に付ては重要問題として世人の均しく注視する所なり。是れ無論重要問題たるに相違いなし。然れども殊に支那人と云ふ一種の奇妙の人種には、猶ほ深く世人の注目留意せんを望む。思ふに戦争なるものは勝ても負ても一時の者なり。畢竟は人種生存の競争に帰す。人種の生存競争の終局は、社会経済の理に依つて支配せらるゝものなるを知らば、支那人は将来の世界に於て実に絶大無比の勢力者たるを忘る可からず。」(「暹羅に於ける支那人」『宮崎滔天全集』第五巻)と言い、中華民族の潜在力に対する認識を表した。しかし、当時日本世論の全体的な流れを見れば、アジア諸国の振興を呼び続けた「興亜論」と、アジアを征服することによって日本の強国化を目指した「征亜論」との間の意見対立は、すでに「征亜論」の圧倒的な優位で決着を付けたのである。
 幕末から現れてきた「興亜論」の源流は、平野国臣・勝海舟らが提唱した「日清提携論」などが挙げられる。その頂点にあるのが、自由民権運動中の植木枝盛・板垣退助の「万国協議政府」説である。この時期の日本人のアジア認識には、アジアを一つの運命共同体と見なしていると同時に、アジア諸国を提携・連帯できる仲間として位置づけ、対等的立場と助け合いの気持ちでアジアを接しようとした。「支那革命主義」などの手段を通して、真に共存共栄の新しいアジアへの道を探し続けた宮崎滔天もこれらの主張から栄養を汲み取って中国と縁を結んだのである。
 一方、「千歳丸」の高杉晋作を始めとする日本人の中国旅行者が目にしたのは、欧米資本主義諸国の支配下、搾取と圧迫に辛抱強く耐えながら最低限の生活を送っていた中国人の現実の生活風景であった。過酷な環境の下で自己保身を最優先せざるを得なくなった中国庶民の暮らしぶりは、主に中国古典文化によって形成された日本人の中国イメージをぶち壊して、彼らの中国観に変化をもたらし始めた。逆境であるこそ顕れやすい民族性のマイナスな側面は、目撃頻度の増加によって次第に中国人民族性の全体像として固定化され、逆に積み重ねる現地での生活体験がなければ比較的に見出しにくい民族性の長所などは、覆い隠されてしまった。そこから「支那蔑視」の風潮が醸成され、さらに日清戦争の戦勝によって大いに増幅された。
 アジアへの謙虚心が失った時点から、アジアを見る目も冷静さが薄くなり、傲慢さが浮上し始めた。列挙諸国の仲間入りに夢中だった福沢諭吉は、中国と印度の港でアジア人労働者がイギリス人に使役され、過酷な肉体労働を強要されているのを見て、「圧制も亦愉快なる哉」と感嘆を漏らし、イギリス人に取って代わって中国人・インド人をこき使う夢を見た。欧米志向の文明論に源を発した価値観と道徳観の異変は、伝統的アジア観を覆った決定的な要因となった。
 その後の大アジア主義者や「支那通」たちの中国観には、溢れたほどの中国人「民族性劣悪論」類の意見は出てきた。拙著で登場した大陸浪人の諸公は、程度の差があるとは言え、大半似た立場と見方を持っていた。例えば、川島浪速は辛亥革命の嵐の中に著書を刊行して、「支那人ハ五千年来旧文明ノ為ニ既ニ爛熟腐朽シ来レル民族ニシテ社会的膠結力殆ト消耗シ四億万ノ分子ハ恰モ砂ノ如ク到底堅固ナル団結体ヲ自動的モ造リ出スコト不可能ト為リ所謂亡国的性格ハ近キ数百年間ニ著シク成熟シ来レルヲ以テ近キ将来ニ於テハ支那人中何人カ如何ナル政体ヲ応用スルモ決シテ統一ヲ成立セシムル望ナキコト」(『対支那管見』)と述べ、中国人には国と民族を空前の危機から救う能力と革命性が全く持っていないと断言した。内田良平も、辛亥革命は「畢竟一部外国遊学生等の洋籍を生呑活剥したるに過ぎず、一般国民に在りては、政事のために自家の産業を妨害せらるゝは、寧ろ其苦痛に耐えざるもの」と断案して、「一の畸形国」である中国では「泰西の謂ゆる革命」が発生する可能性はとうてい考えられないと結論づけた(『支那観』)。そのため、内田はこれから日本政府も「列強の為す所の如く、冷頭冷血、彼(中国を指す)の存亡を以て彼自ら存亡するに任じ、我は之に対して専ら高圧的手段を取り、酷烈に我が勢力を扶植し、厳密に我が利益を攫取することに在るなり」という侵略方針を提言した。歪んだアジア観と中国観は、安易に極端的な拡張主義主張を作り出し、語り手によっては、アジア侵略の道具として生まれ変わる可能性も十分にあったと言えよう。
 ますます鈍感となってきた「支那通」たちの中国観は、国の政策にも影響を広げたとき、厳重な結果を引き起こる。1937年7月の「七・七事変」前後、半年前の「西安事変」の解決によって国民党と共産党の抗日民族統一戦線がすでに結成され、中国の民衆は「一皿の散乱した砂」ではなくなかったなどの事実は無視され、中国に「一撃」さえを与えれば、数ヶ月のうちに中国全土を易々征服できる見方は日本中の世論であった。冷静な観察力を失ってしなかったのは、尾崎秀実を含めてわずか数人しかいなかった。
 大陸浪人と「支那通」たちの時代は、すでに過去の歴史となっていた。その歴史から汲み取るべき教訓について、拙著では詳しく開陳できなかったが、これから読者のみなさんと一緒に探求していきたい。

 注:これは内山書店の雑誌『中国図書』1998年第12号で発表された論文であり、正式発表したときさらなる訂正と加筆を加えたが、ここで公表したのは、その元々の原稿です。

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