研究Tゼミレポート

       「日本と中国の教科書に見る歴史観の格差」

ーー(前編)日本の教科書に見る中国の歴史

経営学科二年
学籍番号:9830@@@
氏名:高木 繁
授業時間:月曜三限


 私は日本の教科書や資料に見る中国についての歴史教育を中心に研究しました。

 国家は義務教育段階において、教師に決して真実とは言えない教科書通りに生徒に教える事を強要してきた。従って教科書を通じ、国家に都合の良い知識を与えられてきたと言っても過言ではないのです。

  この研究は、明治以来の教育において、中国やアジアの諸国のことを日本人の幼少期にどのように教えられてきたかを、教科書及び、中国・アジア関係の記事を通じて考察していくことによって進めていきたいと思います。(なおここで参照する教科書は 国語教科書 日本歴史教科書 世界地理教科書です。)

 ここでは、教科書記載の中国・アジア関係の気述をわかりやすいように時代区分をして進めていきます。では少しその時代区分について説明しておきます。

 1872年の学制期より、1941年の国民学校期にいたる間を8期に区分しました。

(1) 翻訳教科書 1872年〜79年(明治5〜明治12年)
開花啓蒙的性格の教科書
(2) 儒教主義復活の教科書 1880年〜85年(明治13〜明治18年)
儒教倫理復活に対する教科書
(3) 検定教科書 1886年〜1903年(明治19〜明治36年)
国家主義育成の教科書
(4) 国定第一期の教科書 1904年〜09年(明治37〜明治42年)
資本主義興隆期の教科書
(5) 国定第二期の教科書 )1910年〜17年(明治43〜大正6年)
帝国主義の教科書
(6) 国定第三期の教科書 1918年〜32年(大正7〜昭和7年)
大正デモクラシー期の教科書
(7) 国定第四期の教科書 1933年〜40年(昭和8〜昭和15年)
ファシズム強化の教科書
(8) 国定第五期の教科書 1941年〜45年(昭和16〜昭和20年)

  国語教科書・日本歴史教科書・世界地理教科書を以上、8つの期に分けて分析していきます。

1. 国語教科書の内容分析

  国語教科書は明治以降の義務教育の必修科目であって、最も普及していた教科書である。

(1) 翻訳期(1872年〜79年)

 この頃の教科書にはアメリカの小学生の教科書を翻訳したものが多く、アジアや中国の記述はほとんどない。わずかに中国の偉人のことが書てあるだけだ。

(2) 儒教主義復興期(1880年〜85年)

 中国・アジアに関する記述も若干見られる。そのなかに「支那歴代の大略」というのがあり、内容は中国の古代王朝から清朝までの歴史が記述されている。

 この記述の存在がもう既に日本が多くの文化を中国から学んでいたことがわかる。しかし、元冠における元の大敗、豊臣秀吉の朝鮮侵略に際し、明の朝鮮への援軍が大敗したなどの中国に対するマイナス面も記されている。

そのほか「秀吉朝鮮ヲ伐ツ」という記述があり、これ以降日本の教科書には秀吉の朝鮮侵略の記事が掲載されることになるが、この教科書で秀吉は評価されていない。だが明が日本に敗れ、講和を求めた時、明はその条件として秀吉を朝鮮の帝にするといったにもかかわらず、それを違約して秀吉を「日本国王に封ず」と述べたとして、これを無礼だとした秀吉が朝鮮へ再度出兵したのだと、朝鮮の侵略を正当化している。これは秀吉が朝鮮に出兵するためのきっかけとして理由ずけられたものであり、その証拠に史実では明が秀吉を朝鮮の帝にするなどとはいっていない。

(3) 検定期(1886年〜1903年)

 この期の中国・アジア関係の記述は日本と中国の相違を挙げており、その内容は、日本の血縁・学歴を重視した王朝制に対して中国の王朝では血縁が一系ではなく清朝まで、すでに24代国号を変えた点がある。ただしこれに対する評価ははない。
そのほか中国という国についての記述もでてきている。中国が「世界二名ダタル大国」で、日本の数十倍ある事、土地が美しく、農産物が豊かで、人物賢く、礼儀も早く開けているなどと述べ、その歴史についても、古代中国の文化、産業の進んでいること、孔子の偉大性が述べられている。またここでも「秀吉の朝鮮征伐」の記事が出ているが内容は同じである。また中国の町並みについて語っている記事も見逃せない。まず第一に国土が広大である事、首都北京の盛大な事、上海、広東が貿易都市として盛んな事を語っているが、反対に北京については「市街ハ不潔二シテ、風俗モイヤシ」とイメージダウンをはかる記事もある。

 また更に日清戦争の記述も詳しくなっている。特に戦争の原因や状況、日本と朝鮮の関係などについて述べられている。戦争の原因は、清が常に朝鮮を属国視して、日本に無礼を加えたところにあるとされているが、実際は開戦するためのこじつけである。具体的には、1894年(明治27年)、朝鮮に内乱が生じた時、清は多くの兵を出して朝鮮の独立をやめさそうとし、豊島沖で日本の軍艦に発砲、日本はこれに応戦し、その後朝鮮国王の依頼を受け朝鮮より朝鮮から清の兵を追っ払うため清との戦争に至った。これで日本は「正義」清は「悪」と言う概念が出来上がったのである。この様子をを謳っている資料がある。「……支那(清)、大国の威におごり、朝鮮を辱め、なお我が軍に手むかいす。我が国戦は好まねど、無法者をこらさんと、陸軍・海軍一斉に勢いたけく進軍す。支那力尽き、和をこいぬ。戦好まぬ我が国は、朝鮮を末永く独立さすと誓わせて名誉の戦引き返す」、この言い方からして、史実を曲げて日本は「正義の国」中国は「非道の国」だと言う観念を子供に覚えさせようとしていることがこの資料から露骨に見られる。

(4) 国定第一期(1904年〜09年)

 国定第一期になると教科書の内容は近代化し、近代生活に関する文明の利器などの記述が多くなっている。しかし中国の記述については検定期と変わらない。この期に「明治33年北清事変(義和団事件)」がでる。排外的な義和団の行動を放置した清国政府、義和団の暴挙を助けた清軍を糾弾し、各国軍隊が義和団に囲まれた北京の居留民を助けるための出兵をしたのはやむをえないと列強の軍事行動を肯定する。そして、各国軍隊の中で日本軍が最も勇敢だったと述べられている。ここでは
日本を賛美している作意的叙述がみることができる。

(4) 国定代二期(1910年〜17年)

 第二期とは日露戦争後の帝国主義初期に当たり、教科書の内容は国家主義・軍国主義的な教材が多くなっている。しかし、中国に関しては、日常的な風俗、風物の描写や古人の事績の叙述が増えてくるのである。

(5) 国定第三期(1916年〜32年)

 第三期はいわゆる大正デモクラシー時代である。教科書には国際協調、平和主義、民本主義的な記述が現れる。この期に見られる中国の記述は第二期と同様「呉鳳」「孔子」などの人物の記述と、「揚子江」「上海」など地理的な叙述だけである。特に上海については中国第一の貿易場で人口は100万人、経済的に活気を帯び、港には数百の船が集まり、最近は工業都市としても発展していることなどが記され、日本人が一番多いと結んでいる。

(6) 国定第四期(1933年〜40年)

 第四期は1931年9月の満州事変を契機にファシズム期が始まろうとする時である。教科書には軍国主義的内容が強化されている。しかし相変わらず中国に関する事績と旅行記・印象記の記事が記載されているだけである。その内容の一部を挙げておきます。<北京市街>は、長い巨大な城壁をめぐらした北京の雄大な事、壮麗な宮殿が多く立ち並んでいる事、古い北京を思わせる風景のなつかしいことなどが書かれ好印象を受ける。

(7) 国定第五期(1941年〜45年)

 この期は太平洋戦争の開始から終末への時期である。教科書の内容も一変し、いわゆる強力な戦闘員養成のための教材へと変わっていったのである。ここに書かれている中国の教材は「満州の冬」「早春の満州」「アジアに乗りて」「黒竜江の解氷」といった風景、気候の叙述や「支那の子供」「支那の春」「大連から」「愛路少年隊」のように侵略者である日本の立場から「日中友好」?をかこうとするものなどである。日本の傀儡政権とのムードを高めようとするねらいが明白である。

 ここで日本の立場からみた「友好」の記事を紹介します。「支那の子供」「支那の春」は中国の子供と日本の兵隊との交流を描いたものである。「門を過ぎると、広場があります。そこで遊んでいる支那の子供たちが、車を引いている兵たいさんを見ると「兵たいさん」「兵たいさん」といってやってきました」とかかれていて子供たちは兵隊の車の後押しをし、「日の丸」の歌をうたって兵隊を見送るという状況である。もう一つの「愛国少年隊」は、子供たちが兵隊から菓子をもらい兵隊に教えてもらった「愛国行進曲」を歌うという設定になっている。「愛路少年隊」は鉄路を守るために組織された11〜17才までの中国少年団体の事である。

 ある日、少年の一人が乱暴者によって鉄路が破壊されているのを発見、その犯人をみつけて追跡するが逆に少年は殺害される。この中国人少年は息を引き取る時に「日本 万歳……」といったという「美談」である。

 これら友好の記事は、すべて日本からみて「いい中国」との間のものである。

 真の友好とは、真っ向から対立するものであったのはいうまでもない。

2. 日本歴史教科書の分析

 この教科書は1907年(明治40年)三月の小学校によって義務教育六年生が実 施されるまで、必修科目ではなかったので1907年以前は簡単にそれ以後を詳しく述べる事にします。

(1) 翻訳期(1872〜79年)

 この時期は文明開化期で日本人の目は欧米にむけられた。歴史教科書は欧米教科書の翻訳物が多い。この期の教科書には「史略」「万国史略」などがあり、その内容は中国古代の偉人の事蹟や元冠・秀吉の朝鮮侵略などである。やはり文明開化の時期ということもあり万民が欧米の文化を知りたいと思っている様子が良く伺えます。

(2) 儒教主義復活の時代(1880年〜85年)

 中国関係の記事の内容は前期とまったく同じである。ただこの期に歴史教科書として始めて「台湾征伐」がでてくる、が内容は国語教科書のものと変わらない。

(3) 検定期(1886年〜1903年)

 この時期に一番多いのは元冠・秀吉の侵略戦争であるがやはり内容に大差はない。

 ここで一つ注目すべきなのは「足利時代の外交」についての記述である。

 秀吉の記述とは反対に明から日本国王に封じられた室町幕府の将軍足利義満の事が記されていて、義満は「国体ヲ辱ムルコト甚シキ者」と厳しく非難されている。教科書で自国のことをここまで批判した文はこれが始めてであり国語教科書との違いが見て取れる。しかしやはり日本の正義を主張する物が多くある。中でも見逃せないのは、「朝鮮ノ変及ビ内閣の設立」がある。これは1882年壬午事変・1884年 甲申事変を指す。壬午軍乱については朝鮮の「暴徒」を鎮圧したのが清だった事は一言も述べず甲申事変に関しても、朝鮮親日派のクーデターが原因だった事には触れていない。それどころか清が朝鮮の「事大党」を助け、何もしていない日本の公使館を襲撃した事だけを強調し、日本の抗議に朝鮮が謝罪して償金をだし日本は清と天津条約を結んで日清双方の朝鮮に対する出兵を規制したとされていて日本の正義を貫いている。その他江華島事件についても記しているが、この事件についても日本軍隊が挑発した記述はなく朝鮮側の無警告発砲だけが取り上げられている。

(4) 国定第一期(1904年〜09年)

 この期の教科書編集は真実を尊重したとあるが、中国に関してはその努力が見られない。相変わらず内容に相違は見られないが「明治27年戦役」に多少違いがある。江華島事件から壬午軍乱・甲申事変を経て東学党の乱・豊島沖の砲撃・日清開戦までの経過を一貫して日本中心に叙述し、この戦争が清のいままでの行為の積み重ねの結果であると記述している。特に東学党の乱の時、日本が清と共に平和を実現しようと言ったのに清はこれに応じなかったという記述は、清は東洋平和を乱すものだ!として教えられたのだ。

(5) 国定代二期(1910年〜17年)

 この期に入ると新たに「平和回復と戦後の経営」についてが加えられている。
内容は日本の韓国併合についてであるが、併合の理由は日韓相互の「東洋平和を永遠に確保せんがため」という一方的な見解がしてある。

(6) 国定第三期(1918年〜32年)

 日本歴史は「国史」とその名称が変わる。この期の終わり頃から日本は戦争期に入り、教科書内容に実証性は更に後退してしまいます。当然実証性は薄れ真実は記述されませんでした。先に書いた「韓国併合」に記事は更に書き加えられ、併合の理由として、韓国に独立の能力がなく韓国国民に幸福をもたらすには日韓合体が最善で勧告国民の中にもこれを望む者が多かった とデッチ上げてそこに侵略の正当化を求めている。

(7) 国定第四期(1933年〜40年)

 新しいものとして昭和史が加えられ、<満州国の独立を認めた><満州帝国の発達を助け、清と交際を図った>という記述が現れる。1932年の満州国独立には、日本が率先承認し、東洋平和の基礎を固めようとした事が述べられ、ついで、
1934年の満州帝国の建設、日本が満州帝国を援助していること、さらに日本は中国と親しく交際しようと努力し、日・満・中の三国が互いに助け合っている、といかにも真実のように語られている。

(8) 国定第五期(1941年〜45年)

 今期の教科書に新しく現れたのは、<支那事変>についてである。ここでも、満州国の独立以後、日本が誠意を持って呼びかけた日本・満州・中国の三国協力による東洋平和樹立への協力を中国は一貫して拒否し続けたと述べ、さらに中国は日本を敵視し、「我が居留民乱暴な振る舞いをするものさえ現れたので、我が国は彼の謝った考えを正し、東洋平和を打ち立てるために軍を出す事にした。」と、日中戦争に発展したのは中国の責任だと一貫している。そして戦争に関しては、「大東亜戦争」の中で次の記述を加えている。「我が政府は、戦の目的が清の目を覚まして東亜に新しい秩序を作る事を声明した。我が誠意に感激した人々は新しい政府を作りました。」日本は満州・中国と共に三国協力体制を作り上げ東亜新秩序の建設に励む事になった。これがその記述である。このようにこの教科書では、明治維新以来日本のアジア政略のすべてを太平洋戦争の目的である「東亜新秩序の建設」につながるものだといい、相変わらず教科書の内容は日本を神格化したものしかなかった。

3. 地理教科書の分析

(1) 翻訳期(1872年〜79年)

 翻訳期の地理の教科書は、長い間の鎖国の眠りから覚めた国民の関心が、世界に向かったという特徴が見る事が出来る。中国をどのように紹介しているかというと中国はアジアの三分の一を占める大国で、人民多く国土広大であり北京・上海・南京・広東などの都市があり古代より文化、産業が開け、国民は仁義五常を重んずる人が多いとの記述がある。しかし清の時代についての評価は良くなく政治については古来より「君主専政」でそのため文明の開化も遅れ、国民の知覚も遅れているという。また中国の民に関しても「残忍ノ風習言フ二忍ビ」とつらい評価をしている。

(2)儒教主義復活期(1880年〜85年)

 この期の内容は、中国の地理的状況を印象良く述べた後、政治は君主専制だが、孔子の教えを国典として文学はとても発展していると良く評価している。


(3)検定期(1886年〜1903年)

 中国については、ヨーロッパ全州より広大、軍備も豊かなアジア一の大帝国だといい、4000年前より文物・技芸大いに進み、日本も古くより親交をもち学問・工芸など中国に学んだものは多いという。また中国人は気風尊大を尊ぶが、礼儀を重んじ、それは他国の人に及ぶところに有らずとの記述がある。全体的に見てこの教科書は比較的真実を評価している稀な例である。

(4)国定第一期(1904年〜09年)

 中国の記述はみられませんでした。

(5)国定代二期(1910年〜17年)

 中国については地理・産業に関する簡単な記述があるのみ。

(6)国定第三期(1918年〜32年)

 中国はアジアの大国である事、上海、香港は日本の横浜、神戸と共にアジアの交通貿易の中心である事、中国は農産物に富み、工業は紡績が盛んな事、鉱産物の豊富なことが記され、最後に古来日本と関係が深い事を日清日露戦争以後の権益増大の観点から書いているといえる。

(7)国定第四期(1933年〜40年)

 この教科書になって始めて満州は中国から分離され、独立した<満州>と言う記述になっている。満州は1932年新たに出来た帝国である事。気温は農業に適し、大豆の生産は世界的規模の物である。満州は日本と陸続きで国防上・産業上極めて密接な国であり日本の生命線である事などが述べられている。中国についての記述は今までと大差はない。ただ中国は日本の主な貿易取引先であるという記述があるだけだ。

(8) 国定第五期(1940年〜45年)

 中国関係の記述内容はやはり四期までと一緒だが、日中戦争勃発の理由が書き加えられている点が今までと多少違う。中国の支配者たちは、排日・抗日の思想を持って日本に敵対し、遂に日中間に戦争が勃発し日本は中国に反省を促し東洋平和建設という使命のもとに全力を尽くして目的を遂行しているという独善的な見解をしている。又更に日本を尊大化した記述も見られる。日本は神国、尊い国だといい、大東亜を導き守るために最もふさわしい国だとし、続けて中国にふれ中国は日本にとって大切な国であるといいながらも中国は人口も多くてまとまらず、「今多くの中国人は日本を頼りにして、力を合わせて進もうとするようになってきました。」という記述もある。(ここでいう中国とは南京政府関係を指していっている。)

  <満州>の序章では「日本とはまるで親子のような間柄にある国が満州です」と、(もちろん親が日本で子供が満州である)満州が日本の傀儡国家である事を自ら暴露している。<中国>の章で中国は中国本部だけでも日本の7倍、人口も4倍あり、「日本は中国と協力して大東亜の建設をしようと努力をしています」と述べているが実態は日本の中国への侵略に他ならないことを暴露しているのである。

 例えば北京について、北京は中国北部の政治中心で人口約160万、城内には立派な宮殿がある。「日本人は主に城内に住みその数は増加する一方です」という地理的な記述もある。最後の<日本と中国>という章があり、日本と中国より関係の深い国はない事、日・中の人々は人種としても近く文字も共通しているだけではなく、相互が親しい国だという点を強調し、中国資源と労働力が日本の技術と資本で開発される事を期待することが大東亜建設の最大の方法だという。更に中国に対して、「日本の援助がなければ独立できない国だ」など侮辱的な事を言い次のように述べている。「元来中国は広いため、国内の統一がつかず昔から乱れがちで多くの中国人は気の毒な生活を続けて来ました。日本はこれを救おうとしているのです。このような日本の真心を理解せず、今日まだ目覚めない一部の中国人は、米・英などの力を借りて日本に反抗していますが、我々は一日も早くこれらの人々を目覚めさせて共に大東亜の建設に進まなければなりません。しかも建設は既に始まっていて日本の指導で交通もどんどん発達し、物資も盛んに交換されています。南京には新しい政府が生まれて、日毎に明るさと力を加えています」。日本の中国侵略に対する独善的な行動がいかに身勝手なものだったのかがわかる。

4 あとがき

 国語、日本歴史、地理の教科書に記載された中国関係の記事は、内容はほとんど同じで、いずれも国家の要求する立場から中国政策に都合がいいような日本から見た主観的な価値評価が加えられている。この傾向は第四期以後の国定教科書に特に良く見られるがそれ以前も変わらない。中国に対して好意的な評価は、古代中国の偉人や早くから開花した文物・文化に対してである。しかしこれも日本的な評価であり、国家の欲する評価に他ならなかった。古代、中世の歴史的事件は、すべて日本の「国威宣揚」に関わりのあるものばかりである。中国は信頼できぬ国、礼儀を失する国というイメージがつきまとう。鎖国以前の日本にも、既にアジアの指導者としての力があったかのように子供に印象づけている。こういう傾向は明治の開花期の教科書から存在している。明治維新以後の中国に関しては、彼らは日本に対して敵対するだけでなく欧米の侵略にさらされているアジアの危機に目をむけず、中国を東洋平和を乱すものというレッテルを貼りつけているのである。

 ファシズム期に入ると日中間の紛争が継起するが、既に偽りの中国観を植え付けられて成長し大人になった「子供」は政府や軍の宣伝を疑う余地を持たなくなる。

 この期の教科書も満州建国、満州帝国建設の宣伝ばかりで中国侵略の真相を隠す日本の美化が続く事になるのである。太平洋戦争期の教科書には戦争に入る日本の現実とは逆に外見的な日中親善の記述が見られる。この時期の中国は善悪2つに選別される。いい中国は日本の傀儡政権で悪いのは中国民族解放の為に戦う政権である。
このように太平洋戦争末期の日本は、行動とは裏腹に自己の行為の美化を試みてそれを子供に印象づけている。

 これで前編の研究を終わりたいと思います。今回は自分の考えを入れる事が出来なかったので研究Uの時そこに注意したいです。また今回の研究で私自身日本人が中国に対して教科書を通じてどんな教育を受けていたかを調べる事ができ、過去の歴史の一部に少しでも触れる事で自分の知識として、今後中国人の方としゃべる時もこの点をふまえて話していきたいと思いました。この研究は僕にとってとても有意義でした。

参考文献

インターネット・日本の歴史の教科書
・ 『日中戦争と日中関係』
井上 清・衛藤 藩吉=編者 原書房
・『日清戦争の社会史(「文民戦争」と民衆)』
大谷 正・原田敬一=編者 フォーラム
・ 『拝啓 韓国・中国・ロシア・アメリカ合衆国殿』
谷沢 永一・渡辺 昇一=編者 光文社
・『教科書から消せない歴史』
久保井 規夫=編者 明石書店

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