プログラム(パンフレット)

記念すべきコンサートのプログラムたちです。(最近はパンフレットというんだそうですね)

月日

コンサート名

表紙

摘要

1922年 不詳(多分11月下旬) 大正11年度同志社イーブ/グリークラブ演奏曲目概説(同志社栄光館か) 早稲田大学混声OB石井洋一氏(1970卒)寄贈の貴重なパンフレット。残念ながら月日が記載されていないがおそらく同年11月下旬であろうか。イーブ音楽会の一部でプログラムに曲目などが載らなかったのを補ったのか定かでないが、当時の同志社グリークラブレパートリイを窺う絶好の資料。まずモーツァルト(伝)12番ミサのグローリアにはじまり、パークス編曲フォスターの「主人は冷たい土の中」バスソロをフィーチャした四重唱で歌われたという。編者1955年友人と語らって編成したダブルQで歌った記憶がある。
1925年 4/4 全同志社大音楽会曲目(東京・青山会館) これも早混OB石井洋一氏寄贈の貴重なプログラム。前窪一雄氏の同志社混声合唱団年譜稿ではこの年の秋の同志社イーブで記念すべき「同志社混声合唱団」の発足が披露された、同志社の合唱史の記念すべき年である。同志社グリークラブはこの年の春東北演奏旅行を同志社マンドリンクラブと合同で行いその終盤がこの東京公演であった。東北では見られなかったOBを中心とするプロ音楽家の演奏を交えた華やかなものだったことが窺える。ただマンクラが出ずっぱりなのにくらべグリーは4曲のみ。四重唱で無理がきかなかったのか。最終にマンクラと「麦祭」を協演している。編者も現役時代慣れぬフランス語と悪戦苦闘した思い出がある懐かしい曲。
1935年 10/29 同志社創立六十周年記念音楽会「救世主(メシヤ)」(同志社栄光館) 森本芳雄指揮による同志社メサイア最初の演奏会プログラム。「全国中継放送」とあるので日本放送協会(NHK)がライブ中継したものと思われる。□□氏、○○女史という独唱者の表記が時代を感じさせる。同志社シムフォニーオーケストラは現在の同志社交響楽団の前身であろうか。本演奏会は第三部を省略して演奏された。末尾に「ハレルヤ・此の曲はロンドン初演以来起立して聴く習慣になって居りますので御起立願ひます」とあるのが微笑ましい。
1949年 9/25 同志社グリークラブ創立45周年演奏会(同志社栄光館) 昭和24年、まだ戦後という時代にこの記念コンサートが実施された。Gleeのマークは1955年入団の我々が知らないデザインである。京都・同志社栄光館ファウラーチャペルと丁寧に記され、特別出演はグリー先輩のピアニスト・宅孝二氏。2003年逝去された松本勝男氏の作品があるのも珍しい。総じてLiederschatz出典のドイツロマン派の曲が多い。ヘーガーの剣と竪琴(Die Beiden Särge)はよく歌われた難曲。先輩・大中寅二氏のBe A Baも当時よく歌われた。男声合唱(先輩)は現クローバークラブの前身。メンデルスゾーンの「芸術の使徒へ捧ぐる祝祭歌」は最近聞かれなくなったが、名曲。コンサート終了後森本先生が「グリーが技術的に向上した時に極って何時もこの曲が取り上げられる」と言われたとか。
1951年 12/16 故森本芳雄先生追悼演奏会(同志社栄光館) 1951年11月、同志社音楽のバックボーン・森本先生逝去。「私共は先生が居て下さることを当り前と思い過ぎていた」という中瀬古和教授のプログラム巻頭言に、参加したメンバーの思いが込められている。T部はホザナコーラス、クローバークラブ、京都混声、カレジエート・コーラル・ドウシシャ(CCD)、大阪放送合唱団、グリー、同志社混声と森本先生の関わられた合唱団がこぞって出演した。合同の「主よみもとに」は先生の数少ない遺された編曲のひとつ。U部では、同志社混声が中心となりCCDが加わって、先生が育て上げられたメサイアが演奏された。CCDは「同志社学生混声合唱団」の正名が決まっていた筈だが?メサイアT・U・V部とも抜粋ながら涙とともに歌われたとは当時を知るメンバーの述懐である。
1952年 7/16 関西学院高等部グリークラブ・新宮高合唱部合同音楽会(千穂小学校講堂) 私の合唱人生はこれから始まった。まさに個人的そのものの記念コンサートである。関西合唱連盟長井委員長のお世話で毎夏新宮に関西の優秀な合唱団を招聘してJointを行い、合同演奏を長井先生に振っていただいた。合唱コンクールでは小中高とも新宮が県下でトップという時代であった。この僅か3ヵ月前に合唱を始めた私は、ウェルナーの野ばらにド−ドド−ドソ−ソソ−−とカナを振って覚えることからはじめた。3ヵ月でメサイアの3曲を暗譜してしまったことが信じられない。プログラムには記載されていないが、この時の関学高等部グリークラブの指揮者は吉坂泰治氏、新宮は山崎亭之助先生、合同のピアノ伴奏は山崎壽子さんだった。
1953年 6/10 諏訪根自子提琴獨奏会(千穂小学校講堂) 当時プロの音楽家はなかなか田舎には来演しなかった。たまに見えると何をさて置いても駆けつけたものだ。このコンサートはプロ音楽家をはじめて聴いた“初体験”である。市の音楽同好会の会員ということになっていたので、終演後ステージで諏訪さんを囲んで記念写真におさまっている若き日の自分がいる。 因みに右下の白抜ケは入場券半券として切り取られた跡。当時こういう兼用パンフがまま見られた。因みにこの後上洛までに聴いたプロ演奏家は木下保(Ten; 54.7)、長門美保(Sop; 54.9)、巌本眞理(Vn; 55.2)、奥田良三(Ten; 55.2)。
1955年 6/26 合唱交歓演奏会(同志社栄光館) 時あたかも同志社創立80周年。当時の同志社を代表する現役・OBの四合唱団がジョイントコンサートを行うのは至極自然の成り行きだった。メサイアの同志社混声か同志社混声のメサイアかと謳われた同志社混声合唱団は、森本先生の没後いくばくもなく立ち消え。あらたに織田氏を指揮者とし、メンデルスゾーンのエリヤに取り組んで再起したところだった。クローバーは前年関西合唱コンクール初出場で3位入賞。この秋全国優勝する。グリーは前年創部50周年で全国優勝に輝いた。CCDはこの年で創立8年、演奏会3回目を迎える。エリヤから数曲抜粋演奏し、年末の演奏会へ向けてアピールした同志社混声は、当時私が新入生だったことを割り引いても素晴らしいレベルにあったことは確かだ。合同演奏のイェス君は当時あまり歌われなかったという記憶がある。
10/6 ミッシャ・エルマンヴァイオリンリサイタル(京都松竹座) はじめて外人の演奏を聴いたという、メモリアル・コンサートである。学食の定食が40円の時代に800円のチケットを買ったことからしても“意気込み”が伺える。時代はハイフェッツ、オイストラフの時代へ移行していた。エルマンはさらにもう一時代前の人というイメージがあったようだ。それはともかく1891年生まれだからこの年で64歳だったことになる。当時の64歳は現代に比べて相当年寄りのイメージだった。けれどその音色はいまだに思い出せるが、甘い柔かい独特のものであった。
12/4 同志社混声合唱団オラトリオ「エリヤ」演奏会(同志社栄光館) いわゆる同志社混声のメサイアはこの『プログラム』フォルダー冒頭に掲げた同志社混声のメサイア初演から16年後の1951年、森本先生急逝によって頓挫する。メサイアは遺志を継ぐ有志により54年まで続けられたが、55年に至り急にオラトリオ「エリヤ」に変更されたという。なぜメサイアでなくてエリヤだったか?一説によると森本メサイアの“刷り込み”は意外に強く、どなたが振っても森本節になることを忌避して、この選曲になったのだともいう。指揮者が交替したいきさつなど、一年坊主だった筆者には窺い知れない事情があったようだ。田舎ぽっと出の若者が同志社混声に紛れ込んだとき、そのレベルは後年参加したゲヴァントに勝るとも劣らないものだった。ソリストクラスがズラリ。初見で原語の歌詞付けなどカルチャーショックであった。このコンサートが私のメモリアルコンサートである所以。エリヤはメンデルスゾーンが1846年英国バーミンガムで初演したが、そのとき英語テキストであったことから、この演奏会も英語版を使って演奏した。1997年ライプツィヒでメンデルスゾーン没後150年祭があり、閉幕コンサート「エリア」の合唱がバーミンガム交響合唱団であったことを思い出す(クルト・マズア/ライプツィヒゲヴァントハウス響)。
1956年 3/22 第24回音楽コンクール受賞者発表演奏会(弥栄会館) 毎日新聞とNHKが主催する音楽コンクールの声楽部門でこの第24回の声楽部門で一位と特賞に輝いた五十嵐喜芳のお披露目である。中川牧三氏に師事している人が回りにいたせいかもしれない。コンクール一位の人が京都に会してのコンサートのニュースはすぐ伝わった。このあと数年を経てイタリア留学から帰国した五十嵐喜芳はみごとに恰幅がよくなっていてびっくりしたものだが、この頃の細いこと!泣き節もまだ聞かれなかった。
4/9 ドン・コザック合唱団演奏会(京都劇場) 高校時代からその“超低音”をレコードで聴いていたドン・コザックは憧れであった。エルマンもそうだったがこれも映画館である。海外の合唱団を「ナマ」で聴くのはこれが始めて。レコードのヴォリュームからもっと大人数を想像していてやや期待はずれだった。声もソリストの集まりみたいでバラバラに聞こえた記憶がある。指揮者セルゲ・ジャーロフは意外に小男だった。ジャーロフが一曲が終るごとに大男の並ぶ列の後に回りこみ、ややあって指揮台に戻り、一礼して振り向きざま曲が始まるのには度肝を抜かれた。後へ回り込んだとき音取りは済んでいたのだろう。
5/21・27 クローバークラブ第1回演奏会(大阪産経会館・京都彌栄会館) しゃれたデザインのこの表紙は、変わることなく定番として使われ、バインダー代わりにもなった。この当時東京の一部を除き単独の男声合唱団でコンサートを開くことは珍しかったし、難しかった。いわば先鞭をつけたともいえようか。1955年全日本合唱コンクール一般の部優勝の栄に輝いた翌年、満を持して開かれたコンサート。67名のメンバー中50歳以上は4名、平均年齢28歳という若さが満ち満ちていた。ちなみに同志社グリークラブ創立50周年記念演奏会に出演した1954年をもってクローバークラブ創立としている。シューベルトにメンデルスゾーンというプロは近年なかなかお目にかからない。Das Dörfchen(小村落)はこのころよく歌われたようだ。織田、日下部お二人の個性横溢のステージであった。別の意味でこのころのクローバーらしいプロである。ドングリコロコロはグリー、クローバーでよく歌われた。ジェリコは1954年コンクール初参加3位入賞の際の自由曲。よく見ると本演奏会は合唱がすべて無伴奏曲である(Das Dörfchenも無伴奏で歌った)。調べたら18回の定期演奏会でこういうのは絶後である。
1957年 3/7 ダーク ダックス・リサイタル(弥栄会館) 慶應ワグネルソサイエティ男声合唱団OBということで前評判は高かった。その関西初公演。すでにいくつかのカルテットは活動を始めていた。小山欣一先輩の属するフォー・コインズなどもそうだ。でもコンサートという形の口火を切ったのはダクダクとも略称されていたダークだった。今から思うと実にアマチュアっぽいステージだった。同志社グリーにはゴールデンゲイトQをもじったシルバーゲイトがあったが、失礼にもこっちのほうが上手いなどと品定めをしたものである。デュークエイセス、ボニージャックスなどそれぞれ得意な分野があったが、ダークはロシヤ民謡=歌声喫茶=の印象が強い。このステージは今から思うと〜時代の相違だろうが〜至極きまじめなものだ。
3/16・17 同志社グリークラブ広島演奏会(広島児童文化会館) 旧バージョンによる「雪と花火」の初演日。舞鶴、豊岡、鳥取、倉吉、米子、松江と続いた中国・九州演奏旅行の7日目であった。山陰の1週間は雪また雪で、ここ広島でホッとしたことを思い出す。雪の松江から夜行列車で早暁5時48分というトンでもない時刻に広島着。学校のご協力を頂き、ムードの盛り上がっている当地では土日の2回公演を行った。広島女学院の賛助出演を頂いた。各地で女子大・女子高の賛助出演があるとテンションは最高であった。雪と花火は本演奏旅行当初から歌っていたが、第4曲の完成が遅れ、4曲全部揃ったのがこの広島だった。広島出身者が数人いたが、このときばかりは名士であった。シルバーゲイトは人気が高く、リードテナーの河原林さんがにっこりすると大騒ぎであった。
6/16 カリフォルニア大学グリークラブ演奏会(同志社栄光館) このコンサートは名前こそカ大グリー演奏会となっているが、実質はエール交換からはじまるジョイント・コンサート。外国の合唱団との協演のはしり。アメリカ国歌に先立って君が代の合唱をすることとなり、よく用いられる吹奏楽バージョンに基づいてさえらのすしが編曲したものを歌ったが、終演後カ大指揮者コマンディ氏から「日本のトラディショナルな旋律に西洋音楽の和声付けをした」云々と“意外だ”というニュアンスのコメントがあった。組曲「雪と花火」はこの春の演奏旅行初演以来歌い継がれてゆくが、この日は現バージョンに変更しての初演日となる。思うにこのコンサートが同志社グリー脱皮の第1ステップだったのではないか、と今にして思う。このコンサートでカ大が歌った「嘆きの川」を頂いて次期指揮者市島氏がとりあげ、“ソプラノ”康田の絶唱が生まれた。
8/10 同志社グリークラブ第1回東京演奏会(日本青年館ホール) 同志社グリーとしてはじめての東京単独演奏会だった。東海・東北演奏旅行中のこと。8月7日浜松(昼夜)、8日静岡(昼夜)を経、満を持して臨んだステージだった。第一回というタイトルに“今回っきりではないぞ”という意気込みが感じられる。福永陽一郎さんに1ステージ正式に振っていただいた初めてのコンサートでもある。指揮者・カンタこと河原林さん、最上川独唱・“ソプラノ”康田、牛追唄独唱・ベコ浜田・・みんな故人となった。「・・小組曲」とは最初で最後か?福永さんのシンコペの切れ要求は同志社グリーにとってまさにカルチャーショックであった。Until the Dawnは山口隆俊大先輩の訳詞「あしたまで」で、よく歌われたものだった。
11/5 第9回京都市立音楽短期大学定期演奏会(ギオン彌榮会館) 京都市立芸術大学が京都市立「音楽短期」大学のころ。混声合唱に男声が不足だったのか同志社グリー有志が応援出演し、京都市交響楽団創立に招聘された指揮者カール・チェリウスの棒で歌ったBrahms「運命の歌-Schicksalslied-」。本場の指揮者で歌った初体験。《有志だけとは言いながらコンクールを4日後に控え、今から思えば余裕のあったこと!》ブラームス没後60年ということでもう1ステージは彼のドイツ民謡集。これは桜井武雄指揮。桜井先生には運命の歌の練習指揮もしていただいた。このときわれわれが奉ったあだ名が「Droben」。
11/9 第12回関西合唱コンクール(高校・大学の部)(尼崎市文化会館) 関西第1位。これが当時のグリーメンにとってかけがえのない最高のものであった。この表紙に書き込まれた先輩たちのことばが、高揚したその日の雰囲気を物語っている。曰く
・よくぞ勝ってくれた。僕たちの夢だった。今日は全く歴史的な日だ(クサカベ)
・グリー・クローバーバンザイ。本当によかった(松本)
・こんなに嬉しかった事は始めて。おめでとうといふより、有難う(岡本)
・誠にうれしい日です。有難う(領木)
・心からおめでたう。よかったな(大河内)
関学・同志社・京大の三男声合唱団は全国へ出しても上位を独占するとまで言われた 、関西男声合唱の黄金期でもあった。しかしそれは常に関学1位を前提にしたものだった。1票差とはいえその壁を乗り越えたのがこの河原林/同志社グリーであったのだ。18団体が参加した大学の部は大阪市大女声と京女の二つを除きあとすべて男声合唱である。混声は次年度以降から姿を見せる。この年の異変?は同志社グリーが優勝したことだけではなくて、ベスト3常連であった京大男声を抑え、関西大グリーが3位入賞を果たしたことだろう。その指揮者杉山氏は図らずも半世紀後にウィーンでご一緒することになるのだが、それはまた別項で。
11/23 第10回全日本合唱コンクール(大阪府立体育会館) 同志社グリークラブ史上燦然と輝く金字塔。審査員満票による全国優勝であった。一般の部で優勝した兄貴分クローバークラブはこれが三年連続。ともに手を取り合って喜んだことが昨日のように思い出される。50年ほど昔だからでもあろう、日本音楽史上の人物の名前が審査員や連盟理事に並んでいる。合唱などの演奏の現場びとより作曲家の名前が目立つ。これは後日談だが、このとき最強の相手と思っていた玉川学園(小山章三指揮)で、千里バッハ合唱団立ち上げの時の同志Y本さんが歌っておられたのである。この世界って案外狭いものなのだ。
12/7 クリスマスコンサート・同志社学生混声合唱団第5回発表会(同志社栄光館) CCD創立10周年でクリスマスコンサートが5回目。コンサートのタイトルが微妙に変わっている。またデザインがいままでの朝倉さんから変更された。・・・私の正指揮者として最初の演奏会。黒沢敬一氏率いる東京マドリガルシンガーズを賛助出演に迎えた。当時まだルネッサンスの合唱音楽をメインにすえたこういうグループは珍しかった。メンバーには外人が多かったのも印象的だった。「童心賦」初演。OBOG合同のステージも初。「イェス君」は55年4団体ジョイント(同志社混声、クローバー、グリー、CCD)の合同演奏以来で、CCD単独ではまず歌わなかった。アメリカ帰りの54年度幹事長大橋さんに頂いた「Carol of the Drum」初演。「ネルソンミサ」=実に渋い選曲、そして当時としては難曲であった。オルガン伴奏予定が事故のため急遽ピアノに変わったいきさつは、先般のFC紙リレー随筆(vol.26「薄氷を踏んだステージ」)参照。
12/21 祝1957年全日本コーラス第1位招待演奏会(京都ヤサカ会館) この秋全日本合唱コンクールで同志社グリー(大学の部)とOBのクローバークラブ(一般の部)が優勝したが、NHK主催の全国唱歌ラジオコンクール(今のNHK全国学校音楽コンクールの前身)小学校の部でも京都市立醒泉小学校児童合唱団が第1位となった。時の高山市長が喜んで創立間もない京響を露払い(?)に、この3合唱団招待演奏会が開かれることとなったのである。招待演奏会とは言い条、出演3団体は“報告”演奏会と認識していた。でもシーズンはクリスマス。それ向けの曲が並んだのはま、しゃぁないか。ちなみにこの頃は弥栄会館がよく使われた。岡崎の京都会館(昭和35年)ができる直前のことである。これは最近気がついたのだが、このコンサートに私は出演していない。らしい。というのは次に掲載したCCD初演奏旅行中だったからである。
12/21 同志社学生混声合唱団(新宮)演奏会(丹鶴小学校講堂) CCDとしてはじめての泊りがけ演奏旅行。といっても夜行出発、一泊、夜行帰洛という強行軍であった。プログラム表紙、見返しがすべて数日前の栄光館での発表会プログラムと同一なのは、デザインを新しくおこす暇がなかったためだろう。勘弁してやってつかあさい。こういうのもなんだが、故郷に錦を云々の意識がなかったかと言えばうそになる。高校3年間ご薫陶賜った山崎先生の前でひとつ歩を進めたCCDを披露できたのは、ささやかな先生への恩返しだった。そう信じている。当時新宮は天王寺から6-7時間夜行列車に揺られて辿りつくいわば陸の孤島だった。新宮がいかほどのものか団員は白紙で乗り込んだのだが“案外やるやないの”。CCD団員に新宮高校合唱部を紹介できたことも恩返しの一つだったのかもしれない。
1958年 6/21・22 第七回東西四大学合唱音楽会(同志社栄光館・大阪毎日ホール) 俗に「四連」と称されるこの演奏会は、1952年大阪産経会館で第1回開催後関西・東京と毎年交互に開催され、2004年で53回を数える。関西では栄光館と阪神地区で1回ずつ開催されるきまりだった。この2年前は栄光館と宝塚大劇場。今回の毎日ホールはホールが出来てまもなくだったと思われる。このころの各校の特徴がよく出ている第一部プロである。故康東秀の絶唱・嘆きの川(愛称リオケ)は、この前年カリフォルニア大学グリーが日本に紹介した。ランダル・トンプスンの「自由の契約」初演。指揮ピアス・ゲッツ同女大教授は前年夏演奏旅行中仙台で宮城女学院との合同を振って頂いた縁でお願いした。英語ナレーションはペンギンことO内幹事長だった。
11/3 第13回関西合唱コンクール(高校・大学の部)(大阪朝日会館) CCDがはじめてコンクールに参加し、5位入賞したときのプログラムである。この二、三年前のCCDを知る人は異口同音に「えっ、あのCCDが・・・」と絶句したという。それほどCCDがコンクールに出場することは夢想だに出来ない“壮挙(暴挙?)”だったのである。現在のコンクールしか知らない方には異様に映るかもしれないが、当時は、それまで一日で職場・高校・大学・一般を終えていたコンクールをようやく二日に分けて行うようになったばかりだった。もちろん女声・男声・混声はごちゃまぜ一括である。課題曲は各部門1曲しかなく、現在のように複数の課題曲から選択できるようになったのはずいぶんあとのこと。女声3団体、男声16団体、混声2団体と圧倒的に男声合唱優位の時代であった。この指揮者群像を見て驚いたのは2001年ゲヴァントハウス合唱団のウィーンにおけるマタイ受難曲公演のときだった。このコンクール大学の部指揮者21人のうち3人がウィーンでオンステしたのである。前年の1957年コンクール指揮者まで含めれば4人。こんなことってあるのですね。
1968年 9/12 三菱商事マンドリン&コーラスコンサート(朝日生命ホール) 三菱商事大阪支社の合唱団とかかわりを持って7年目。この年の産業人合唱コンテスト大阪ブロック大会で優秀賞を受賞し、全国大会出場を果たした。いっときの合唱ブームにかげりが見え始め、そうでなくても忙しい会社環境で団員は減少傾向にあった。コンテストは一列並ぶだけの人員で出場した。コンテスト自由曲はドイツ語の無伴奏宗教曲で正式には中間にSoliをはさむのだが、すべてTuttiで歌いとおし、望外の結果を得た。このギタマンとのジョイントはその勢いで男声合唱・女声合唱までやってのけた。
1975年 12/8 神戸女学院創立百周年記念演奏会MESSIAH(神戸国際会館大ホール) かねてから神戸女学院のメサイアに応援の形でクローバークラブの有志が参加していた。この年は創立百周年ということで拡大版となり、朝比奈隆氏を迎えて行われた。独唱者には女学院の教授陣:ソプラノの岡田先生、アルトの広沢先生、バスの林先生が加わった。今となっては殆んど覚えていないのだが、ただひとつ、開幕で朝比奈先生が下手から登場される、その歩き方が印象に残っている。指揮棒を持ち、胸を張って悠然と、堂々と、正面と客席を交互に見ながら指揮台に向かわれた。「あゝこの雰囲気がマエストロのマエストロたる所以なんだ」 訳もなく昂揚した自分がそこにいた。
1984年 11/4 同志社グリークラブ創立80周年記念クローバークラブ演奏会(シルクホール) 1984年グリー80周年を記念して行われたコンサート。クローバークラブ演奏会とあるが、実質はジョイントコンサートだった。グリーは現役指揮者がロシア民謡、クローバーは山下裕司さんが福永編・南太平洋を振ったほか、歴代8人の指揮者(山田基男、日下部吉彦、河原林昭良、森本潔、浅井敬壹、富岡健、山下裕司、楠敏也)によって得意の曲が披露された。いかにも祝典らしい総花プロ。
1985年 9/16 千里バッハ合唱団「ロ短調ミサ曲」演奏会(大阪厚生年金会館中ホール) 「千里でクリスマス音楽を」という催事にメサイアとクリオラ(バッハ)を隔年交互に演奏してきた千里クリスマス合唱団が母体。83年千里バッハ合唱団に改組。バッハ生誕300年にロ短調ミサ曲の演奏を目指し、2年有余の歳月をかけて八木先生・田中先生指導のもとに取り組んでこの日を迎えた。77年から続けたボーイスカウトのリーダー時代は、ほぼ6年間完全に音楽から遠ざかっていたため、新たな気持ちで合唱に取組めたことも幸いした。当時のメンバーはかつて近郊の合唱団、学生合唱団で鳴らした、また活躍中の人が大勢居て、百家争鳴とはまさにこのことであった。対立・議論は日常茶飯事であったが、またそれが合唱団の活力となっていた。当時珍しかった練習用テープをコンピューターで作る人、得意のセンスで団ニュース以外のバッハル・クラブ≠ネるミニコミ誌を作る人などなど、団内にエネルギーが満ち満ちていた。個人的な話になるが、これまで30有余年にわたるアマチュア合唱団歴でプロの先生に恒常的に指導いただいたのは初めての経験。その意味で“開眼した”ともいえるがまた奥深さも垣間見えて、それまで何の疑問もなく人様の前で棒を振ってきたことに罪悪感すら覚えた。これは大曲であり難曲である。合唱団としての歌い甲斐はブラームスのドイツレクイエムと双璧ではなかろうか。
1988年 6/12 大阪ゲヴァントハウス合唱団第5回定期演奏会(日本聖公会大阪聖パウロ教会) 千里バッハ同僚の西田さんから誘われ、当時いろんな事情で男声メンバー枯渇状態にあった大阪ゲヴァントに応援出演させていただいた。プロはパーセルとそしてフランクの荘厳ミサであった。就中Panis Angelicusがつとに有名だが、今回は混声3部の原曲を4部に編曲したものを用いた。プロ合唱団との先入観で恐る恐る顔を出したら林先生に「よう来てくれはりました」と暖かく迎えていただいたのに仰天した。後ほどわかったことだが、京都に較べてアマチュア色が濃かったとの印象がある。でも先生にもつかない乃公のようなアマは珍しく「形だけでも」と迫られたオーディションを最後まで遠慮(拒否か)し続けたのは乃公だけではなかったか。15年にわたる中身の濃いお付き合いの始まりであった。
1989年 12/10 同志社混声再発足5周年記念演奏会(同志社新島会館) 歴史ある同志社混声が84年に再結成・発足してから5年目。コンサートは3回目になる。シャルパンティエとモーツァルトという結構重厚な、ある意味では軽い取り合わせ。この「ヴェスペレ=証聖者の盛儀晩課K.339=全曲」が私の振り納めとなった。いろいろあった中でお力添えいただいた独唱者・伴奏者の諸氏に感謝である。
小谷嘉子(S)、西本直子(Ms)、楠敏也(T)、野村忠(B)、伊吹元子(p)
1993年 8/22 京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団演奏旅行'93(ウィーン・シュテファン大聖堂 ホルン・ブライテンアイヒ城 ツヴェトゥル修道院聖堂 ) これは「京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団ご案内」と題されたリーフレットで、決して「プログラム」ではない。が、生まれて初めての外国がウィーンだったことが無性に嬉しかった"初体験"記念品である。この日朝一番にシュテファン大聖堂の聖日ミサにシューベルトの「Gミサ」を献唱。指揮台に立つ林先生の感極まった表情は忘れ難い。終了後バスでウィーン北方郊外のホルンにあるブライテンアイヒ城を訪い、国際室内楽フェスティバルの開幕に日本民謡などを披露した。ホルンから西方へバスを走らせるとツヴェトゥル。自然に取り囲まれた素晴らしい環境に位置する修道院。残響の大きい聖堂でリストのミサ・コラリスなどを演奏した。9時ウィーン、15時ホルン、19時ツヴェトゥルと立て続けの本番。バス移動で景色を堪能するどころか居眠り三昧を決め込む輩の多かったのもむべなるかな、である。このあとデュッセルドルフに移動、二つの教会で演奏会を行った。
1995年 8/24 京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団演奏旅行'95(バルセロナ・サグラダファミリア地下聖堂) ***
1997年 11/3 京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団演奏旅行'97(ライプツィヒ・聖トマス教会) ***。
12/12 アイヴィーチャペル合唱アカデミークリスマスコンサート(千里阪急ホテルアイヴィーチャペル) 千里バッハのとき受難曲のイェス独唱者としてお世話になっていた今泉先生のもと小人数アンサンブルをつくると聞き馳せ参じた。学生時代の先輩やW大混声の学指揮経験者夫妻などオーディションを経て約20人で発足。その第1回コンサートがこれである。オーディションなるものの初体験。パレストリーナのミサ曲・モテト、ラター編曲の英国キャロルなど多数に埋もれないで複旋律合唱曲を楽しんだ。なかでもWassail Songが大好きであった。新しく刺激的な環境に満足した日々が続いたのだった。
2001年 5/3・4 アンサンブル・モーツァルティアーナ第47回定期演奏会(能勢町浄るりシアター・ザシンフォニーホール) このコンサートは『第6回能勢チャリティ・コンサート 新世紀を迎えて「第9」と「運命の歌」』というサブタイトルを持つ。京都ゲヴァントハウス合唱団在籍中いくつかあった応援出演の一つ。乃公は久しく“第9は歌いたくない”という謂われなき一念に凝り固まっていたが、同僚Sさんほかの慫慂でいとも簡単に節を曲げてしまい、出演することになっていた。金丸先生の練習は厳しく「ワインのコルク栓持参」練習などベートーベンの「人間の声を楽器扱い」に悪態をつきつつ本番を迎えた。浄るりシアターという珍しいシチュエーションでの第9、そしてシンフォニーで“指揮「北原幸男」ってカッコいい”と思ったときにはすべてその術中にはまっていたのであった。でも、第9はもうケッコウです。
9/17 京都・大阪ゲヴァントハウス合唱団『マタイ受難曲』演奏会in Wien(ウィーン楽友協会大ホール) 林先生畢生の大業ともいうべきマタイのウィーン公演は折りも折、「9.11」直後という最悪のタイミングで行われた。まったく出会い頭としか言いようのない事態だったが、13日出発の我々にとっては幸いというべきかさほど問題なく出入国でき、現地オケ・少年合唱団とのリハーサルも順調に進んで当日を迎えることが出来た。当日は生憎の小雨だったが、開演時にはほぼ満席。登壇した林先生は聴衆にドイツ語で「9.11」の悲劇を語りかけ、本夕のコンサートを始めるにあたり共に祈りたいとして「マタイ受難曲」のメインテーマ「血汐したたる主のみかしら」を歌った。満場起立黙祷の中で林先生の深い宗教心と人類愛に満ちたメッセージが聴衆をはじめ演奏する側にも伝わり、終演時のスタンディング・オベーションにつながったのだと思う。
2003年 9/15 《林達次オラトリオシリーズ》東京公演・ドイツレクイエム演奏会(すみだトリフォニーホール) 林達次“白鳥の歌”コンサート。
ゲヴァントハウス合唱団創設以来はじめて東京の地でコンサートをもつこととなった。自前のコンサートで土地勘はなく、同志社混声合唱団<東京>の全面的な協力が与って大きかった。思えば林先生は8度の海外演奏旅行中5度にわたって戦後留学の地・ウィーンを訪れた。東京はさらにそれ以前・戦中戦後音楽学校の学生として過した地だけに最後の念願の地だったのではなかろうか。この前年から身体の不調を訴えておられたと後に知るが、このコンサート直前までほとんどそのそぶりをも見せられず、普段どおり京都・大阪を指導いただいていた。まさに先生の「白鳥の歌」となったドイツレクイエム。ひるがえって私は、この年体調不良から欠席勝ちでこの演奏会を欠席する羽目に陥るのだが、痛恨とはまさにこのこと。万難を排して参加すればよかったとはあとになっての繰り言。
2017年 7/23 第21回東西四大学OB合唱連盟演奏会(昭和女子大学人見記念講堂) (帰宅後Blogに追記)立錐の余地無き聴衆を前に各団体とも暗譜でオンステ。数十年のブランクのある乃公としては少なからぬプレッシャーのうちのステージだった。個人的にはミスが散発し、必ずしも満点とは行かなかったが、小久保マエストロのもとほぼ期待した演奏が出来たと思われる。DOBS合同に加えて乃公など「無所属」メンバーを交えてのここ数カ月の練習に山下指揮者の徹底した発声訓練、それに基づいた練習は、過去数十年のある意味「澱(おり)」を織り込みつつ新しい次元に仕上げたことで成功だったといえよう。山下さん、そして陰になり日向になって爺連を支えてくれたメンバー諸兄、ありがとう、夢のような25分間でした。感謝。