昭和24年、まだ戦後という時代にこの記念コンサートが実施された。Gleeのマークは1955年入団の我々が知らないデザインである。京都・同志社栄光館ファウラーチャペルと丁寧に記され、特別出演はグリー先輩のピアニスト・宅孝二氏。2003年逝去された松本勝男氏の作品があるのも珍しい。総じてLiederschatz出典のドイツロマン派の曲が多い。ヘーガーの剣と竪琴(Die Beiden Särge)はよく歌われた難曲。先輩・大中寅二氏のBe A Baも当時よく歌われた。男声合唱(先輩)は現クローバークラブの前身。メンデルスゾーンの「芸術の使徒へ捧ぐる祝祭歌」は最近聞かれなくなったが、名曲。コンサート終了後森本先生が「グリーが技術的に向上した時に極って何時もこの曲が取り上げられる」と言われたとか。
同志社グリーとしてはじめての東京単独演奏会だった。東海・東北演奏旅行中のこと。8月7日浜松(昼夜)、8日静岡(昼夜)を経、満を持して臨んだステージだった。第一回というタイトルに“今回っきりではないぞ”という意気込みが感じられる。福永陽一郎さんに1ステージ正式に振っていただいた初めてのコンサートでもある。指揮者・カンタこと河原林さん、最上川独唱・“ソプラノ”康田、牛追唄独唱・ベコ浜田・・みんな故人となった。「・・小組曲」とは最初で最後か?福永さんのシンコペの切れ要求は同志社グリーにとってまさにカルチャーショックであった。Until the Dawnは山口隆俊大先輩の訳詞「あしたまで」で、よく歌われたものだった。
CCD創立10周年でクリスマスコンサートが5回目。コンサートのタイトルが微妙に変わっている。またデザインがいままでの朝倉さんから変更された。・・・私の正指揮者として最初の演奏会。黒沢敬一氏率いる東京マドリガルシンガーズを賛助出演に迎えた。当時まだルネッサンスの合唱音楽をメインにすえたこういうグループは珍しかった。メンバーには外人が多かったのも印象的だった。「童心賦」初演。OBOG合同のステージも初。「イェス君」は55年4団体ジョイント(同志社混声、クローバー、グリー、CCD)の合同演奏以来で、CCD単独ではまず歌わなかった。アメリカ帰りの54年度幹事長大橋さんに頂いた「Carol of the Drum」初演。「ネルソンミサ」=実に渋い選曲、そして当時としては難曲であった。オルガン伴奏予定が事故のため急遽ピアノに変わったいきさつは、先般のFC紙リレー随筆(vol.26「薄氷を踏んだステージ」)参照。