モッキンバーズ・サマリー  1955年〜1958年

The Mockin' Birds Quartet


in Memoriam Samuel Takakuni Tsuboi

昭和30(1955)年

6月21日

 坪井、岡本、大河内、中西、大友、田中滋 、脇地の7人でダブルカルテット(以下ダブカルと略)結成について相談。毎日曜1時より坪井宅で練習と決定。26日第1回練習

7月3日

 柳沢 加入

9月16日

 グループ名をエ・コール・ド・アムールと決定

9月17日

 復活教会付属復活幼稚園で「合唱とレコードの夕べ」にダブカル「エ・コール・ド・アムール」出演。中西、坪井、大河内、脇地、岡本。曲目Stars of the Summer Night、Working on the Railroad、まことの愛、Bring the Wagon Home John、青蛙、アロハオエの6曲。茶話会でHome on the Rangeを歌う

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9月19日

 坪井家幼稚園の会合にダブカル出演。中西、柳沢、坪井、脇地、大河内、岡本の6人。Stars of the Summer Night、Home on the Range、O Mary don't you weep、アロハオエ、アンコール青蛙、それに「イェスきみは」坪井の伴奏でユニゾン。
 この頃田中滋、柳沢退く

11月13日

 出町・清洲旅館で行われたCCD1年生コンパで歌う。中西、大友、坪井、脇地、特出・康田のメンバー。Home on the Range、O Mary don't you weep、アロハオエの3曲

12月17日

 下鴨幼稚園クリスマスページェント奉仕。園児の演じる「三人の博士」の劇中バックコーラス9曲

昭和31(1956)年

1月

 

これは乃公の蔵書。だが購入月日不明。練習曲目にバビロンやハッシュが出てくるのがこの直後なので、当年1月購入とした。この曲集はある意味でカルテット永遠のレパートリーである。映画“The Hit Parade”で歌われた「ジェリコの戦い」やレコードが擦り切れるほど聴いた「戦車よくだれ」などのハイレベルなものでなく、ある意味基礎的な教科書

【Contents: Anyhow, Babylon's Falling, Behold The Bridegroom Cometh, Hush, I'm Climing Up Zion's Hill, I'm So Glad Trouble Don't Last Always, Let's Go Down In Jordan, Living Humble, Stand On Storm, When Moses Smote The Water】

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1月22日

 新矢、柳瀬加入

4月

 

この楽譜WANTED。練習曲目に「サザンエアから2曲」などとこの後に出てくるので、坪井が当年4月頃入手したものの思われる。英語讃美歌の男声四重唱版で、記憶を辿れば Shine on Me、Softly and tenderly、Yield not to Temptation などを歌ったらしい

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4月22日

 伴奏塩路を依頼

5月17日

 坪井家前庭でバラ観賞の集いにサービス。Working on the railroad、Softly and tenderlyの2曲

8月18日

 同志社大学マンドリンクラブ姫路演奏会(姫路市公会堂)に同志社グリークラブ賛助出演名目でダブカル出演。中西、大友、柳瀬、大河内、坪井の5人に堀井と長谷川を入れて塩路伴奏でオンステする

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9月4日

多分この夏東京教文館で求めたであろうキャンプソング集「Let's Sing It」。
扉にこの日の練習に集まったメンバーがサインしている。

Mockin' Birds Quartet/に続き5人の名前/Sept. 4, 1956 とある。

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9月30日

 同志社グリークラブ倉紡枚方工場慰問演奏会。第2ステージ「Mockin' Birds Quartet:Good Morning、Mr.Moon、Massa's in de cold Ground、It's almost Tomorrow」。この演奏会はグリーのオフィシャルステージであった。こういうステージにSilvergateと並んで1ステージを受け持ったことは後にも先にもない

10月3日

 坪井宅で某女史の送別会にダブカルサービス。Good Morning、Mr.Moon、Massa's in de cold Ground、It's almost Tomorrowとアロハオエ

10月9日

 

 坪井大阪日本楽器にて「BARBER SHOP BALLADS(Cole Edition)」購入
 この曲集には180曲になんなんとする曲が収載されており(編曲はすべてオジー・ウェストリ)、手当たり次第歌った記憶がある。坪井が赤鉛筆でマーキングしたものは5曲

 この中にリスントゥザモッキンバード(Listen to the Mocking Bird)があり、この頃グループ名を「エ・コール・ド・アムール」から「モッキンバーズ・カルテット」に改めたのではないかと考えられる

 この楽譜はずっと乃公の手許にあって、20年ほど前だったろうか、彼に返却を申し入れたところ「今斯様なジャンルに全く興味が無いから預かっといて」ということで乃公保管のまま現在に至っている

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12月20日

 下鴨幼稚園クリスマスページェント第一部にサービス。中西、新矢、大友、柳瀬、大河内、坪井、脇地、それに塩路の伴奏。畑中の独唱2曲

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昭和32(1957)年

7〜8月

 この頃柳瀬退く

8月7日

 【★グリー演奏旅行出発。Silvergateメンバー1T山崎拓、2T河原林昭良、Br柳瀬一輝、Bs香川紀】

12月20日

 下鴨幼稚園クリスマスページェントに奉仕。メンバーは中西、新矢、大友、脇地、坪井、塩路に畑中。曲は例年どおり。今度は新矢のSop.で讃美歌を少し

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昭和33(1958)年

2〜3月

 ★この頃坪井が繁忙を極め、彼を中心として活動してきたダブカルは続行不可能となった。ダブカルとしてのモッキンバーズはこの時点で終了

3月11日

 【★グリー演奏旅行出発。Silvergateメンバー1T長谷川邦男、2T柳瀬一輝Br坪井高国、Bs早嶋英治】

12月14日

 奈良県・御所教会一麦会(青年会)主催クリスマスの集いにカルテット新矢、大友、大河内、脇地で賛助出演。単独と大阪女学院コーラスとの合同演奏でクリスマスの讃美歌を歌う。(注:プログラム中に第二部2.混声三部同志社大学グリークラブ有志 とあるがこれは男声四重唱の誤記)

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 2013年12月7日大阪クリスチャンセンターで「クリスマスキャロルを歌う集い2013」がウヰルミナコール主催で行われ“ウヰルミナボーイズ”の一員として参加・歌う機会があった。このときウヰルミナコールメンバーに右下の写真を見せたら1名が「これは私です」と名乗りを挙げられ、55年振りの邂逅となった。(2013.12追記)

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12月20日〜

 12/20 広島女学院中学部講堂
 12/21 防府市松橋小学校講堂
 12/22 広島大学三原分校講堂
CCDの山陽演奏旅行で1ステージ貰って「ペチカ、ともしび、Living Humble、White Christmas」の4曲を歌った。(写真は宿舎でのリハ風景)

昭和34(1959)年

2月7日

 われわれはグリーメンであると同時にほぼ全員CCDのメンバーでもあった。学窓を去るときに、1年ほどの解散状態を乗り越えて、“歌おう”ということで5人が懐かしい歌をリバイバル。場は二条志津屋で行われたCCDのフェアウェルパーティ。♪ピンパカ♪の愛称でよく歌ったMassa's in de cold, cold Ground。オカポンの持ち歌だったが、大河内がみごとにカバーした。

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 ★いまは建て替えられているが、かつての日本聖公会下鴨教会の聖堂には足踏み式のオルガンがあった★それをあの頑丈そうな指で弾きながら音取りをしてくれた坪井★当時珍しかったテープレコーダーで録音したグリーなどの合唱を聞かせてくれた坪井★あの1〜2年前来日したデ・ポア合唱団の印象を熱っぽく語った坪井★ダブカル発足直後にエリヤを練習していた同志社混声へ誘い込んでOBとのつながりを作ってくれた坪井★すべて後のあの仕事にも、またリタイア後のタフな活動にモロに反映していることが驚きであり一面当然だったとも思える★真面目一方?のコーラスしか知らなかった乃公にやや柔らかい音楽の手ほどきをしてくれた坪井★その彼が牧師の子息だったことへの驚き★このモッキンの集まりが34会の強固な結束の基盤の一つでなかったと誰が断言できよう★見舞いに訪れた時、家から見える池・ゴルフ場を指差してあそこを歩きたいと語っていた坪井★病魔との戦いのなかでリハビリ苦闘中の模様をDVDにして送ってくれたあの強固な意志と達観の持ち主★有難う、坪井


     

写真は1999年撮影(さえらのすし)