特集●オハネフ12と普通列車・山陰(4) |
2009年 4月 5日更新 |
下りの「山陰」は、朝8時半に島根県の中心駅である松江に到着する。
寝台客は、ほぼ全てが米子で下車してしまったので何の動きも無い一方、
座席車で行われていた朝の通勤通学輸送も、ここ松江で終了となる。
これより西へ向かうのは、僅かに残った出雲市への長距離客と、
地域輸送の普通列車としての近距離客だけとなる。
松江では15分ほどの停車となるので、列車を降りて対向の上りホームへと出向く。
ややカーブしたホームからは、列車全景を望むことができるが、
昭和59(1984)年2月のダイヤ改正で荷物車と郵便車の連結は廃止され、
座席車は12系に置き換えられたことで、「山陰」の威容は以前ほどでは無くなっていた。
編成を見回すと、DD51からの蒸気供給を必要とするのは寝台車のオハネフ12だけとなったためか、
機関車からの送気圧を絞っても供給過多となるのであろう。
編成の最後尾からは、引き通された蒸気が勢い良く排気されていた。
座席車を12系に置き換えたことで一層存在感を増したオハネフ12ではあるが、
車体に目をやると外板は波打ち、錆の進行による塗装の浮き上がりや、めくれがいたる所に生じていて、
車内で感じる以上に老朽化が進んでいることを思い知らされた。
昨今の寝台特急廃止のニュースの度に、整備が行き届かず傷んだ寝台車の車体がクローズアップされるが、
かつてのオハネフ12の姿に比べれば可愛いものと思う一方で、
去り往く者の置かれた現実は今も同じであることに哀愁を覚えてしまう。
車内に戻ると、デッキと客室との仕切り扉の横に、冷房配電盤が鎮座していることに気付く。
表示は手前から運転停止・送風・冷房とある。銘板の下には何やら貼り紙がされていて、
本車の発電用機関の運転に何かのコツが必要であろうことを物語っていた。
この冷房配電盤と、通路を挟んで向かい側が車掌室となり、その隣が給仕室である。
因みに、「山陰」ではオハネフ12の車掌室は使用されることは無く、
次位に連結されたスハフ12が乗務員の拠点となっていた。
オハネフ12の前身であるナハネ10は、全長を在来客車よりも500ミリ延長したものの、
寝台数を60としたために、その給仕室は在来のスハネ30よりも更に狭小だった。
このためか、後発のナハネ11(冷房改造後のオハネ12)は、寝台数を54に戻していて、
ナハネ10もナハネフ10への改造の際には、車掌室の設置のみならず、寝台の第1室を撤去して
業務用に転換している。
ただ、新製時の給仕室を車掌室に単純転換したのでは手狭過ぎたのだろう。
この緩急車改造にあたっては、従前の給仕室と第1室を複雑に分割して面積を確保している。
このため、車内では第1室が塞がって引き戸が設置されたに過ぎない一方、
寝台側の窓は、中央の窓柱を境に左半分が車掌室の、右半分が給仕室のものとなっている。
更に、昭和40年代の冷房改造に際しては給仕室はその対象とはならず、
多くは給仕室部分にドーム状の扇風機カバーを残したままとなり、これがオハネフ12の外観の特徴となった。
列車は松江を過ぎると宍道湖畔に出る。
併走する国道9号線を走る自動車を軽快に追い抜いきつつ宍道に至る。
終着駅目前の宍道でもゆったりと停車するのは、荷物輸送を担っていた頃の名残であろう。
かつてこの「山陰」を宍道で下車した際に、連結されていたマニ36から段ボール箱に入れられた、
ピヨピヨと鳴く騒がしい「下車客」があったことが懐かしく思い出された。
宍道を出発して回送列車同然となった「山陰」は、荘原・直江を過ぎ、
やがて一畑電鉄の線路に併走した後、あっけなく終着駅の出雲市に滑り込んだ。
終着駅で「山陰」の到着を待ち受ける接続列車は無く、構内は閑散としている。
そしてこの「山陰」もまた、終着のホームで長旅の余韻にひたることもなく、
何時しか本務機のDD51は引き上げて、入れ換え機のDE10がすぐそこまで迫っていた。
<オハネフ12と普通列車・山陰> 完
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